「郡上一揆」遺跡めぐりに参加して (2004年5月7日)

郡上一揆遺跡めぐりは、好評だった昨年の白鳥・大和方面に続き、今年は八幡・明宝の遺跡を回った。2004年5月7日は好天。30名の参加者が9時、総合庁舎前を25人乗りマイクロバスと自家用車1台で出発。地元テレビのINGや中日・岐阜の各新聞社の記者も随行。会費は交通費・昼食代・御礼その他費用一切を含み会員は2000円で。

最初に那比村の藤吉の墓へ。解説は佐藤とき子先生が。藤吉は江戸で御法度の駕籠訴をした5人の一人で死罪に。37歳だった。真っ二つに割られた墓石が一揆の怨念のすごさを象徴する。劇団民芸の箕浦康子さん(岐阜出身)が、一昨年八幡でこの藤吉の話を題材にし一人芝居「不断煩悩得涅槃」を上演し好評だった。藤吉につけられた法名「釈知禁」と彫られた墓の隣に義民碑が並び立つ。近くにある藤吉稲荷は藤吉の守り神で若宮八幡、弘法様と三社が並ぶ。

次は穀見の処刑場跡へ。なぜか生々しい晒し首の想像はここでは出来ず。頼山陽の歌碑がくっきりと見えた。車窓から中野の巨大な郡上義民碑を見上げる。ドラマ「花へんろ」と同時代の昭和初期に作られた。発起人の一人清水與三吉氏は市島村・孫兵衛の末裔。

車は城山のホテル積翠園前の丸い傘連判状碑前へ。映画「郡上一揆」の原作、劇団はぐるまの「郡上の立百姓」ラストシーンの雪の場面の話と、劇団民芸の全国公演の年にこの碑ができたと和田昌三会長。ここで全員の記念写真。郡上踊り宝暦義民祭の縁日踊りは毎年ここで踊られる。

車は愛宕公園へ。ここに郡上で一番古い明治38年建立の宝暦義民碑がひっそり立つ。日露戦争の真最中の頃である。揮毫は貴族院副議長もした東久世通禧伯爵。午前の予定をたっぷりこなし、一路昼食会場の市島の「たかお」へ。

食事をしながら午後の予定の河合利雄さんの話を。最初は江戸で箱訴をして死罪となった市島村孫兵衛の墓へ。42歳。飛脚として何度か江戸まで行き来した、たくましい気力と体力の姿が想像される。車もない時代、孫兵衛達の苦労が想像つかない。表に釈正信・宝暦八天寅12月25日と刻まれる。判決即翌日の死刑執行である。

次はすぐ近くに国指定登録有形文化財指定の河合家。大きな間口のどっしりした200有余年を経た主屋へ上がらせてもらい仏間や貴重な金森頼錦公の布袋図などを拝見する。宝暦騒動の一方の当事者の文化人の一面をここでも目の当たりに知る。我家(川上)のご先祖の主と思えば複雑さを覚える。近くの孫兵衛辞世の句の書かれた碑を見て明宝へ向かう。

気良の明宝歴史民俗資料館で案内の千葉五平氏とおち合い、まず東気良村長助の墓へ。長助も藤吉と同じ駕籠訴人で死罪だが63歳で判決直前に牢死。よくぞその年でと驚く。無名墓を後裔の千葉氏が映画「郡上一揆」の記念にと新たに作られた立派なもの。

すぐ近くの千葉孫兵衛さんの囲炉裏の家を見に。鎌倉時代より780年間も燃やし続けておられ、髭のご当主が私たちの前で灰の中から火を赤々と燃やしてくださる。部屋いっぱいの大きな仏壇に驚嘆。

次に同じく東気良村の善右衛門の墓へ。45歳。映画では山本圭がこの善右衛門に扮し、お墨付きを大群衆の前で読み上げるシーンが目に浮かぶ。奥さんがぼろぼろの古文書を出してくださる。読むと16か条の要求書の写しであった。書き屋の手と思われる達筆である。一揆の中心人物の墓がこんなところに、との思いが新たの墓である。

気良の最後は西気良村・甚助の墓へ。寝者やそれにつながる名主などを襲った張本人としてひそかに打ち首とされたが、これが江戸での裁判で金森藩の処置不都合としてお家断絶の原因の一つとなったという。後裔の佐藤保夫妻のサイダーの振る舞いが、乾いた喉と気持を潤した。

そして、最後の遺跡は、寒水(かのみず)村の由蔵の墓と屋敷跡。由蔵は帳元で駕籠訴や箱訴人には名が無いが39歳で死罪獄門となり、定次郎・四郎左衛門と共に穀見に首を晒された三人のうちの一人である。墓は嘉喜踊りの白山神社下の寒水川を渡った橋のすぐ近くにあった。草生した石垣だけの広い屋敷跡と、山側の険しい斜面の立派な石積みの上に墓が。後裔の和田政司氏の父・利右衛門さんが墓の「しん抜き」をして新たな墓を八幡に作ったが、地元の増田巌氏がこれを掘り起こして立て直した。

 

最後は、すぐ近くに熊崎義登さんの彫刻小屋があり豊満でユニークな裸体彫刻を見たあと磨墨公園へ立ち寄り明方を後にした。

愛宕公園の宝暦義民碑前で
郡上八幡文化協会・会報「べんがら格子」投稿文
郡上演劇友の会 川上朝史