身近にいた生きものたち 1

◎ 4月11日 ◎ 3月24日 犬 ◎ 3月11日 ヤギ ◎ 3月5日 フクロウ ◎ 2月29日  ◎ H.12 2月24日 (ねずみ)  ◎ 2月17日 (のみ)  ◎ 2月14日   ◎ にわとり

 大きく元気でかわいい生きもの、馬から始めよう。
 馬車というものを知っている方は、五十代までだろう。――僕が、僕たちが学校の帰り、いちばん楽しかったのは、帰るだけでも楽しみだったのに、思いがけないものが後ろから来るとき――どっかのオジさんに鼻面をつかまれてパカパカがたがたいわせて、馬車が来るときだった。四年生ごろ(1951年)まではいたのじゃないかな。

馬

 一人で帰るということはなかった。誰かとは帰った。そこでまず、しめしめと顔を合わせる。なにがシメシメか、合図しあわなくてちゃんとわかる。が、問題は、誰が恐い顔のオジさんに声をかけるかだ。ここが、子供ながらに勝負どこだ。大人とかわるものでないこと、今はわかる。(私の場合、つい最近まで、大人は子供じゃないのだから、偉いのだから、まるっきり違う上等な生きものだと思いこんでいた。)
 要するに、あの馬車引きのおじさんから、「だめだ」と一発やられたらもうそれっきりだ。それ以上を駆引きして何とか、という態度はさすがにできない。

 だから勝負だ。真剣だ。どうしても乗って帰りたい(行程1キロ弱)、馬車のケツに。そうそうはない機会だ。どっちが声をかけたほうがいいか。この場合どうも僕はかわいげのないところがあると自覚しているので、相棒にやらせる。二人で、もぞもぞふざけあって、言出さないで、乗りたいのだとまず念入に意思表示する。オジさんは涼しい顔で気持よさそうに歩いている。早くやらないと、乗る時間が少なくなる。
 ハッキリ言わないで、もぞもぞしつつ乗ってしまう。既成事実化するわけだ。このころからもう立派な日本人だ。
 二百メートルほどしか乗れないが(馬車はたいがい左に折れて坂をのぼる。そこに駅がある)、乗心地の嬉しいこと。

 こういう混じりけのない喜びの経験は、ニセの喜びを見ぬく力を与えるようだ。本物のために、辛抱しようと出来たりさせる。
 馬車引きのオジさんだが、今は、彼の腹のうちがわかる。子供が乗りたそうにしてついてくることはとっくにわかっている。荷物を積んでなくて危険はないので、乗せてやりたい。馬車も馬も当のオジさんも、子供たちに親しまれたいのだ。気恥ずかしいので、言い出せないだけである。

 馬というもの、はじめとても大きくて、恐い。恐る恐る近づく。馬のほうは悠々として、尻尾をゆらゆら動かしている。表情などに恐ろしげなところはない。かわいい、やさしい顔をしている。

しかし、雌が使われていたのではないか。種馬は、さすがに恐いのじゃないか、メスを見つけると。人間も同じ。

 馬というとすぐ思い出すのは、いま書いた(打った)場面と、もうひとつは物凄い場面。頭ががんがんしてくるよ。

 さっき言った駅への坂道、二三百メートルある。かなり急だ。坂道の隣は、城あとで、お堀は現在もある。ここらはかなりの高台になっている。
 この坂道を、馬車はなんとしても登りきらなくてはならない。材木を、貨物列車に積みこまなくては商売にならない。材木をいっぱいに積んできて、さていよいよ正念場だ。僕は、現場を何度か目撃した。胸がつぶれる。
 思い出したが、たしか、かの有名なニーチェが発狂したとき、道で馬車を止める騒ぎを起したようだった。そのときの馬が、やっぱりムチでひっぱたかれていた。彼はこれを止めにはいった。権力への意思だとか超人だとか威勢のいいことを言う人だったが、内心はとても優しかったのだろう。

 馬車を引くオジさんのことをなんとかと呼んでいたが思い出せない。彼は、でかい声を出して馬を励まし、しかもムチでバシッバシッとたたく。すると馬は、忠実に、荷車をひっぱりあげて進もうとする。はじめは力がある。ガッガッと蹄(ひづめ)を踏んばってのぼる。あれが用意してある。名前を思い出せない。馬車が後戻りしないように車の後ろにかう棒。これを、ころあいを見て、かって馬を休ませる。オジさんは無表情だ。馬はだんだん息が激しく、汗をかいている。冬など、皮膚から湯気が立っている。

