郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その4)(郡上一揆の会作成)

1756(宝暦6)年                        郡上一揆の会へ

 1  駕籠訴人の帰村を探るため、正月早々から足軽たちが村々を検分する。

 1月〜 駕籠訴の報が伝わり、700人ほどに減っていた立百姓が再び急増する。

 2月 2日 駕籠訴の5人が、幕府評定所へ呼び出されて出頭する。

 2月    南宮神社で作った庄屋連判状が藩庁に取り上げられる。

 4月 4日 郡中117か村の代表が「郡上郡村々傘連判状」を作る。

 9月 7日 金森頼錦、参勤交代で帰国(郡上に7ヶ月間滞在し、翌年4月江戸へ。)

 10月12〜19日 駕籠訴人の願いが一部聞き入れられ、入牢者の大方が釈放される。

  同月    村方三役代表各10人計30人(三筋)が吟味のため江戸へ呼び出される。

 10月24日 駕籠訴人5人と村方三役30人が幕府評定所へ呼び出され吟味される。

 駕籠訴人の批判に三役側は返す言葉なし。

 12月23日 駕籠訴人5人・村方三役30人、共に郡上への帰国を命じられる。

 

 1757(宝暦7) 駕籠訴人郡上へ!(思い出される南宮神社ロケ)

  1月 7日 駕籠訴人が郡上へ送り返される。駕籠訴人を迎える百姓の数知れず、

   直ちにそれぞれ村の庄屋宅に作られた座敷牢に監禁される(村預け)。 

  同月 ×日 藩主・金森頼錦に嘆願書を差し出す。頼錦は何の返事もせず4月江戸へ出立。

 3月 7日〜 帳元から郡中の立ち百姓に入用金の割当がなされる。

        明方筋では、何百人もの立百姓が何日も泊りがけで割当金を徴収する。

  同月 9日 立百姓3000余人が城下町の名主の家などで入用金の取立てを図る。

  同月20日 上之保筋の百姓が、未納者の家を回り、入用金を取り立てる。

 6月 3日 駕籠訴人切立村喜四郎・前谷村定次郎が連名で回状を回す。
        (「寝者は大敵、挨拶もならぬ」)

 徴収金が1100両を超える!

 6月 下旬 一揆費用のための徴収金が1100両を超える。

 
  次(年表 その5)へ続く