銀ぎら銀にさりげなく
H12.1.29

 隣の隣のうちのTN君からメールがあり、署名が、マッチビューティチャイルドとなっていたので、彼の母親がかくかくに書けと言ったものであろう。あるいは、二人で、クックッとつっつきあいながらどうするああするでもじゃかれあって……。
 彼女は、ここのパートさん。宿と喫茶についてのぼくのHPを読んで、よしっと思い立ったのだろう。二人は似た者どうしで、非常に奥ゆかしいのである。合わせるといいくらいにる、で、合わせてメールを打ってきた。

それで想い出した、彼のおじいさんは、シルバーーメイキングだ。銀作。はっきりしていい名前だね、いまとなっては。

 まだある、金子銀一。さらにその一族には、金子蔵子というひとがいる。まさかそこまではやらない。金子さんは、たまたま金子家へ嫁いできたので、こういうことになった。
 だが銀一さんは、ずばり、金子銀一である。これはもうなんというか、悲願というか、駄洒落というか、あるいはそういう風潮であったというか。話では、本当は金一にしたかった。が、それではあまりにも露骨、なので金を銀にしぶしぶ変えたという。銀一さんに
「なぜ銀一なんですか」
 そんなことは聞けない。なぜなら、この人がまた、銀ひとすじからは遠い人。少年のような人で、最後までそのような人として高齢で、ついこのあいだ逝った。

銀作さんはやんちゃな方で、がんがんと頑張ることじたいに値打があるとしていた人。そして肝心の銀だが、あせくるけれども、うまくいかなかった。が、とうとう、池田首相の音頭とりに皆といっしよに乗って、銀がほんの少々あつまって、らくにはなった。家を二回も建てた。

ぼくは子供のころ、年寄の話を聞くのが上手かった。聞こうとして聞いた。上手く上手くないというより、聞こうとする、というところがすべて。たいがいの人は聞こうとして聞くと話をするものだ。と、おじいさんたちについて知った。

これを銀作マーにもやる。すると話しだす。彼はたくらむということがない。少ない。だから金は儲からないのだが、ともかく、聞くと嬉しそうに話す。裏表がない。それはそれでいいけれども、面白みに欠ける。たくらむところがある者は、話をするにもたくらんでくるので、そこを用心して聞けば、それはそれで面白い(たくらみ過ぎても面白くない、かえって退屈する)。が、彼はそういう器用さがない。抑揚のない調子で長々と喋る。
 僕は聞こうとして聞いたものだった。そのうち、いつもいつも同じ話だとわかってきて、もう聞かなくなった。こちらがもう聞こうとしなければ話さないもの、とわかった、お互いなんとなく淋しかったけど。大人になってからは、普通に話した。用件だけ。

 僕は大学へ行ったものだから、そのつもりはなかったけれども、頭が込入ってしまった。大学というところは、ここが(頭が)混みいるものと勉強したけれども、いまになってみれば、利巧か利口でないかは別のこと。むしろ、利口でないから頭が混みいるのだね。
 銀作マーは、世は利口でなくっちゃと決めていたようだが、彼が後年ぼくに二度三度こぼしていたのは、
「ボウズとセンセイというのはダメなもんだなあ」
 僕は若かったし、その意味が呑込めなかった。第一彼は息子を、ない金をはたいて大学にやり先生にしたではないか。ぼくは、何を言いたいんだろうか、と彼には味方しなかったものだった。

 しかし今になって思うに、ここには彼の信念があった。利巧か利口でないかについて、彼流のテツガクがあった。器用に表現できなかったけれども。
 彼流のテツガクは戦前のものであったから、戦後とは、折合えないものがあった。戦後の者たちとは、どうしても合わせにくかった。
 だんだんと打ちにくくなったし体が重くなってきたので今日はこれまで。続きはやる予定?

 1.31.00 Mon 承前

 ボーさん、センセイ云々については、ごく内輪の発言で、表では、ボーさんにもセンセイにも、それはそうです、なるほど、はいはい、それはそうです、へいへい、たいしたものですな、とやる。
 まず、表向きは、逆らうってことをしない。それは物理的に生きにくくなるから。へいへいとその場をやり過せば、ことは過ぎていくから。しかし人間腹にためていては病気になるので、どっかではしゃべっている。愚痴をきかされるのは、なかなか大変なので、腹を決めて争わず毒をきくようにしたら飲屋の客はなくなることはないでしょう。

 銀作マーは、若かった僕に、つい気を許してポロッとスキを見せたのである。僕はとんちんかんな境遇にいたので、はあーとわかったような返事をする。この人ひがんでるんだな、と自分なりに判断していた。うどん屋と餅屋の主では、どこにも威張るところがない。権威なんてものはない。
 僕が、いまこんななり行きに話を持っていって書いているのは、ついこのあいだテレビで、住専で名をはせた中坊さんが意外なことを言っていたのを思い出していたからだ。