 馬はSの字に上がっていく。苦しい。実に苦しい。僕は、夜うなされる。苦しい。馬は数歩進んでは止る。いや、後ろにさがりそうになる。棒をかう。オジさんはだんだん休む時間を長くとるようになる。キセルを出してタバコを吸う。オジさんは馬の周りをぶらぶら歩いている。チクショウ、自分で引張ってみろ。
 僕はもう、先が苦しくて見とれない。帰る。大丈夫だろうか。昇りきるだろうか。気になる。これがいつまでも消えなくて、結局この年になるまで五十年も。これは辛い場面だから、学校帰りの馬車乗りのほうを思い出すことにしているんだ。

 馬はすごいなあ。あんな重い材木を積んで、しかも坂を、一人で、ひっぱり上げていく。ワラやら草みたいなものばかり食っておって。

2月14日 記

(のみ)

 馬が大きい方の代表選手なら、蚤は小さいほうの。
 蚤を知っている人は幾つくらいからだろう。また、当時でも、都会地のきちんと清潔ずきのうちでは、これはいなかったのだろう。虱(しらみ)も。
 DDTを頭か体にもうもうとやられたような気がしないでもない。きっと、ごく小さいとき噴霧器でかけられたろう。DDTという言葉のほうは、自分にずっと生きている。その証拠に、
 HPができたばかりのとき、数人に電話してみたが、中で本人が出たのが一人いた。何年ぶりかでしゃべる。若いころのしゃべり方と変らないのでおかしい。rdをDDTと間違えて入力したと言う。
 画面が出てこないがどうしてだとおり返し電話してきた。アドレスを確認していてわかった。普通にはありえない間違いだ。気持のいい話ではない。笑い話にならない。若いころからそそっかしいところがあるにはあったが、それにしてもひどい間違いだ。仕事の方は大丈夫だろうか。モウロクがはじまっているんじゃないか。いやだな。

この二つの虫に共通するのは、ごく小さくて、カユイこと。
 しかし僕は、いまでも蚤にはかわいい気持がある。懐かしい気持がある。それは祖母(おばあちゃん)の思いでと密着しているからだ。

 おばあちゃんは仮眠したあとかなにかにちゃんと、着物をはだけてボリボリやりながら部屋から出てくる。イライラと怒ったりはしない。大切にするなどということはないが、優しく見つけてつまんでパチンとつぶす。僕はその理由を知っていたから、別に気にしなかった。僕の部屋よりもおばあちゃんたちのほうがたんといたみたいだったな。

カユイと蚤だとわかるからすぐ起きて電気をつけて明るくする。そして、カユイ辺りを探す。見つけてつみ取ったときはうれしい。この気持よさはそうたんとはなかったよ。
 だから、おばあちゃんが、パチンとつぶすのが、とても気持よさそうでうらやましかった。こっちもパチンとやりたいのだ。丸々してやがる奴には、クソッと思う。なぜかって、僕の血を吸っているのだから。この丸まるとしてでかいやつをパチンとやると、ぴゅっと血が飛ぶ、嬉しかったな。たんと飛ぶともっと嬉しかった。ぐちゅっとつぶれたときは、失敗、残念、面白くない。

 ついこのあいだ、テレビで顔の皮膚にくっついている ?(だに)のことを映していた。出演する人もアナウンサー自身も、女性たちは、そんなものいるはずがない、と強く主張する。部屋も顔も奇麗に磨いているので。
 さて顕微鏡で見てみると、いるいる、動いている。生きている。キャーだ。
 が、人類とともに、いっしょに、生きてきた。いなければ異状。

 僕はよく思うんだが、エスキモー(イヌイット)人とか、モンゴルに住む遊牧の人とか、風呂などそう入らないんじゃないか。別にそれで病気になったり短命だったりするわけでないだろう。むしろ、清潔をやたらに主張するのが、現代病のひとつではないのか。清潔商売でマネーをかき集めようとしているのだろう。アメリカと日本がいちばん清潔自慢をするんだそうな。

