郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その3)郡上一揆の会)

1755(宝暦5)年

  7月16日 藩庁より、庄屋・組頭36人に出頭を命じられる。

    18日 郡中より選ばれた庄屋・組頭36人が笠松代官所へ出頭する。

    21日 36人の庄屋・組頭、検見取り受諾を命じられる。

        しばらくの猶予を願い出て、郡中の意向を聞くため11人の庄屋を郡上へ帰す。

    29日 この日までに、11人の庄屋と残りの庄屋百余人が笠松へ出頭する。

        庄屋に検見取りの受諾と16か条のお墨付を返すように要求、弾圧に屈し受諾。

 8月〜11月 母野(はんの・美並町)等に連日、百姓数百人が待機、庄屋の入郡を妨げる。

 8月12日 百姓有志70余人が、那留ヶ野(白鳥町)に集まり団結誓い傘連判状を作る。

   13日 百姓代表40人が江戸金森屋敷へ訴えるため江戸へ出立。

さらに33人も続いて出立。百姓大勢が太田の渡しまで見送る。

 10月23日 郡上百姓40人組の代表が江戸金森藩邸へ訴状を提出する。
           16か条に加え、新たに17か条を追加する。
           ※17か条の一部(◎橋を普請するとき、出たものには以前は米2升ずつ支給
       されたが今はそれもない。元のようにしてほしい。◎集めた御用金や参勤交代
       の道中金をかえしてほしい。◎自分の持ち山での伐採を認めてほしい。等々)

       百姓の代表全員を金森藩別邸へ監禁。郡内百姓の取締りを厳重にするよう指示。

       郡内、村方三役代表30名、幕府評定所へ呼び出される。

 10月25日 小野村半十郎が、飛脚に乱暴し免状を紛失させたとの理由で投獄される。

    末頃  剣村藤治郎・栃洞村清兵衛が江戸表の偵察に出立する。

     同  勝皿村小百姓が弾圧に耐えられず、検見取りの了承の詫び状を村三役に渡す。

 10月〜11月 検見取りに反対する百姓を厳しく取り締まる。
             その結果、5000人余の立百姓が700人ほどに減少。
      
      末頃  剣村藤治郎・栃洞村清兵衛が頼錦の弟・井上遠江守に40人釈放の嘆願書提出。
        百姓の窮状を訴える。
   
  11月26日 江戸城へ登城中の老中・酒井佐衛門尉(さえもんのじょう)忠寄に駕籠訴決行。
           那比村藤吉・東気良村善右衛門・同長助・切立村喜四郎・前谷村定次郎
           原村弁次郎水呑み百姓のため、訴状の願人から外される)

      次(年表 その4)へ続く

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