川上朝史の実況録音放送   2006年6月5日 郡上市八幡町 慈恩禅寺にて収録。

NHKラジオ「はちまるちゃん」のテーマ音楽が流れる。(“はちまる”はNHKラジオ創立80年の意味)

水谷アナウンサー:
「旅するラジオ“はちまるちゃん”は岐阜を旅しております。旅をしてさまざまな発見をすることがあります。ここにこんな名物があったのか、ここにこんな名所があったのか、あの人物はここの生れであったのか、土地を知るのには、やはり地元の人に話を聞くに限ります。今回の“はちまるちゃん”は岐阜県郡上市八幡町からお送りします。旅するラジオ“はちまるちゃん”は悠久の歴史も旅します。」(大きな拍手}

水谷アナウンサー:
皆さんこんにちは!旅するラジオこんにちは“はちまるちゃん”です。今週は岐阜県を旅しています。今週の旅するアナウンサーはわたくし水谷彰宏(あきひろ)です。どうぞよろしくお願いいたします。(拍手と歓声)

今回は郡上市八幡町から、わたくしが今、慈恩禅寺というお寺の本堂に立っています。外を見ますと緑の木々の香りが流れてきます。そして一歩、この本堂に入りますと香の香りが漂ってきまして一種厳粛な雰囲気になっています。
では、この郡上市について地元NHK岐阜放送局ふるさとサポーター船岡久嗣(ふなおか・ひさつぐ)アナウンサーに紹介させますが、船岡さんは岐阜へ来て?

船岡アナウンサー:
はい、もう3年目になりましたね。

水谷アナウンサー:
もう、岐阜の隅々までみんな知っている!?

船岡アナウンサー:
もう、(ちょっとトーンが落ちて)ほとんど知っています。(水谷アナほか一同大笑い)

水谷アナウンサー:
この郡上の町は非常に風情(ふぜい)のある町並ですね。

船岡アナウンサー:
そうですね、岐阜市から車で高速に乗っておよそ1時間(※正確には35分なんですよ、船岡さん。:管理人)ぐらいの町なんですが、山の上には郡上八幡城がありまして、そのふもとは城下町が広がっていますね。歴史がある街並です。吉田川が町の中心を流れていて長良川に続いているんです。それから、ここは郡上踊りで有名な・(水谷アナ:そうですねー)はい、およそ400年の歴史を誇ると言われているんですが国の重要無形民俗文化財に指定されています。お盆の4日間には徹夜踊りがあるということで有名です。

水谷アナウンサー:
それじゃー地元の方はみな体力のある方ばっかりですね。

船岡アナウンサー:
そうですね。皆さん、いらっしゃる方はいかにもありそうな・・(会場はざわめきと笑い)

水谷アナウンサー:
手を広げている方もいらっしゃいますが。

船岡アナウンサー:
今日はこの町からお伝えしていきます。

水谷アナウンサー:
はい。それでは、この町から地元の思いを伺ってまいりましょう。

♪テーマソングが流れ、子供たちの大きな声で 「旅するラジオ、こんにちは!“はちまるちゃん”です!」

(大きな拍手)
水谷アナウンサー:
岐阜県郡上市八幡町からお送りするこんにちは“はちまるちゃん”です。
ねぇ船岡さん、今日のテーマといいますか、この番組の主人公が、

船岡アナウンサー:
水谷さん、ちょっと気付かれたと思うんですが、町の商店街を歩いたときに、「千代の古里」というポスターがあったんですよ。

水谷アナウンサー:
もう、いたる所にありますねー。

船岡アナウンサー:
ですよね。いまNHK大河ドラマ「功名が辻」が行われていますが、その主人公の「千代」の出生地と言われています。あの近江・滋賀県の米原市と並んでここも出生地というふうに言われているんです。
その論拠となる家系図がここ、慈恩禅寺で発見されたということなんです。
今日は住職の東宜隆(とう・ぎりゅう)住職にお越しいただきました。

水谷アナウンサー:
よろしくお願いいたします。(住職が登場。大きな拍手)

慈恩禅寺・東宜隆住職:
こんにちは。

船岡アナウンサー:
お話に入る前に、東住職。東と書いて“とう”さんとお呼びするんですが、こちらのお庭が実に結構なお庭ですね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうですね。このお庭は造園されましてから400年ほどの歴史を持っておりますよ。
こちらも、やはり千代のお兄さん・八幡城主の遠藤慶隆がスポンサーでですね、このお寺の最初の和尚さんが造られました。