 寒くて不精を決めこんで、だいぶ風呂に入っていないな。痒いような気がしてきたよ。

〇 〇 〇

 ここで、終ったんだが、あと二つ入力しておこう。二つともだいぶ前の話。
 ひとつは、中村久子という高山市出身の人で、ほんの子供だったとき、両手両足を根元から凍傷?でなくしてしまった。見世物小屋などで働いて自活して、結婚もし子供も育てた。ヘレン・ケラーとも会って話している。
 この人が自分のことを語った文章で、「カユクてカユクて、でも何もできない」、このことをいちばん辛かった、と言っていた、もっと辛かったことはあって当然なにだ。カユイというのはどうにもならないのだそうだ。我慢できる、というものではないようなのだ。そういうものか、と忘れがたい話。

 もうひとつは、ボリボリカユイ話ではないが、カユイという言葉が使われたので。
 その人はもう七十をとっくに越していて、むかし旅でかなりワルを鳴らしていた。彼のいまの女房は二度目で、芸者か何かそういう方面のことをやっていた。彼女には、北海道に兄弟も子供もあったが静岡辺りで稼いで仕送していた。この女性と彼は同業みたいなところがあったのだろう。いっしょになった。彼女はカユイところに手の届く人で、いっしょの生活がとてもいいんだそうだ。前の女房はいいところの出の人だったようで、つまり、カユイところに荒っぽかったのである。
                             
2月17日 記

(ねずみ)

 鼠との関りは、犬、にわとり、アユよりも、見方によっては長い。毎日だから。なぜか。彼らは自分と同じ家に寝起きしていたので。昭和58年までは間違いない。明治の古くどでかい家をこのとき壊して新築したので。やがて新築の家さえ、彼らは住みかにした、と妻は言う。

ねずみ

 若いころ鼠を意識して暮したことはない。振りかえれば、周りに鼠がいなかったのは、都会へ出ていたときだけ。京都と東京に半年ずつ、名古屋に7年。あとはここばかりにいる。国内旅行はむろんのこと、外国など行ったことがない。またしてもマネーの問題だが、体力の問題でもある。嫌いなわけではない。地図を見るのは大好き。

 学生寮は新築なったばかりとは言え、陰気で不潔なとこだった。なによりも安いのがありがたくて、文句は言わないし言えない。社会人になってからは、贅沢にもできたばかりの公団住宅にはいった。藤山台。急に上昇気流に乗ったような気がして、にんまりした。
 不潔な寮にもぴかぴかに清潔な公団住宅にも、鼠はいない。だいたい、はたして生きものがいたかどうか。だいたい頭に上ってこなかったな。

 そういゃーそんなこと考えたこともなかったな、生きもののことなんて。自分が生きものなんだってことを忘れてしまっている。どうかしている。そんなもの、考えるべきなんの値打もないと思っていたな。どうかしている。だめな奴だ。そういう奴にかぎってなにか空想に浮いて、偉い者であるかのように考えておる。アホだ。しかし、ほんとにアホとは思っていない。戦後民主主義がおかしいと、ここ十年ほどは考えている。複雑で考えにくいし辛抱もいるけど。

 僕は、ある時、26歳のころだっか、例の公団住宅で、どうにも頭がおさまらなくなって、歩き出したばかりの長男と連れを、とにかく山と川のあるあんまり人の来ないところへ、なるべく萩原に近い方へと連れて行ったことがあった。ただただ行きたくなった。なんの準備もない。途中釣り道具の簡単なものを買った。秋の終りで、暮れるのが早くて、急いだ。金山町の辺りで、車を止めて、ムチャクチャ崖を上ったり、川原を飛び舞ったりした。川虫をとって、サオが見えないような中、ウグイを釣った。ムチャクャに釣った。母と子は車のそばで、辛抱強く待っている。

 山や川やウグイやアユや犬や鼠のことを思っていては、時代に遅れる。だいいち、僕のまわりの者と、生きもののことで会話したことがほとんど一度もなかったような気がする。いま思えば、考えてみるまでもなく、へんだ。だが、田舎は遅れてダメな所で、都会は進歩と文化があると思いこんでいるし、周りもマスコミもぜんぶがそういう雰囲気では、別な考えなど起きるものではない。僕は僕を簡単に否定してしまう。誰も怪しまない。田舎者に立派な考えなどあるわけがない。

 いま思うにこれは、軽薄だった。都会も田舎も軽薄だった。経済の上昇気流が七難を隠した。この軽薄さかげんを象徴するのが、社会党の凋落。そして足元を見る。つくづくと戦後はじめて、あえて維新以後はじめて、脚下をつくづくと見てみる。見ようとするのだが、ほんのわずかの明り。気持の悪い闇が遠くへ広がっているのみ。

