「土佐史談」157号(昭和56年7月31日印刷発行)(※1981年)
豊秋さん、先祖・山内一豊さんへ突撃インタビュー
豊秋 「一豊さん。曾孫(ひまご)の曾孫の又、曾孫の・・豊秋です。いろいろ伺いたい事あるんだけど」
一豊 「今更、何んじゃ」
豊秋 「私、貴方がたのお陰で、時々テレビに引っ張りだされる。『あんなしっかり者の奥さんじゃ、息が
つまるだろう』って言うんだけど」
一豊 「お前、わしらは、戦いの明け暮れじゃ。息がつまる間なんかありゃしない。明日知れぬ身の一夜
が如何にあったか、わかるだろう。それにな、あれは大柄だが、なかなか美形でな。よく気はつく
し、わしにはゾッコンじゃ。根が朗らかで、夜のサービスも・・・」
豊秋 「ウワー。よくよく相わかりました。この間、日比谷の芸術座で、永井路子さんの原作の『千代の
小袖』が上演され、十朱幸代さん扮する千代夫人の留守の間に、赤ん坊を抱いた女性が現われ、
貴方等大慌てでした。あれ本当なの?」
一豊 「これこれ、あれに聞こえる。小さい声で云え。わしもなかなか、艶福じゃろう。」
豊秋 「やっぱり恐妻組合の会長格だな。それで、どうなんです?」
一豊 「残念ながら、やっぱり違うんじゃ。誰かが云ったとおり、キー預ってエンジンかかりっこないじゃ
ないか。よね(注:一豊夫妻の一粒種)が長浜の地震で死んぢまったので、家内が捨子を拾って
来たんじゃ。育児本能ってやつで、それに子供を手元に置くと、(次の子が)生まれるなんていう
し。あれもわしの実子がほしくなってたから、本当なら白状する所じゃが。湘南を出家させたのは
家内じゃが、二人は終生仲良かったじゃないか。」
豊秋 「御城に城西の楠子さん等が、おかみさんの銅像建てちゃった。貴方のは、(先の戦争に)供出し
たまま建っちゃいない。司馬さんが、『功名が辻』に、奥さんに飼育されといて、だんだん云う
こと聞かなくなったって書いている。大体人気がないんだよ。」
一豊 「どうせ女性にゃ、かなわんよ。」
豊秋 「おかみさん、馬買ってくれたのは、本当?」
一豊 「あれは本当じゃ。」
豊秋 「うちにゃ記録がないよ。京の馬揃えなんて、時代も変だし。永井さんとテレビに出たけど、彼女は
貴方の演出だって推理していた。」
一豊 「わしの沽券に係ると思って、だれも書かなんだのじゃ。若い頃のことじゃった。」
豊秋 「奥さんは、若宮氏なの?。郡上八幡の遠藤さんじゃ、次女が嫁入ったと系図に書いてるが、当時
の貴方にゃ相手が偉ら過ぎるけど。」
【注:この一文を書かれたのは今から25年前(1981年)です。豊秋様もまだ郡上への調査もこれからという頃の御感想です。“身分が違う”と思われていたようです。この年の7月7日、郡上八幡の我家や慈恩禅寺へもお越しになりました。郡上遠藤氏説をご研究なさった結果、“山内家はこれを見過ごした感がある。私の気持ちはだんだん八幡説に傾いている”との結論を下されました。川上朝史(2006年)】
一豊 「安直に人に聞くでない。よく研究しろ。」
豊秋 「ハイハイ。高知城はあの頃本当に必要だったんですか。張子の館ぐらいにしといて、経済開発
やった方がよいと思うけど。」
一豊 「考え方の問題じゃな。結果論かもしれん。まだ、あの時には、大坂方も健在だし、わしには必要
と思われたのじゃ。」
豊秋 「加藤嘉明さんの松山城はデッカイよ。」
一豊 「あんなに大きな城作ったら、取上げられてしまう。あそこは江戸幕府でほしい所だ。何故かわか
るか。」
豊秋 「陸大(注:陸軍大学校)の試験みたいだな。そりゃァ、対毛利、対島津の助攻作戦の基地として