「裏で嫌われている者が三人いますね。弁護士と医者と僧侶ですね。お解りでしょう、三人は共通していますね。
 人の不幸で生きていますね。私ら、不幸になってもらえないと生きていけないんですよ。だからですよ、私ら常にそこを自戒していなくちゃならないんですよ。特にこの三つの職業は、権威をまとうようにされていますからね。みなさん頭を下げますからねえ、皆さん彼らには可愛がられるようにもっていきますからねえ、争いませんよ」

  と、こういう意味の発言をしていた。僕はギョッとしたな。劇などのセリフとしては聞いたことがあるが、なまでは、聞いたことがない。
 僕には新鮮だった。自分で自分を批判する言葉というのは、まずテレビでは聞いたことがない。政治家はよくあやまるけれども、あれはあやまっているよ、としてあやまっている。正直な姿は見せないものと、常識になっているようだ。正直ふうの姿は、弱みを見せたことになるから、田舎ものと困惑されるから、見せない。あやまるふりをする。大げさにする。すると、我々やまと民族は、そうかと許す。人がいいんでしょう、育ちがいいんでしょう。アメリカやヨーロッパでは通じない。

  銀作マーは、権威も財もないので、用心深く生きていたが、僕に、そのとき何事かをメッセージとして与えたかったのだろうか、と今にして思う。
 彼からすれば、ぼくは大卒なので、権威も財もないとはいえ、あるほうの部類にはいっていたのだ、きっと。だから、それとなく、「気をつけろよ」とごくごく控えめに言ったものであろう。

  たしかにこのごろ、乱暴な言葉づかいをするようになっている。やくざが脅しているようにきつい言葉を発するようになっている。のり子ママも、ひどい言葉をぶっかけてくるようになっている。二日に一度くらいの割合で、ぶっかけ合いをやる。男女のやくざがおどし合っているよう。それを見境なくやる。お客は退散する。
 しかし僕のまわりの者は、ほとんどが銀作マーふうに言葉は控えめだ。

  裏手にいるあに「義兄」も、マッチビュウティのだんなも子供たちもみんな、銀作マーふうにに穏かである。
 しかしここの前の自動車板金社長は、僕と同じ部類で、ときにがーが―聞きづらい言葉を発する。
 彼と僕は生れたときからにここに住んでいる。ひとつ違いなので、子供のころはいっしょに遊んだ。で、人となりもお互いわかっている。いまはその人となりではなく、後年身につけた、高度成長ふうの、へんに威張るところが共通となってしまった。
 自分の欠陥はお互い自覚しているので、なるべく話さないようにしている。喧嘩になっては取替えしがつかなくなるから、お互い用心している。
 やくざふう物言いをする者はごくめずらしい。ほとんどの人は、控えめで穏かにまるく喋る。カドを立てないようにしている。しかしそのまま引下っているわけではない。どっかで、悪口を言い毒を吐いている。程度の差はあるが。

  今日は終り。この次はてんから記事を書く予定でいる。
 人生わからぬもの、冬は鬱で伏せっていたものだったが、こうも忙しくなるとは、ビルゲイツさんのおかげだね、儲からないけど。

2.03.00 Thu 承前

  銀作マーは明治生まれである。生粋の戦前人。思うに彼は、口下手だったけれど、戦中戦後派の連中と上手くつきあった。彼らから信頼も受けていた。

  ここで町の行政割をざっと言うと、萩原町は、戦後の市町村統合のとき、「川西村」と「山の口村」と合併した。川西村は益田川をはさんで対岸の地区をいう。山之口村は、今では渓流で名を知られているように、ずいぶん奥の地区だ。戸数もわずかで、到底村長のいる村としては成立たない。で、統合なって、山之口地区、川西地区、萩原地区と呼ばれている。ぜんぶで一万人。
 それぞれが懸命に生きて、それぞれが自分の人生にいそしみ、またそれぞれのうち(家)には、それぞれに、十二分に、喜びがあり、不幸があり、金持がおり、貧乏がおり、わだかまりがあり、意地もある。失恋も不倫もあり精神の病もある。ここちょっとした街区を外れると隣との間隔がすきすきである。カラオケをやろうと派手に夫婦喧嘩をやろうと、聞えないけれども。

  この地域感覚では、東京には一千万人いると言われても、どう捉えていいかわからない。想像が具体的にならない。ビルゲイツの資産が何十兆円だと言われてもさっぱり事が頭で動き出さないのと同じだ。
 さて旧萩原町の街は、三区に別れる。ここは街の下(しも)にあるので下区。下区はさらに十組に別れる。一組の戸数は二十くらいだ。町の最終末端行政を担う。持ちまわりで、組長と会計が年々交代する。葬式の段取と神社行事はここでやる。