 僕は、村山富一という人物を買うね。すっぱりと、一つの時代が終っていることを天下に示した。うじうじとやったんではだめだ。バッサリやった。歴代の首相の中で、5本の指にはいるでしょう。始末のつけ方がベリーベリーグッド。みなが訳がわからんようになったこそ正解だったのである。そして今があって途方に暮れている。なになに、鎖をといて元年だと謙虚に思い沈めばいいさ。

 またクセがでて、肝心の鼠がどっかへ入りこんでいなくなってしまった。ネズ君本番。
 僕の生まれ育った家と隣の家は、規模も同じくらい。明治のころ、こういう家を建てるのがはやったに違いない。家の真中を土間が裏まで通っている。土間の幅はいっけん。で、渡るために、渡り台があった。ここは、二つあった。いまどき、裏口まで突抜けの土間、廊下のあるうちはまずない。明り取りの天窓が2ヶ所にあった。仰ぎ見ると、空が見える。雲も。

 天井裏が広い。二階は、表側、道路側のみ作ってある。そこに部屋が三つある。まん中はガラクタが置いてある。明り取り窓が2ヶ所、ぬっと天に向って天井裏に威張っておさまっている。夏は暑くてぶっ倒れそう。冬は、天窓のほうへ開いているので、暖房がきかない。あんな寒いところによくもいたもんだ。が、今みたいに、オーさむオーさむと愚痴ったことはない。祖母もそういうことは言わなかった。洗物など仕事が一段落すると、三倍にもふくれあがった指をこすりながら来て、黙ってコタツに手を入れた。体は入れない。

 僕は祖母の辛さなどなんにも判らない。炭火のコタツにもぐりこみ、首だけ出して、なんだか生意気なうろ覚えの屁理屈をのうのうと言う。今も同じ。僕は躾が甘かった。

 と、鼠がすっと走って壁穴に消える。僕はなんとも思わない。家族みたいなもの。アッ、行ったな。また出てくるか。それだけ。僕は眠ってしまう。起きると、すぐ、ご飯はまだかー、と呼ぶ。殿様みたいだな。

 隣のうちと合わせて、鼠の天下だ。すると、猫が集る。アオダイショウまでいた。だから、やたらに増えることはない。
 問題は夜だ。鼠が走る、猫が狙って追いかける。これがダダダーと大きな音を出す。夜中なので、びっくりする。お客もビックりするだろう。が、鼠の音の苦情を聞いたことはない。同規模の宿では、似たようなものだったのだろう。
 小さい鼠と大きい鼠がいた。大きいのはちょっと不気味だった。鼠取りで捕まえたのはこれ。猫いらずを食わせたのもこれ。捕まえると、金網の取り器にいれたまま裏の川につける。強い。なかなかくたばらない。これもちょっと恐かったな。木をかじる音。カリカリぎりぎり。天井を、っっっと走る優しい音。キーキーと争っているような音。

 鼠も猫もアオダイショウも人間も、みんな一生懸命。いま、猫はいるが、鼠もアオダイショウもいない。人間はいる。鼠とペストだとか恐ろしげなことを学校でも言うが、程度問題だろう。バランスの崩れが恐い。

 川向の旧川西村の友人に鼠の話を持出したら、「今の鼠は、指先程度になってしまった。最近の家に合せてこうなった。体を小さくしなければ、隙間へはいりこめないので。」
 にわかには信じがたい話だが。
 〈 彼は大きな百姓家で育った。おやじさんは九十になる今日まで、これで通した。こういう鼠にどんな思いでいるか〉
2月24日 記

いまでも、頭の中におさまっていて、出てこいと命令すれば出てくる写真がある。モノクロ。五年生ぐらいの少年。野球のユニフォームを着ている。牛をはさんで、ひとりはこっちを見ている、もうひとりは、牛の鼻のあたりを手でなでようとしている。牛は、のんびりとこちらに顔を突出している。

場所は、下呂の街から、十五分ほどはいった所。上原(かみはら)。合併前は旧上原村。私の父の故郷である。そこに、兄弟の住む家が三軒ある。このときは、代がかわっていて、いとこが継いでいる。私はいとこたちの中でいちばん若い。つまり、父は末っ子だった。で、萩原のここへ養子に来た。

野球のユニホームからすると、下呂で少年野球の対抗試合があったのだろう。終ったあとで、気まぐれに連れて行ったものだろう。深い意味はない。こういう所があると見せに行った。牛が珍しいし。二人は非常に珍しがるようすはない。まあ、普通に珍しがる。こんな大きな生きものを、すぐそばで見て触るのは、はじめてだろうから。