です。」
一豊 「まァ、それくらいわからにゃ、参謀は首じゃ。」
豊秋 「高知城造ってる時、菩提寺や墓所を筆山に持ってったのは、どうしてなの?地相が南北反対
だって意見が出たのに、貴方と康豊さんとで、決めちゃったんでしょ。」
一豊 「お前はどう思うか。」
豊秋 「又来た。城の弱点補強でしょう。小高坂方向に次いで、筆山方向が弱い。あそこから大砲で
撃ったら面白いな。」
一豊 「これ。身内だとて許さん。口を引裂くぞ。」
豊秋 「海女じゃあるまいし。掛川城は随分大きな計画でしたね。皆まで果たさなかったけど。」
一豊 「海道の要地なんじゃ。東西の主決戦場たり得る。詰めかける味方の大軍を、収容し戦略展開す
るに足る要地確保が、必要じゃ。」
豊秋 「関が原では、よく徳川方に徹底しましたね。奥さんと息がピッタリだ。」
一豊 「うちは、もともと秀次軍団じゃ。わしは長浜時代は公の補佐役で、近江八幡の城下では、公は
今だに名君の名が高いんじゃ。でもその後の補佐役に人を得なかったし、秀頼卿が生まれたり
で、変になっちゃった。三成一派には、我々も随分いじめられ、太閤はボケちゃうし、到底うだつ
が上がりゃせぬ。北ノ政所の見らるる通り、次期政権は家康公と見定めたのじゃ。天下泰平は、
当時の至上命令じゃった。」
豊秋 「出征時、在川和尚と問答し、旗を貰ったね。」
一豊 「あれで、はっきり徹底できた。人間、大事を前に、拠りどころがほしくなる。本来、弱いのだ。」
豊秋 「奥さんの手紙、よい時に着いたね。」
一豊 「本当に適時じゃ。小山の作戦会議の前夜だ。近江出身の田中孫作を使者としたのも、千代の
心遣いじゃ。地元の方言で、関所が突破できた。主文は封のままで、野々村迅政に持たして
やったら、すぐ家康公に呼び出された。」
豊秋 「そこで夜中に何話たの。」
一豊 「まず作戦の意見を聞かれた。そこで東方持久、直に西方に決戦を求むべき旨申した。そして
掛川城の献納と人質提供を申し出たら、流石の家康公も喜んだな。そこで、徳川への、御味方と
西方転進とは、台風の目みたいな福島正則に発言さすことにして、黒田長政が説得に行った。
わしは城地献上と人質との発言をすることとし、会議では予定通りの演出だ。」
豊秋 「奥さんの情報は、どんなことだったの。」
一豊 「西軍不統一の実状と、我々の人質家族の状況だ。ガラシャ夫人の犠牲で、石田一派は手控え
した。家内は精々徳川家への忠節を力説し、これは早速回覧されて、情勢作りに効果を収め
た。」
豊秋 「まさに共かせぎだね。智将・市川信定を東征中途の丸子之宿から奥さんの所へ遣ったのは、奥
さん孝行かね?」
一豊 「あれも心細かったのでよろこんだが・・・」
豊秋 「本音は、優秀な情報参謀の派遣だろう。一石二鳥だね。決戦に先立ち、犬山城を無血接収した
のは、貴方の大功だと思うけど。兎角世間はチャンバラが功名と思うみたいだが。」
一豊 「その通り。まあ犬山は、多分に下地があったけど。流石に家康公は、小山会議の状勢を作りを、
『木の幹だ』と褒めてくれた。」
豊秋 「土佐の国もらってどうだったの?」
一豊 「まずは一国一城の主となった。千代の馬代も返せるし、家来共にも報いられる。しかしえらく難
しい所くれたと思ったな。」
豊秋 「家康公は、そう簡単に物くれんでしょ。」
一豊 「まァ、わし等は先進地域を歴任し、スタッフ共々、政治のベテランと見込まれてたろう。徳川家と
しても、ゴタゴタは避けたい所だ。土佐は開発度は低いが、これは一面将来性に富むとも見られ