  この組は、銀作マーが長老で戦前派、あと戦争実体験派などが四五人いて、幅をきかせていた。戦前戦中戦後に青年期を送ったので、そのドサクサの傷は大きい。
 彼らの特徴は、ねじくるところ、素直でないところにある。インニャ「いな」と言出したらきかない。日本流ディベートというところか。酒の席では必ずそうなったものだった。これを一口で言うと、どやんちゃ。
 次に我々の世代がくるが、これは素直そうではある。我々も高度成長とその破綻でかなりねじくってきたが、彼らとはちょっと違う。どっかに甘さがある。

  銀作マーの特徴は、あるいは戦前の人の特徴は、「律儀」。なんとも言えないよさがある。一体いま、田舎でも都会でも、律義者の子沢山の律儀は、生延びているのだろうか。一種颯爽としたところ、すがすがしさ、といったものは生残っているのだろうか。我々は、ぐにゃっとした、きたないようなものばかりを受継いで来ているのではないか。

2月5日 Sat 承前

 昨日銀一マーの息子の栄作さんが、『らっど』へ来た。2週間ぶり。で、さっそく、銀一マーのことを、銀作マーのことと一緒に打っている「書いている」よといって、彼の顔色をうかがうと、まんざらでもない表情だ。彼は川向うの建設会社の、いまは役員だそうで驚くね。5、6軒向うのうちで、養子として迎えられていた者が、下呂にある印刷会社社長になったと聞いたばかりで、これにはさらに驚いたね。青年だったような、ちょうけたような、軽いような者が、そんな恐るべき者になっているとは。

 もっとも栄作さんが、数年前営業部長になったとき、
「たいしたもんだな」
 と感に堪えてみせると、
 「なあに、部下が一人しかいないような部長ですよ」
 と自嘲ぎみに言う。本当に自嘲しているのか、へりくだっているのか、よく解らんところがある。
 銀作マーにも銀一マーにも、いまでも多くの者に共通する一種の奥ゆかしさが、彼にある。感情その他の自分の領分をはっきりとおもてに出さない。これでは、アメリカでは上手く生きられない――東京でもかな。

 栄作さんについては、つくづくと感じ入ってしまうことが、まずひとつある。それは、大きな百姓屋に住んでいるのに、現代風になってしまって、彼と妻と母親が、たぶん成人している三人の子供たちも、それぞれが一人一人の部屋にいること。田舎風都会化。あるいは、都会化された田舎。これには、僕なんか倒れんばかりに驚く。倒れんばかりに驚くと聞いて、倒れそうに驚く人が多いだろう。私のほうが時代から外れているのだ。

 ヨーロッパでは、小津監督は神に近くあがめられているそうだ。あんな退屈そうな家族映画がだ。日本人には彼らのようには、共感できない。とぼとぼした時代遅れ映画に見える。
 西欧ではちがう。これは手本にすべき最新の映画なのだ。日本じゃアメリカふうの感覚がいちばんだと思っているが、ヨーロッパは自分たち独自の道を手探りして歩いている。その点彼らのほうが一歩も二歩も先に歩いている。

 金子栄作は、父金子銀一から逸れて時代に合わせることを最上と判断してきた。無理もない。皆が右を向くとき左を向いては生きられない。

 僕にとって彼のうちは、銀一マー夫婦によるイメージだった。それでずっと来た。だから、まったく違ったものになっているのにはびっくりする。栄作さんと彼の嫁は、するりと銀一マーたちの持ってきた伝統「足あと」をかいくぐってしまっている。良いような悪いようなこと。戦後を象徴して代表しているみたい。マスコミふう都会化こそ善なりと。新しい大工建築は善なりと。

 僕は銀一マーをずっと見てきたので、そんなサマがわりは彼には無縁だったことに間違いはない。彼は自分を露骨に人に見せたり、不快を人に見せたりしたことはない。見せないとしていた。喋らない人だったので言葉では伝わらなかったが、何事か決意をもって生きぬいた人であることに間違いない。内心、新時代の行きすぎにはにがい思いをしていたことだろう。

 金銀について彼に、栄作さんに言うと、親父の名前には敏感になっているので、その証拠に、間髪をいれず次のように言ってきた。新説である。
 「金子というのは、子供みたいな小さい金ということ。銀一というのは、銀が(カネが)ひとつしかないということ」
 と、ニコリともせず言う。今日は、愛想がよくない。やはり不景気のせいか。どうも元気がない。気になる。いつもはこの時期、僕のほうが青白く引きつったジゴクに魅せられたような顔をしていたものだったが。いまのところ、ビルゲイツ神がこれを退散させているよう。

 金子銀一の純粋さ、純粋に立って生活して人とまじわって、死ぬときまでもなるべく手間をかけぬようにするっと逝ったサマは、奇跡のほし≪地球≫、奇跡の島々≪日本≫、と同じに戦後のヤマトの奇跡であるかなあと、僕はつくづく思ってみる。

 銀一マーの仕事は、第一に百姓で、もうひとつが大工補助であった。

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