 この写真は、自分で作った六切りの写真(当時暗室にこっていた。カメラは中古のペンタックスSP)。モデルは、長男と、同級のM君、それに何代目かの牛君だ。〉

私の場合、子供のころから、生きものには関心を持った。しかし関心といっても、ただじっと見ておるくらいのもの。観察でもない。ぼんやりじっと見ているのが好きだった。

これは、だいぶ大きくなってからで、小学校のころの一時期、格好よく見せるために、蛇を捕まえて、皮をむしったりした。

蛇だけは好んで観察したいとは思わなかったな。どうも好きになれない。気持がよくない。仲間とおもしろがって皮をムシリ取ったときは、いやな気分が残った。今なら、動物虐待というやつだ。不快な気持だけが残った。意味もなく殺す、なぶり殺しにする。これは不快だったな。むかしなら、宗教や道徳のせいにされたが、今なら、そりゃそういう遺伝子のせいだ、と言われそうだ。

父の実家へは、子供のころ毎年二回は行った。農林業を続けてきた。山仕事を兼業にして生計をたてた。小学校のころから、あれはいた。雌一頭と、小牛がいるときいないときと。雌牛でも、黒牛で、この牛の乳を飲んだことは一度もない。小牛の生産を目的としたもの。三十数年きれたことがない。
いまは七十近いいとこも、小牛で威勢がよくなったときがあった。種牛安福号だ。飛騨牛だ。これでは楽しい金がはいったようす。

彼の口ぐせは、「私らは、変化につぐ変化のなかで生きてきた。まあまあ、大変な見ものに出会わせてもらってきたよ。ワッハッハッ」
彼の人となりも時代の急激な変転もあらわしているが、話を元に戻そう。

ここのうちにいた生きものは、牛と鯉だ。山がすぐ前、100メートルのところにある。見渡す限りのものは、ほとんどが植物だ。それに囲まれるようにして、人の暮しがある。絵にあるような田舎の風景。

風景が変ってきて、新しい造作物に囲まれるようになっている。家と自然とが一体になっていたなにか重々しいものが、後退していく。どんどん村ではなくなっている。それにつれて、人間も軽くされて行くようだ。便利になる。が、私が親しくしていた世界が、後退していく。私自身が後退していくよう。新しくなるのではなく、逆に古くなっていく。PCの世界は最先端なのに、全体としての自分は、牛や鯉や畑やの中の生きもの。古い方に足を突っ込んでいる生きもの。

牛は、馬と同じで、デカイけれども穏かな表情をしている。エサになる草をとって、鼻先に持っていくと、人間の鼻息の五十倍ほどのものを、フウ―と吐出して、独立した生きもののような舌をグネッとからませてくる。ものすごい力。このときは、自分など人間生きものがきゃしゃなものであると知る。尻尾が独立した生きもののように、たえずたえずハエを追いたたく。

そこから一里の所に別のいとこのうちがある。そこにも牛がいた。が、いつも五六頭はいて、事業、という印象を与える。牛も事業という印象。つまり、マネーの印象。

はじめのうちの牛は、一頭が丹念にピカピカにみがかれ育てられて、見るからに人間の手がかけられている感じ。直接にはマネーの感じはないが。 2月29日 記

(ふくろう)

☆ いつの頃からこういう癖があるのか、いつの頃こんな癖があると自覚するようになったか、ハッキリしない。間違いなくだいぶだいぶ前だ。
よくみんな、あの人はなになにのような、と形容するじゃないか。子供のときは、遠慮ということを知らないから、大きな声で、底意なく、得意顔に、あの人は、どこどこにいた猿に似ている、とズバリ言って、「これっ」と母などに睨まれたものだったが。
なるほど、本人の前では、こういうことは正直に言ってしまってはいけないものなのだなとわかる。勉強する。すると、かえって気持がちょっとねじった感じになって、いやらしくなる。別にいやらしくも何ともないのにさ。

ふくろう

すぐ今思い出せるのは、まずヤギに似た人だな。僕の場合ヤギがいちばん多いかな。猿とか、犬とか…。
にわとりの人がいたなすぐ近所に。思い出すとおかしくなる。なんにも悪気なしで、にわとりに似た人というと、その人を思い出して懐かしいな。

