仏教用語としてよく使われているようですが、出典は『荘子』です。
坐忘は五体から力を抜き去り、一切の感覚をなくして、
身も心も「虚」になった状態をいいます。「虚心」、「無心」の境地です。
これは、老荘思想の原点となっている言葉でもあります。
明治維新の時「勝海舟」は「氷川清話」のなかで語っています。
「人は何事にもよらず、胸の中から忘れきる事ができないので、
終始それが気にかかるという様では、そうそうたまったものではない。
いわゆる坐忘といって、何事も全て忘れてしまって、
胸中闊然として一物をもとどめざる境界に至って、
はじめて万事万境に応じて縦横自在の判断ができるのだ」
たしかに雑念や欲望がいっぱい溜まっている時には、
誤りのない判断が下す事ができない。
「坐忘」の境地で対処せよ、ということでしょう。
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