さらに次のような疑問を持つ人もあろう。養生を好む人は、ひたすら利己的に自分の身体を大事にするばかりで、命をたもつ事ばかりを思う。 しかし君子は、義を重んずる。それゆえに義にあたっては自分の身命をかえりみない。危うきをみて命をささげ、危難でののぞんでは節操のために死ぬ。もし養生ばかりを思い、わずかな髪や皮膚でさえも傷つけないようにするものは、大節において命を惜しんで、義を見失うのではなかろうか、という。これも一理である。が、それについて答えよう。 およそことには<常>と<変>とがある。常の時には常を行い、変に望んでは変に応ずればよいのである。臨機応変、その時において義にしたがえばよい。平常こと無きときは、身体を大切にして命を保つのは、「常」に応ずる道である。大節において、命をすててかえりみないのは、「変」における義の行為である。常に応ずる道と変に対応する義との相違を心得ておけばそれでよく、こうした疑いも起こらないであろう。 君子の道は時宜にかない、事変の対応することがよい。たとえて言えば、夏は薄いひとえものを着て、冬は厚い着物を重ねて着るようなものである。いつも同じだと考えて、同じやり方にこだわってはならない。 常のときに身体を養って頑健にしておかないと、大事にのぞんで命をすてて強く戦うことは、弱いものにはできないであろう。だから常のときによく気を養っておれば、変にあたって勇気を出すことができるのである。 |