「ヤギ」でたった数日前を思い出して、笑えてくる。がしかし、なかなか色っぽいところのあるかわいげのあるオバサンだったな。
注 2月10日のダイアリーで、AAが連れてきた女房かと思いこんでいた女性が、大変あれに似ていて、おかしかったし懐かしかったな。この雌ヤギさんは、五十ぐらいだったけど、トウの立ったところを見せないでいて、さすがに商売かなと感心したものだった。〉

これは、あだ名ではない。ただ自分ひとりで、楽しんでいる。あだ名は、みんなの前での、呼名なので、本人は面白くない場合が多いだろう。僕も、小学校か、中学校のとき、ある虫の名で呼ばれていやだったな。まったく予想していない名をつけられて。俺はそんなもんじゃないぜと、ムキになるところもあったが、それを出してしまうと、よけいに馬鹿にされそうで、じっとしていたら、そのうち消えた。

フクロウ、実は、最初のころ、のり子ママが似てるなと思った。言うと、そう怒るわけでもなく、いまと違って、まあと笑っていたものだったよ。

☆ 今度は本物の話。二十年ぐらい前、古いうちのとき、裏二階で変な音がする。なんだろうと階段を上がっていくと、とたんに、バタバタと暴れている。鳥だな。昇りきって左を見てみると、丸い、大きい?と、逃げようとして天井を走りまわる。これがフクロウだったのだ。むろん、絵やなんかでは知っていたが、本物がこんな所に。こんなもの、このあたりにいたんだな。ああ、びっくりした。

うーん、びっくりだ。どこから入ったんだろう。大きい、子供じゃない。近づくと天井やガラス戸に猛烈にぶつかって、こりゃ危ない、ガラスや障子がやられるぞ。で、そのまま逃してやることにした。捕まえたかったけど。大きくて、クチバシにやられそうで、恐かったな。窓を開けたが、すぐに逃げない。なるほど、フクロウは、たしか夜は見えないんだった。

☆ これからの話が今日のメーンエベントだったが、外へ出て空気を吸込んで屈伸をして戻ってみると、どうでもいい感じになっている。困った。ともかく、さっと済まそう。いろいろ込入ろうと思えば込入ったことになるので。

前、すでにどこかで入力したような気がするが、高二のとき、6月、入院手術療養休学を経験した。そのときの担任の先生で、いろいろお世話になった人が、フクロウと呼ばれている人だった。そう言われてみると、なるほどと思う。似ていないことはない。似ている、ような気がする。この先生、K先生は、数か月前亡くなったと聞いた。

穏かな人で、僕がちょっと暴れんぼうのところがあったので、お邪魔にあがった時など、僕の昔をからかってカラカラと笑って楽しんでおられた。僕はキマリの悪いことを言出されるのがいやで、足が遠のいた。で、キマリの悪い話は抜きにして。

どうも、ご丁寧な話だが、同じころ、子フクロウなんて先生がいたのである。二人とも白衣の先生で、年は、だいぶ違った。子フクロウさんは若くて血気盛んで、気の毒に、生徒たちは彼のことをよく毒づいていた。物理の先生だからね。むずかしかった。ワザと、意地悪をしているようにさえ思えたね。

3年のとき、物理が必修になっていた。僕は、理数がだめだった。受験であせるし、この科目ははじめからまったくやる気なし。三学期、試験のとき困った。横着にも、白紙で出した。生意気だった。いい格好をしたのである。担任の先生のほうでなんとか話をつけてくるのではとしていたので。正直物理はなんにも判らなかった。あとで、子フクロウ先生かんかんに怒っていたという話だった。卒業させんぞと。したのだから、最低の点だけはもらったのだろう。

フクロウさん、子フクロウさんには、にがい。もっとも、高校からは以後ずっと、にがい恥かしい話ばっかりだな。
 こういう事情だったので、長男が、僕は物理も数学も苦にならないよ、と言ったときはほんと嬉しかった。私だって、好き好んで、それらが嫌いになったわけではないので。ただ、頭がついて行けなかったのである〉

山羊 (ヤギ)

ここ萩原町から、西へ、峠を一つ越した所に馬瀬村がある、車で十数分。村などという言葉を、都会の小学生たちは知っているだろうか。日本中に希少価値になりつつあるんじゃないか。馬瀬村は、村を冠して気張っている。
 人口は、1600人。南北にはしる馬瀬川沿いにある。家々は、点在して、冬など、隣り隣りがはるかに遠いので、いかにも寒そう。

