郡上一揆(郡上藩宝暦騒動)年表(その5)(郡上一揆の会作成)

1757(宝暦7)年                郡上一揆の会へ

     庄屋をはじめ立者への仲間入りが急増する。

10月26日 入牢中の八幡町新町の町方立者・太平治の釈放を求める暴動が起こり、
       西気良村甚助や寒水村由蔵等の活躍が目立った。

12月2日 気良村甚助が投獄される。

12月18日 甚助が何の取調べもなく、密かに穀見の刑場で打ち首にされる。

        甚助は「一郡に優れたる頓知発明、智仁勇の三徳兼備の人」といわれた。
        これが、のちに藩の処置不都合ということで金森家断絶の要因の一つに
        なったといわれる。


初の
乱闘騒ぎ


1758(宝暦
8)年
  2月24日 歩岐島騒動起こる。

            
寝百姓13人と足軽4人が、帳元の歩岐島村・四郎左衛門宅を襲い、立百姓の
             名簿や金銭等を残らず奪う。

       26日 3000余人の立百姓が歩岐島へ集合、足軽も30余人が到着、対峙する。    

    27日 足軽総勢80余人となり、抜刀して襲い掛かり大乱闘となる。
         この乱闘で、立百姓重傷8人・軽傷20余人。足軽負傷17人。
       ※ この間に、村預け中の駕籠訴人の定次郎・喜四郎の両人が脱走、
         江戸へ向かう。

     3月 1日  藩が郡中の寺院に対して、死人があれば傷の有無を報告せよと指示。届出なし。
       同      幕府は脱走した定次郎ら両人を探し出すよう厳しく命じる。
             切立・前谷両村の庄屋と組頭を江戸に呼び出し、30日以内に捜し出せと厳命。

      同     定次郎たちは、関の寄合所の四郎左衛門らと連絡を取り箱訴の計画を進める。

       20日  幕府の北町奉行の依田和泉守へ、歩岐島騒動について訴えたが取り上げられず。
            訴人の市島村孫兵衛・東俣村太郎左衛門・二日町伝兵衛ら9人。

箱訴の決行

     4月 2日 幕府の目安箱へ箱訴決行!
           訴人 市島村孫兵衛・剣村藤治郎・東俣村太郎右衛門・歩岐島村治右衛門・
               二日町伝兵衛・向鷲見弥十郎
 

次(年表その6)へ続く