船岡アナウンサー:
その庭のある慈恩禅寺なんですが、この千代出生説の根拠とはどういうことなのでしょうか。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうですね。まず、この慈恩禅寺は八幡城主二代遠藤慶隆がですね開基となりまして新たに建てられたお寺であります。
遠藤家に関する古文書というものがたくさん伝えられているわけですね。その中で、千代が郡上で生まれたという説の根拠の一つにですね「遠藤家御先祖書」という東家遠藤家の家系図と、それから「東家遠藤氏書紀」という古文書があります。

船岡アナウンサー:
こちらにいろいろな家系図、それから書紀、古文書があるわけですね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうですね。これらの2冊の古文書の中にですね、「初代郡上八幡城主・遠藤盛数の女、第二代・遠藤慶隆の妹が山内対馬守御室」とありまして、山内一豊の妻が郡上八幡のお殿様の娘であることがはっきりと記されておりますね。

水谷アナウンサー:
そのお城が、すぐ出ますと右手の山の上に見えるわけですが、そこの娘が山内対馬守御室というふうに記されているわけですね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
はい。これらの古文書はですね、明治の頃から地元では知られる方は大勢あったんですけれどもですね。
この系図自体は寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅしょかふ)という徳川幕府が出したものに納められた権威あるもなんですけれども、この郡上方面以外ではあまり知られておりませんでしたですね。

水谷アナウンサー:
地元では知られていても、なかなかほかの土地では知られていない文書だった。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
はい。大正時代に郡上郡史の作成に当たりまして郡上説を記載したいということで試みたわけですけれども編纂にあたりました歴史学者がこの近江説を採りまして郡上説を削除してしまったということがあります。これを遺憾とした郷土史家がですね独力で郡上郡史をまた再編しようとしたのですが不幸にもすべての原稿や資料をですね大火事で消失してしまいまして、それらを実現することが出来ませんでした。

水谷アナウンサー:
貴重な資料が全部焼けてなくなってしまった。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうなんです。そのために郡上説と対比検証もされないままに近江説が通説となってしまったのです。そんな中で司馬遼太郎の「功名が辻」が世に出されていったわけです。その後、昭和50年代に入りまして改めてこの郡上説に光が当たってですね現在に至っているわけですね。

水谷アナウンサー:
そして改めて、今年大河ドラマで「功名が辻」で。そうしますと、こちらへ訪れる皆さん、千代に関して関心を持って訪れる方も多いでしょうね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうですね。この岐阜県内外を問わずですね、このお寺を訪ねていただく方々はですね、この郡上八幡に来て「千代の里」と書かれたたくさんのポスターや幟を目にされまして、どうして千代の里なのかと、疑問に思っておられるんですね。そういう中でですね、このお寺に足を運んでいただきましてですね、千代の家系図やその他の史料、そういうものを見ていただいて、本当に初めて、そのことにつきましてはっきりと納得できましたと、千代さんのお兄さんの建てたお寺、そこに来ることが出来たんだ、ということでですね大変喜んでいただいております。

水谷アナウンサー:
はぁー。ここを訪れた方には、皆さんに住職が御説明をしていただけるんですね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
はい、もっと詳しく御説明させていただきます。

水谷アナウンサー:
今は、そうですね、5分から6分ほどで説明をしていただいたんですが、じゃ、すべて説明していただくと時間的には・・。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
(笑って)そうですね、だいぶ長くなりますね。

水谷アナウンサー:
じゃあ、こちらを訪れる場合は1日ほど時間を取っていただいて(大笑い)・・、そのような史料もこの本堂に家系図などもかけてありますけれども、是非いろんな方に訪れていただきたいと。

慈恩寺・東宜隆住職:
そうですね。大勢の方にお出かけいただきたいと思います。

水谷アナウンサー:
はい、それでは船岡さん、もう一方ご登場いただきましょうか。(ここで、わたくしが登場)

船岡アナウンサー:
はい。御紹介しましょう。地元で歴史を研究を続けている川上朝史さんです。白いワイシャツにですね、ネクタイ、そして眼鏡をかけて、いかにも研究していらっしゃるなーって方なんですが、よろしくお願いします。

川上朝史(私):
よろしく、お願いいたします。

船岡アナウンサー:
簡単に御紹介させてもらいますと、川上さんは親子二代、20年以上にわたって(山内)一豊夫人顕彰会という会を作って歴史研究を続けてきました。研究を重ねるうちに、郡上出生説に確信を持つようになったということですね。