馬瀬は、馬瀬川で知られている。アユ、アマゴ釣りに関心のある方で、この川を知らないなら、ニセモノである、とさえ言える。それほど天下に名を馳せてきた。なぜか。川そのものがいい。清き水が山間を流れる。風景と水と石、川底の石、が作る美しさは、なにに喩えたらよいか。ちょっと見当らない。実際に見てもらうしかない。見たら、日本人なら、必ず遠い何かを思い出すだろう。切るような、切られるような、鮮烈な美しさがある。

村の中央には、なるほど今や不経済であろうが、馬瀬村役場がある。でんとある。銅像がある。誰の。三代前の名物村長の。三十年にわたる無私の公僕。馬瀬村民に自信を与えた人。予算は上手にかすめとってきたけれども、安易にこれを川の工事には使わなかった。川は、ゼニカネの向うにあって、村民の心であることを十二分に承知していたからだ。

つい近所に、私と同年代で馬瀬出身で、苦労人で努力人のNさんがいる。以下は彼から聞いていた話。彼の仕事は、針灸マッサージ。

小学校のころ、昭和二十年代、彼は山羊を飼って自分の稼ぎとしていた。乳が一合五円だった。彼の連想では、おのずと好きな釣りへいくのだが、その金でテグスを買った。一つが五円。一ヶ月ためると三百円近くになった。その三百円でサオを買ってもらった嬉しさは忘れがたいよ。
 一日二三合を売ることができた。彼は、毎朝しぼってビンに入れて、二三軒のうちへ配ってから、学校へ行った。ヤギの乳を買うことができた人は、やっぱりやや余裕のあるうちで、誰でも飲みたいけれども、なかなかそうはできなかった。当時、今ではあたりまえの牛乳なんてけっこうなものはない。

私も、一度上原のいとこのうちで牛の乳を飲ませてもらったことがあったが、ドロッと濃くて、そう上手いとは思わなかった。山羊の乳はどんな味か。飲んだことがないので判らない。こんな肝心なことを彼から聞かなかった。彼も話さなかった。

彼は、その山羊の世話をした。全部した。朝学校へ行く前に乳をしぼりエサをあてがった。帰ってからは、エサをあてがい山羊小屋を掃除した。エサは、山へ行ったりして草を刈取ってきた。
 冬には、青草がなくなるので、大根の葉を陰干にしておいたものなどをやったりした。せっせと飼う。正月には、親父が、餅をあれにも食べさせよと言うので、やって家族として祝いあった。

さて乳は、本来子ヤギ用で人間用ではないが、これを人間が横取する。牛も同じ。春に子を産む。そして乳が出る。よく乳を出させるためには、いい環境、いい草を与えなくてはならない。子供ながらに腐心はする。いちばん出るときは、八合 ほども出た。その時は、自分らも飲むことができた。秋、10月ごろ出なくなる。そして種付に一里の道をつれて歩いていく。その雄は、それようにちゃんと飼ってあったわけだ。

着いて、そのうちでしばらく待っていると、親父さんが、「終ったぞう」と呼ぶ。そしてまた、引きつれて帰っていく。すると、春には子を生み、乳が出て、しぼって配り歩き、月数百円の小遣にする。

以後彼は、高校は萩原まで出て、歯医者に住込んで働きつつ定時制をやりとげた。さらに、名古屋でいったん国家公務員の事務職に就職したが、また一念発起して、大学へ行った。今度は夜働いた。卒業するといったんは会計事務所に就職したが、またまた一念発起して、今度は鍼灸の学校へはいり、それがついの仕事となった。彼はオジボース゛(長男ではないということ)なので、東京でそのまま働いてもよさそうだったが、こっちが懐かしく東京がいやになって、三十代の半ばに帰ってきてしまった。こうした執拗とも思えるガンバリズムは、すでにヤギに始っていたのであろうか。

最後に、今度は、例の上原のいとこの話。彼の嫁さんは、一里向うの門和佐(かどわさ)という所からきた。そのとき、持参金ではなく持参ヤギを連れてきた。峠道を連れてきた。その子ヤギが、母屋のわきにつながれてあったのが、その可憐さが忘れがたい。

一昨年十二年飼っていた犬が老衰で死んだ。紀州交じりの雑。これだけ一緒にいると家族で、その一人、肉親が死んだと同じ心の動きがある。そういうことがあるし、世話が大変だからと反対したが、子供と山の神によって押しきられました。
必ず世話をやくこと、散歩などに連れて行くことを条件にした。案の定だめ。面白いうちはやっていたが、そのうち私も連れて行かざるを得なくなった。名前は五郎。