るし、平地が少ない反面、石高に計上されない山林資源が膨大だ。俗説の120万石も、全くの
空言とは云われない。」
豊秋 「入国直後の角力興行で、ブラックリストの逮捕処刑は、貴方も陰険だって評判悪いよ。」
一豊 「嫌なこと云うな。手前ならどうするか。」
豊秋 「ウーン。私も釈迦やキリストじゃない。やはり、やるべきだと思うな。ただ、決断がついたかな。
これ、貴方の発案ではないでしょ。」
一豊 「わしの発案ではないが、わしが決裁したからわしの責任じゃ。兵農分離も刀狩も出来てない上
に、長宗我部氏の壊滅で、かつて四国制覇から、全国をねらった誇り高き土佐武士が、知行と
武士の身分とを失ってしまうのだ。そのまま治まる筈がない。わしには粛清が必須と思われた。
さもなくば。相次ぐ反乱の為、莫大な血が流れ、封土は没収されていよう。わしは藩政確立の
ためには、何と云われてもかまわない。」
豊秋 「これは執念だな。実はまだ聞きたいことあるけど。」
一豊 「はっきり云え。本山一揆のことだろう。」
豊秋 「御名答。史家は一豊の一大汚点だって云ってるよ。おきることわかってて放っといたって。」
一豊 「どうせ、どっかでおきなきゃすまんのだ。あそこで幸せ。全日本的な時勢のバックで武力発揮
し、あれ以来反乱が根絶したではないか。もっとも、本山を領地させた山内(永原)一照は、
少々政治性に欠けてはいたが。」
ここで、二代藩主・忠義さんが、・・・
豊秋 「やっぱり戦国人は荒っぽいな。食うか食われるかだ。孔子様の教えなんか知らなんだろ。・・・
それから今度は忠義さん。私、前号の『史談』に貴方のこと書いたけど、貴方はどうして野中兼山
を見捨てたの。皆怒ってるよ。」
忠義 「とんでもないこと云う野郎だな。まァ、云い訳みたいで胸くそ悪いが、お前考えてもみろ。俺は
藩主を52年やった。そして中風でひっくり返ったが、それからまだ7年粘った後、兼山の失脚と
なる。どだい、27年間開発の強行だ。二次や三次の5ヵ年計画なんざ可笑しくて。それでいつ
打切ろうかと苦慮するうち、兼山一派は藩政界から総スカンだ。藩主・忠豊を押し立てた弾劾
だが、彼も大抵爺さんになりかけてて、俺に直結している兼山を好かんのは無理もない。それに
藩に大功ありとはいえ、幕府からすっかりにらまれちまって、こちらまで危ない。俺が藩主に返り
咲きゃいざ知らず、これは健康からも不可能じゃ。だから彼に妥協するよう申してやったが、剛情
で、辞めたいと抜かしよる。俺も疲れた。もう休みたい。とすれば彼の罷免以外に手がないよ。」
豊秋 「貴方、兼山がやめた途端に相撲と踊だね。孫の豊昌つれて。子供みたいでおかしいや。」
忠義 「本卦返りだ。人生最後の1年間じゃよ。」
そして、いよいよ、夫人・見性院さんも出てきて・・・
・・・・以上の悪文少々気をとがめて、ふらふらと社殿に額突くと、忽ち声あり。
一豊 「コラ、貴様俺の名をかたって、勝手なこと抜かしとる。わしは一切知らんぞ。渇!」
見性院 「そなた。なんということを。わらわが一豊様にサービスしたとやら。そりゃ殿の為なら、わらわ
は・・・いや違った。そなたは今後は口を慎みなされ。喝!」
豊秋 「ウワ。二人掛かりじゃ適わない。土佐って何て熱いんだろう。」
忠義 「俺は一番怖いんだぞ。貴様江田文に言付けて、上意討ちにする所だが、わし等の『公紀』出版中
なので、先ずは屹度叱り置くぞよ。」
豊秋 「オー怖わーい。ゴメンナサーィ。もう二度と申しませーん。」 〔了〕
後記:
最近、24年前のこの山内豊秋さんの文章を読んで、飛び上がるくらいでした。「土佐史談会」のお許
