6 赤谷山の落城 ところがここでまた大事件が起きてしまいました。常慶(つねよし)の子・常尭(つねたか)が木越城の遠藤胤縁(たねより)を鉄砲で撃ち殺してしまったのです。 この時、撃ち殺された胤縁(たねより)の弟盛数(もりかず)は、苅安の自分の城から兄胤縁(たねより)の弔い合戦のため八幡の赤谷山の城へ攻め上ってきました。 永禄2年(1559年)8月のことでした。 この戦いは盛数(もりかず)の妻が常慶(つねよし)の娘であるという実に悲劇的なめぐり合わせでありました。 悲しい身内同士の戦いでありますので盛数(もりかず)は落ちのびる者は後追いせず逃すようにと堅く言い付けたということです。 赤谷山は火を発し炎々と燃え上がる中を、裏側の地獄谷へ落ちる者も多数ありました。 常尭(つねたか)は運良く逃げることができ飛騨白川の内ヶ島へ縁をたよって落ちのびました。常慶(つねよし)は傷を負い下田の北辰寺へ落ちのびました。(つづく)

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東殿山落城(永禄2年)1559年