INU

これがなかなか厄介。連れて行かないと、連れて行けとなき吠える。それはそうでしょう、一日も二日も鎖につながれたままでは、おかしくなる。外出を要求する。なき吠えられると、こっちは負担になり、苦しくなる。鳴声はあたりに響いて近所迷惑だ。犬には怒らないが、ダメな人間どもにはらが立つ。はらが立つ自分も情けなくてはらが立つ。体に酸がまわってますます腹が立つ。腹が立つにはエネルギーがいるので、やがて疲れる。

五郎は、二日ぶんの怒りを込めて、犬橇を引くようにして鎖を引張る。引くなという合図に、鎖で横っ腹をたたく。すると一瞬ひるみ、振りかえってこっちを見る。怒りの目でも憎しみの目でもない。ここが犬の不思議なところ、忠犬と言われるところ。猫は冷たいところが憎くて可愛い。犬はべたつくところが可愛くて憎いよう。

五郎とそんなふうにちぐはぐして前の川原を連れだって歩いているとき、よく思い出すのが、カミユの『異邦人』に出てくる、なんとかいうやせて狐顔の老人とその犬の場面。孤独ということ、にもかかわらず愛情ということ。犬と老人の二人はコンビ。罵りと忠実の光景が、毎日繰返される。孤独と苛立ちと愛情と忠実と。

猫と人間の間には、これはない。猫は、知らん顔してぷいと行ってしまう。こっちは一人であり続けることを訓練されるので、最優秀の諸作品のようだ。対して、犬は最後まで忠実なので、慰めにはなるけれども、かなめの力が抜かされてしまうよう。下手をすると甘甘の腑抜のようになってしまうよう。

五郎は犬ながら、老いるということをしっかり教えて死んだ。目が見えなくなり、足腰が弱くなってふらついて歩くようになる。穴に足を取られる。それでも、五郎と呼ぶと懸命に起き上がって近づこうとする。人間なら、苦しくて、面倒でそのままにしているのに、五郎は懸命に体を動かそうとする。犬は人間以上に情を生きるので、後々までさっぱりしない。わがままは、つねに人間の方に、僕のほうにあったので、一方的に僕が責められるよう。

息子が五郎をもらってきたころ、僕も五年生のころ、はす向いのうちのテシが生んだ子をもらってきて、ポチと名づけた。
注 親のテシは「てし」と呼んでいたが、ほんとうはテッシーだったのかもしれない。〉
そのころは、よほどの凶悪な犬以外は、放飼いが普通。近所には、テシ、メル、マル、がいた。テシ、メルは洋名で雌。マルは和名で雄。

ポチがまだ大人になる前、僕は一緒に田のレンゲの中などを走りまくった。ポチは一緒に走りまわることが楽しい。すばしこい。
あるとき、そうやって走りまわっているとき、木の枝かなにか鋭いものに目を刺されてしまった。この傷は終生なおらなくて、いつも膿みがたまっていたな。それをいつも、よっこらしょと横になって、左前足でこすってなめていたな。

僕が大学生のころ、頭が何やかやちんちんして逆上せて、ポチのことも忘れてしまっていたある時、名古屋から帰ってみると、すぐ
「ポチが死んだよ」と姉が言った。
「どうして」
「よそのうちの台所などをのぞいたりしていたので、保険所に頼んで注射を打った。打ってから歩いて、城坂を途中まで上ったところでコロッと倒れた。ずっと歩いていくのを見ておったんやさ」

注 これを見た長男からさっそく電話がかかってきた。姉という人がひどい人に見えるよ、と。そうか、そのつもりはないが、言葉が足りなかった。直しておくよ、と電話をきった。さてどうしたものだろう。どうつけくわえたらいいだろうか。
五郎は、最後まで人に見取られて死んだのに、ポチは薬殺だから、その点では残酷だが。しかし、放飼いにした犬はもうつないでおくことはできない。むしろつないでおくことが残酷。で、ああいう処分はひどいやり方ではない。私はそれを聞いて、そうか、それはやっぱり仕方ないな、と何も非難しなかった。自分が世話しているわけでないし。
それから、これは姉が決めて首謀したわけではまったくない。近所から指摘されて、みんなで決めた、と私は推測する。〉

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