君が代(よ)は、誰の代(よ)か 1999.8.10

テレビで、国歌法案が通ったと言った。驚いた。通るはずのないものが通ってしまった。当新聞では、どういう報道をしていたのか。狐にだまされた。小渕内閣にだまされた。マスコミにもだまされた。そんなものは通してはいけないし通るはずがない、と高をくくっていた。

社会党が凋落してしまっていたのだ。ウカツだった。こういう事は、社会党にまかせてあった。専売特許にしていたのが悪かった。社会党も我々も悪くなってしまっていた。社会党を紋切型にしっぱなしにしてしまったのが悪かった。そうして私も我々も紋切型になってしまっていたのだ。

いったいマスコミはどうなってしまったのか。会社だから、保身と利益がまず第一だ、と言われれば黙るほかない。それにしても、正義を売りこむ会社だ。ユダヤ教の予言者の真似をしている。正義も道徳も商品にしている。そのくせそういう自分を批判してみせない。珍しい会社だ。正義を売る会社だから、我々も当会社人も、信用しあっている。信用しあってバカな道を正義の道として進んでしまわないとは言えない。

 新聞は論争を嫌う。平和の名のもとに事をまあまあにする。論争なれしていない我々を落着かなくさせることを恐れている。購読者を失うことを恐れている。しかし日本をもやもやにしているつけは必ず回ってくる。彼らの将来へのビジョンは、日本を、もやもや、のままにしておくこであるらしい。とんでもないこと。

 対立点は対立点としてはっきりさせておくことは、対立をあおることとは違う。事を明確にすることを実行し、習慣にすることを教えるのは、予言者をもって任じているらしい言論人の大事な仕事じゃないか。

マスコミのうちのテレビ報道は、野村某にかかりっきりになっていた。天下の公器を使ったその報道が重要な意味を担っていたものだったことを、そのうちに明らかにしてもらいたいものだ。

知らなかった非はこっちにある。社会党やマスコミや自民党や共産党にまかせてあった。うまくやるはずであった。みなさん信頼すべき良識人になっており、大過なかった。無事であった。が、今度ばかりは、やられた。謀られた。良識人たちは、意図はともかく、結果としてだましたことになった。

わたしの言いたいことは簡単明白、表題の通りで、含みもなにもない。経済や政治のことなら、難しくて何をどう言ってよいかわからなくてためらう。結局は、よろしくたのむと言うしかない。
 今度ばかりは、簡単明白、アヤもごまかしも起りえない。

君が代(よ)は、文字通り我々のよではない。
 明治の近代草創期なら、この詩(うた)には意味が十二分にあった。指導者たちは細心の遠謀をもって建国をはたした。見事だ。先祖みんなのがんばり創意工夫による。君ひとりの創意工夫努力によらないこと、議論の余地などない。

敗戦時の昭和二十年は、第二の近代の出発だ。今度こそまぎれようのない国民のための国家の創造を目指した。国歌は国民国家のものでなければならない。我々の詩(うた)でなければならない。

こんなあたりまえのことが、どうしてわからないのだろう。総理は何を考えているのだろう。こんな姿勢ではまたも国を誤る。時間をかけて、我々の国歌を作ればよい。慌てる必要はまったくない。小渕恵三という人は、一人物としてだめだなあ。こんな人物とは知らなかった。がっかりだ。

ごまかしはいけない。結局は、そのツケがまわってくる。

日本のこじつけとごまかしの最たるものは、「実際の軍」と「憲法上の軍」との間の奇妙な関係だ。毎日の暮しがウソの上にあることになって気持が悪い。これでは日本に真実などないことになる。あるとしても、ウソの上の真実とは気持悪い。

将来、日本と地球が堅実な歩みを続けるとして、この時代をふりかえって、「あの時代は、おおもとの憲法からしてウソだったからなア」と苦笑いして話題にすることだろう。

『君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで』

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