御霊屋
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14 母・友順尼と乗性寺 天正8年(1580)石山本願寺と信長の10年にわたる争いに顕如上人が和睦を結ばれた時、子の教如上人は強く反対しました。上人が信長の追及を逃れるため一時この乗性寺へ入り、安養寺などの手引きもあって当時の郡上郡奥明方気良の山中へ3年あまり隠れ住まわれたことも、見性院の母・友順尼(ゆうじゅんに)達との目にみえぬ縁の糸を思わずにはいられません。 この時の教如の住まれた住居跡は明方の山中にひっそりと残っています。 また御側(おそば)去らずの家来・埴生(はぶ)太郎左衛門高照(たかてる)西教房照山(さいきょうぼうしょうざん)と法名をいただきました。 その後、友順尼の最期(さいご)を見届けた(とう)家の忠臣・埴生太郎左衛門すなわち西教房照山は乗性寺(じょうしょうじ)住持17世の位につきました。(つづく)

母・友順尼と乗性寺