37●おわりに(見性院の一生をふり返って)

  以上のような意味で、私は間違っている歴史は正さなければならないと思います。しかも、このような立派な見性院という方が郡上の方というのです。見性院は関ヶ原の合戦の時にもですね、その直前に栃木県の小山の夫のもとに密書を送られた。そしてその密書によって大坂方の様子を家康の方へ流して関ヶ原の合戦を有利に導いたなど、いろいろお手柄もあり、鏡台の中に入れていた小判を出して馬を買ったとか、そして夫を助け貧困を乗り切ったとか色々なことがありますが、そういうことは今日は詳しくお話しませんでしたけれども、そういう立派な女性だからなおさらです。この間、サミットに行った時に高知新聞客員の山田一郎さんの講演の中にありましたが、見性院様の作られた和歌を見ると、確かにこの方は古今和歌集を研究しておられる方だ。そうでないとこういう歌はできないという事でした。その一つ

   悟りへて 迷いの雲の 晴れぬれば

           真如の月を 見るぞ嬉しき

というのです。これは、たった一人の與祢(よね)姫を(長浜の大地震で)失い、そしてその後、お子様に恵まれませんでした。そうして最期まで一豊公と與祢姫のお墓のお守りをしてですね京都で一生を終られました。ある意味では、お父さんに早く別れ(わずか3才)お母さんと流浪を続け、そして一豊に嫁がれてからお子様がそういうことになりまして、非常に寂しいものがあったのではないかと思います。そして夫に先立たれて、もう何も土佐に居る気持ちがなかったんでないかと。だからひたすらに、お墓のある自分の與祢姫と一豊様のお墓のある京都へ走って行かれたんだと私は思います。私も子どもがございません、本当の子どもがございませんでしたから、この見性院の、子どものない見性院という方の女性としての気持ち、その夫に別れた後の気持ちはひしひしと私にはわかります。一周忌も済まないのに京都へ行ってしまったのですね。家来も止めたそうですけど行ってしまわれた。私はその見性院のやるせない気持ちが身にしみます。まだ証拠不十分で研究中のものがありますが、今日は一応、見性院様の御一代記を話させていただきました。どうもありがとうございました。(大きな拍手)

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