綱吉生母・桂昌院は東常縁「古今和歌集」を知っていた!
けいしょういん【桂昌院】(ケイシャウヰン)
徳川5代将軍・綱吉の生母。名は宗子。京都の八百屋仁左衛門の子。二条家家司本庄宗利の養女。大奥へ入り、家光の寵を受けた。仏教の信仰篤く、綱吉に請うて護国寺を建立。(1627〜1705)
※ これは「広辞苑」(岩波書店)に載っている「桂昌院」の説明です。
ここで、私にひらめいたことがあります。元禄13年(1700)、桂昌院が東常縁直筆の「古今和歌集」をなぜ土佐の山内家より手に入れたかについて考えているときでした。
「広辞苑」の説明の中に、‘二条家家司本庄宗利の養女’と書いてあります。‘二条家!’これです。和歌の形式の流れのひとつは二条家です。これが本流です。東常縁もこの二条家の流れです。
養い親の本庄宗利がこの‘和歌の大家の二条家’の役人なのです。当然、将軍に出仕する桂昌院は養父が和歌の家‘二条家’に直接関わるものとして、「古今和歌集」を叩き込まれていたのではないでしょうか。東常縁は、室町時代の当時、当代切っての和歌の最高研究者でした。彼のことを「桂昌院」は二条家に仕える養父より聞いて知っていたのではないでしょうか。
このとき(元禄13年11月15日)、山内家5代藩主・山内豊房は、将軍綱吉の正室にも山内家所持のお宝、‘冷泉大納言為秀筆の「古今和歌集」’を献上しています。
冷泉家(藤原為相)は本流の二条家(藤原為氏)と、あと一つの京極家とで三家をなします。「桂昌院」は自らの所望を「冷泉家」の大納言為秀筆の「古今和歌集」でなく、義父の仕える本流「二条家」の流れを汲む‘東常縁直筆の「古今和歌集」’としたのではないでしょうか。
2005年5月18日(水)夜7時 川上朝史
追加記録
単純に、二条家=和歌の大家、と書きました。公家のお家柄で京都に居を構えている、当然和歌をたしなむと思ってのことでした。さて、桂昌院をネットで調べたら、NHKの歌舞伎番組でおなじみの葛西聖司アナウンサーの文章に桂昌院と和歌のこと(柳沢騒動)(「Web日本語」・小学館へリンク)が出てました。柳沢吉保を見出したのが桂昌院で、きっかけは彼に和歌の才能があるのを彼女が認めたことでした。 当時の将軍家の世界に和歌の舞台が重要な役割を持ったことを知り驚きました。さらにその世界の頂点だった桂昌院の和歌の実力を見る思いがしました。この人に東常縁直筆の「古今和歌集」が渡ったことに一層感慨を深くしました。
2005年5月20日 川上朝史
山内家の所持した「古今和歌集」は四種も!
東常縁直筆「古今和歌集」山内家より綱吉生母・桂昌院に!
冷泉為相筆の「伊勢物語」も郡上八幡に(安養寺蔵)
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