川上朝史(私):
はい、今、慈恩禅寺さんの系図以外にも3つ重要なものがありました。
一つは、土佐から出てきた系図です。これは、お千代さんの甥ッ子が土佐藩に召抱えられまして、その方の残された系図が郡上とまったく一致いたしました。これが銅像を作る大きな拍車となりました。
もう一つはですね、私はそれでもまだ疑っていたんですね。まあ、親父ですから疑いたくはないですが、それでも、まだ、と言うのは、お千代さんが山内家へ行って結婚されたのならば、それを証明する何かが残っていたと、贈り物ですとか、何かやり取りしたとか、そういうものがないかと、こう言うふうに考えていたんですね。それがですね、長浜城歴史博物館にございました秀吉の陣立て朱印状というもの

船岡アナウンサー:
陣立て書というのは?

川上朝史(私):
はい、これはですね、富山の佐々成政という武将を秀吉が攻めたときの戦の組立図ですね。それが出てきたわけです。その中に、山内家と遠藤家が同じグループですね、山内伊右衛門一豊、それからこの慈恩禅寺をお建てになりました遠藤左馬助慶隆、これらがですね同じ三番手のグループの中にいたんですね。これに赤い秀吉の朱印がありまして、これを見ましてもう私は100%、何のための千代の一豊との結婚だったのか、ということがわかりまして、もう親父を疑いませんでした。(笑い)

船岡アナウンサー:
でも、川上さん、そういう史料を初めて御覧になって、「あッ、これだ!」(※小牧長久手戦でも)と思った瞬間は嬉しいでしょうね。

川上朝史(私):
はい、その写真を長浜城で撮らせていただきましたが、手が震えました。

船岡アナウンサー:
長浜へも行かれて、そして明日からは高知を訪れる予定もあるみたいですね。

川上朝史(私):
はい、今度バスで3日間高知へ行きます。はるばる、この郡上八幡からお千代さんが一豊さんと二人で行かれた高知、お料理もおいしいです、すばらしいところですので楽しみにしていきます。

水谷アナウンサー:
そういう、いろいろ地元の皆さんが研究していらっしゃるんですが、冒頭にも御紹介がありましたとおり、この郡上といいますと“郡上おどり”ですよね、船岡さん。

船岡アナウンサー:
はい、その郡上おどりと、そして千代さんというのが、およそ10年前につながりました。「千代と一豊の夕べ」というのが郡上踊りの期間中に行われるようになったんです。千代を讃える唄にあわせて郡上踊りを踊るものなんですが、踊るときに唄われる歌詞というのが、今、ここに集まっていらっしゃる皆さんを含めて郡上の人たちが詠んだ句をつなげて作られたんですよね。

川上朝史(私):そうです。

船岡アナウンサー:
ちょっと、御紹介させてもらいます。
「名馬与えし一豊の妻 今の世にまで名が残る(今町 杉本清治)」といった千代の逸話をもとにしたもの、それから
「千代が生まれた郡上の里は 水もよければ嫁も良い(小野 清水佐幸)」と、郡上の良さを歌うものとさまざまなものがあります。

水谷アナウンサー:
はい、こういう形で、東住職、次の世代の方たちにも地元にこういう歴史があったんだ、こういう人物がいたんだということは受け継いでいってほしいですね。

慈恩禅寺・東宜隆住職:
そうですね、とてもそのことは願っておりますね。

水谷アナウンサー:
そのためには、この郡上おどり、一年間で一番熱くなる日と言うんでしょうか、みなさん、川上さん、楽しみにしていらっしゃる一日なんでしょうね。

川上朝史(私):
はい、土佐に渡った古今和歌集と一緒に楽しみにしております。

水谷アナウンサー:
はい。それでは、その郡上おどりの雰囲気を、ちょっと一足早いんですが、味わっていただくことにしましょうか。

船岡アナウンサー:
はい。郡上おどり保存会の皆様です。「千代と一豊の夕べ」で披露される郡上おどり、お願いします。

保存会の皆さんのお囃子と唄:(かわさき)
「千代がなー♪、生まれた♪郡上の里は」、(アーソンレンセ♪)、「水も良ければ♪嫁も良い」、(ヨメー、エ、モヨーイ♪、ノー、ヨメモーヨーイ)、(アーソンレンセ♪)、(ミズーモー♪、ヨケーレーバー♪、ヨメーモ、ヨーイ)♪

つづく・・・・・・           山内一豊夫人顕彰会へ     トップページへ