しを得て、是非とも皆さんに紹介したいと思いました。どうぞ、お許しください。
2003年9月29日に91歳でお亡くなりになった故・山内豊秋氏(18代山内家当主)を偲びつつ、この
豊秋氏の優れた一文(戯文『先祖とインタビュー』山内豊秋)を、山内一豊夫人顕彰会のホームページ
に載せさせていただきます。
豊秋氏は郡上八幡へ8回ほど来られ、我が家へも、父の生前中、父が亡くなってからも実弟・山内
静材(しずもと)氏とお仏壇にお参りにも来てくださいました。又、亡くなられる前年の郡上八幡での
第9回一豊&千代サミットでは「南国土佐をあとにして」を歌われその姿が脳裏に焼きついています。
奇しくも今日は初代山内一豊夫人顕彰会長の父・川上与三吉の11年目の命日でした。
なお、元の本文では、ご自分のことはA=A一豊さんのほうは一≠ニなっていました。
ここではお二人とも天国に行かれましたので、“豊秋”そして“一豊”とさせていただきました。
注は( )にしてこちらで付けましたことをご了承ください。
父・川上与三吉と山内豊秋さん(私の自宅で)
川上朝史(岐阜県郡上八幡)
2005年6月25日
追記:
今から25年前に「第二代 忠義公紀」(第一編)の続刊随想の中で山内豊秋さんは見性院について、
◎ 見性院上京、永住。:高知城にあった一豊夫人は、夫君と死別のその翌春、自己の強い意志で
上京し、永住します。夫人の考えが様々に推測されます。
◎ 一豊夫人逝去:夏の頃忠義が上洛看護し、又在京の義子湘南和尚の親身な世話が麗しく思われ
ます。一時代過ぎ行くの感。夫人の史料をまとめてみたい。 (昭和55年12月)
と記されています。私は特に夫人の史料をまとめてみたい≠ニのお気持ちを重く受け止めています。
その意味で、郡上八幡での「一豊&千代サミット」の壇上で豊秋さんが手渡された「序」(高知の岩崎義郎著「見性院出自の謎を追う」)、これが豊秋氏の遺言に近いものと思いますので抜粋してご紹介します。
山内家資料の刊行者として、この本が当家資料の欠落部分を補完し、さらには諸々の疑問解明に寄与することが期待される・・・
山内家は、戦前沼田頼輔博士を長として家史を編纂し、歴代公紀を完成した。原稿の一部分は戦災で焼失したが、平尾道雄氏により可及的に補填された。これを整理・刊行中だが、未完成部分と、編集の不備も出て来た。
欠落の一つは、二代忠義公紀第一巻(p441)に「見性院ノ事跡ニ関スル資料ハ特ニ別冊ニ之ヲ収ム」と明記されながら、その現物がないこと(クリックしてください)である。沼田博士の嗣子大学氏に照会したが、何も残っていない。今稿本を書いているが、今回の御本が頼りになる。平尾文庫の「稿本見性院記」の検討も必要と思う。
初代一豊の若い頃は、確定的な史料に乏しく、出自はむしろ秘匿したのではないかと思われる。それは信長・秀吉が尾張に起こり、四周を敵としながらのし上がったが、周辺の者はほとんど敵対した過去がある。そのため信長・秀吉の配下の者は過去の経歴を秘匿したのではないか。
見性院は、わが家の伝承では近江の若宮氏とされ、沼田氏もこれを信じ、やがて郡上八幡遠藤氏説を耳にしたが、これを見過ごした感がある。戦後高知女子大学の丸山和雄先生により遠藤説が注目を引き、私も数回現地に行った。私の気持ちはだんだん八幡説に傾いてきている。
この序文は八幡町の一豊夫妻のサミットの会場で岩崎義郎氏にお渡しした。 平成十四年十月五日
(下線は川上)2005年7月19日
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