八月の郡上一揆 (和田昌三「郡上一揆の店」店長調べ)
1754(宝暦4)年 8月
2日 郡中の百姓が、南宮神社に集まり傘連判状を作って団結。
3〜4日 郡奉行宅へ庄屋が検見取撤回を嘆願。取上げられず。
5日 百姓千数百人が奉行所宅へ嘆願。「今年は免除」というので庄屋達は了解するも百
姓たちはこれを聞かず。庄屋は手を引く。
10日 数千人の百姓が、八幡城の御蔵会所へ押寄せ、検見取の撤回と十六か条の要求を
認めさせる。 (その後、江戸藩邸が前記約定を撤回、検見取を強行。)
1755(宝暦5)年 8月
12日 百姓有志七十余人が那留ヶ野(白鳥町)に集まり団結を誓い、傘連判状を作る。
13日 百姓代表四十人が、先の十六ヶ条に更に十七ヶ条の願いを加えて江戸金森屋敷へ
訴えるため江戸へ出立。
1758(宝暦8)年 8月
6日 行方不明で尋ね人となっていた駕籠訴人・前谷村定次郎と切立村喜四郎が、依田
和泉守宅へ自首、入牢。
27日 幕府詮議掛りが江戸城中で、八幡城主金森頼錦を尋問。
28日 前記尋問の結果を、幕府老中堀田・酒井両老中に報告。
29日 頼錦を再尋問、病気ということで頼錦邸へ出張尋問。