教如上人が郡上へ逃れたことを示す古文書
「鷺森旧事記」(さぎのもり・くじき)
右両通之御書。ヒトヘニ阿闍世王ノ五逆罪ニ過タリ。始ノ御書ノ直筆。安芸国仏護寺ニアリ。後ノ御書ハ仏護寺ノ末寺ニアリ。如此御書安芸へ最初ニ遣シ給フ事ハ。先年大坂御籠城ノ時。兵糧米調略ノ為、毛利家ヘ相談ノタメニ、教如御渡海アリシ時、僧俗門徒御対談ノヨシミ有ユヘ、下間按察使ヲ使トシテ被遣ケル。仍按察使モ御勘気ヲ蒙り二度鷺森ヘ来ル事アタハス。然共安芸ノ国僧俗一図同心セサレハ、イカヽセント思召案シ給ヒシニ、信長此事キヽツケ、教如ノ追手ニ参ルヨシ頻リニ風聞シ、雑賀モ一図同心セサレハ、和歌浦ニモ御逗留叶ハスシテ、和歌浦ヨリ乗船アリテ同国日高郡阿尾浦ヘ越テ、阿尾ノ道場ニ十六日御滞留有シニ、爰ニモ大坂ノ次第ヲ聞テ、何事ヲ仰セラレテモ請合不申。剰近在ノ者トモ教如上人ヲ討テ、信長ヘ注進スヘキ結構有之ヨシヲ聞給ヒテ、浦人勘大夫、十郎大夫、次郎兵衛、四郎兵衛四人ヲ頼給ヒ、鈴木岩ト申所ヨリ乗船有テ、又和歌浦ヘ立帰テ、其夜ニ大和路サシテ落行。美濃国岐阜ノ城下船橋願誓寺(
※ 郡上へ入ってからは、美並村苅安の乗性寺(東家・遠藤家の菩提寺)を頼り、その後、奥明方の西気良村(現在、郡上市明宝西気良)へと進んだ。安養寺の手引きである。山内一豊の妻・千代の母である友順を得度させたのが教如である。又、母の付人埴生太郎左衛門にも得度している。
教如屋敷跡 教如上人住居跡 ※ 郡上市明宝大谷 養泉寺住職 名畑崇住職の講義資料(2002年6月30日)より抜粋