郡上「憲法9条を守る会」準備会にて            2004年10月11日(月)夜 郡上市総合文化センター
佐藤とき子先生が読まれた
ある教え子の「父の思い出」(太字の部分を読まれました。)
 
 父はとても器用な人で、夏は鮎釣りや夜網、冬は竹細工や藁細工が得意でした。また、とてもやさしく子煩悩で、叱られた事は無く、よく昔話や、影絵をしてくれました。影絵は、納戸の中抜き障子にキツネ、イヌ、船頭などを写してくれました。船頭は手の甲を折り曲げて、三角の紙をツバで貼り付けて傘にし、箸を棹にして、「オンボーヨーイ」「オンボーヨーイ」と舟を漕いで見せてくれました。
 一年生に入学するする時は、早くからランドセルや、石板、筆入れなどを買って来て、名前を書いてくれたのはよいのですが、この年から尋常科から初等科へ変わる事を知らず、初一と書くべきところを尋一と書いてしまったのです。
 一年生の12月に戦争は始まり、三年生の11月には父に召集令状が来ました。父(33歳)は私(8歳)を頭に4人の子供とおばあさんを残して出征しました。私は学校から山田駅へ兵隊送りに行きました。同級生と一緒に並んで見送ったのです。
 なぜ、車窓近くまで行って「見送らなかった」のか、それとも「見送れなかった」のか、今でも残念に思っています。だんだん戦争も激しくなり、5年生の夏には終戦になり、父も帰ってくると思っていたのですが・・・・・・・・・・・・・・。
 近所の人達が次々に復員して来られるのに、父はなかなか帰ってきませんでした。1年近く過ぎた六年生の夏、父の戦死の公報が入りました。2年も前に台湾沖で船が沈没して、死んだと言うのです。もちろん遺骨もありませんでした。母は大瀬子の畑から帰って来たところで、戦死を知らされ、持っていたヒゴを取り落として泣きくずれました。幼い妹や弟は何もわからず、ヒゴから転がり出たナンバンキビやマクワウリ、センナリホウズキなどを手にして、はしゃいでおりました。その前におばあさんも亡くなっていましたので、子供4人かかえて、母はとても大変でした。私もよく学校を休んで、手伝いました。遠足や修学旅行にも行きませんでした。
 近年になり、横井庄一さんや小野田寛郎さんが南方の島で見つかった時、もしや父も何処かに生きているのではないかなどと思いました。今生きていたら、85歳、まだまだ生きておれる年です。親孝行がしたかったとおもいます。父33歳、母73歳で亡くなり、今は父母の写真を一緒の写真立てに入れて飾り、毎日水をあげ、手を合わせています。
 私たちも還暦をすぎ、子供2人、孫3人にも恵まれ、毎日が同級会?の私はとても幸せだとおもっています。  (平成8年3月)


 このあと、先生は、今の憲法第9条が、戦争による多くの犠牲の上に立ち作られたもので大事にしなければならないと話され、参加者に感動を与えました。

※ 議場に日の丸と恩師の言葉(2002年12月 川上朝史)へ                   朝史の日記へ