ダイアリー、エッセー 3
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目次

◎ 4月2日 引きこもりなど
◎ 3月29日 愛知県S市へ
◎ 3月25日 フレーム
◎ 3月22日 承前
◎ 3月20日 曹洞禅の快僧 沢木興道

3月20日 曹洞禅の快僧 沢木興道 反俗禅

夜中に心臓がどきついて目が覚める。このごろはよくこういうことがある。本当に心臓が悪いのか、自律神経か、医者ではないのでわかりません。不景気で、いよいよ資金が詰ってきたので、その心配が原因のほとんどを占めているのは、間違いないです。

座禅

すると、ラジオから「信心銘」、「信心銘」と聞えてきて、聞耳を立てる。(斎藤知正という愛知学院大学の元先生が、若いころ接した沢木老師について話しているのでした。斉藤さんは師について聞きやすいよう楽しく語りつつ、日本文化とか歴史の進展についてもちらっと触れていました)。
非常になつかしい。四十年前に毎月雑誌『大法輪』で見ておって、その機会以外にこれを聞いたことはありません。
沢木興道老師の「信心銘拈提講話」
(しんじんめいねんていこうわ)。当時、高校から大学へかけて、これが連載されていた。なんとなくわかって面白くて、目を通していたのでした。このとき、沢木興道という人の名を知った。〈 雑誌『大法輪』は、母が戦後まもなく寡婦になるとともに、価値観の混乱などに巻きこまれて右往左往したとき彼女の支えとなったのでした。私も病後の混乱の中、この本に興味を持ちました。その後まったく読みません。〉

当時私は高校生で、この人の名前に重大な意識などはありません。ただ、二年生のとき大病をし、休学して自宅療養をして、このとき重大な変化がありました。(もしこのことがなければ、違う人生になっていたでしょう。高度成長ふうにやれ行けどんどんになっていたでしょう)。死ぬということが意識に上り、不安になりました。義理を欠いてまで早め早めに体を休めるようにしていたので、ここまでやってこられたのでしょう。父が早死したので、母と祖母の手で育てられました。そんなような事情で、とにかく生延びることがまわりから要求され、それが「生きる意味」でした。

大病などをすると、若くても、生きるほうから人生を見るのではなく、終りのほうからこれを見るようになるものです。それが、沢木さんと結びつけたのでした。沢木さん自身は、生命にあふれた痛快な人ですが、これは修行の結果で、彼は九歳にして無常に出くわしています。十七歳にして家出をして永平寺に向い、そのままその人生を創っていくことになりました。

以下の一文のキーワードは、
虚無と無常。宗教と仏教。日常と非日常。俗と聖。などなどについて書いてみます。自分の経験を核として書いて行くもので、それらについてとくに勉強したわけでも知識があるわけでもないので、小説を書くようにやってみます。そのように読んでみてください。

まず虚無と無常。これは、たしか『平家物語』の冒頭にありました。「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」
娑羅双樹は、辞書に次のようにあります。「釈尊が涅槃
(ねはん)に入る際、その四方に二本ずつあった娑羅樹。釈尊が涅槃に入るや、東西と南北のニ双樹はおのおの一樹となって林を蔽い、樹色白変して枯れたという。」

祗園精舎は、「釈迦とその弟子たちの修行僧坊のあったところ」。つまり、諸行無常も、盛者必衰の理 (ことわり)も、最初の出所は、インドにあり、仏教にあるのだと、この物語がその冒頭で宣言している。簡素な思想だ。原因と結果についてこまごまと分析も総合もしない。一人の人間の浮沈みも、集団の浮沈みも、同じ見方をしている。簡素だ。

ヨーロッパ産の社会科学は、むろんこんなものではないし、その内容については、小中高大学においてお馴染みで珍しくない。新鮮なのは、諸行無常の方で、この程度で日本は立派にやってきた。親鸞も道元も、仏教関係の言葉を勉強し多量の知識と表現力を持っていたけれども、帰結は簡素であった。親鸞は「南無阿弥陀仏」、道元は「只管打坐(しかんたざ。意味はただひたすら座禅に打ちこむ)」。これだけである。ハッタリのようですらある。しかしこれだけである。そしてここに、このとき、日本思想の核が成立し、一部学者文化人宗教人の持物ではなく、日本中に考え方として、生き方として広まって行ったのでした。

沢木興道(三重県津市新東町の生れ。明治十三年〜昭和四十年。おもに育ったのは、河芸郡一身田町橋向)は、ここから、この簡素から育った人。出自は、博徒淫売、ゴマカシのまん中。少年の目にはゴミタメのような所から。

私が大学へ行ったころは、左翼の思想がおお流行のころで、私もその渦に巻きこまれて、なるほどそうかと肯きつつも、まだ納得するまでにはいきませんでした。ただし、価値観がぐらつき、混乱してきました。考えは、普通一般の諸行無常程度の常識的なものと、功成り名を遂げたいという功名心的なものでしたので、理路整然たる言葉やそのヒューマニズムには、対応する言葉を持ち合わせませんでした。理論には、なるほどと思っても、どうも何か不信感が抜けなくて、入りこめなかった。的確に応対できないのですから、引け目が残りました。

ですから、そのころ、急に仏教的なものから離れていきました。これでは、理論として、社会科学や政治の思想に太刀打できなかったからです。何とか太刀打できるものはないかと探して、小林秀雄のものに共鳴して、これを楯にしてみたりしました。ほかにありそうもなくて、どうも自分には貧しいようなものでした。

力みふう、ハッタリふう、論争好きふうで、ここには大きく見る目が育っていない。というよりしぼんでいたみたい。問題が論争そのものにあるみたい。西欧と日本の文化の質の違いとか成立ちの違いとかの視点が熟していないようでした。こっちはなかなか日本の思想文化や土に自信が持てない。わかる以前に混乱して何が何だかわからなくなりました。小林もハッタリのような、大見得のようなものを切って大将のつもりでいる。

彼の目は主にヨーロッパを見ている。彼は仕事の土台、収入の糧もそこにおいているよう。小林自身、西欧にも日本にも自信が持てない状態のよう。戦争前後はこんな状態で、日本派も西欧派も混乱して貧しかった。このネジリの戦後余波に引きこまれて、私は、窒息状態でしたが、いかがなものでしょう。接し方が誤っていたのでしょうか。 森鴎外のいう普請中の悲喜劇のようでした。

いまは、ソ連もソ連圏も、昔のものがなくなってしまって十年。ウソみたいで、馬鹿みたいだ。あの騒ぎはなんだったのだ。まったくアホらしい。ソ連圏が慌てふためいて混乱してきたのはむろんだが、対ソ連で安定し食べていた者にも、混乱の始りだったのだから、ため息が出るようなもの。

いまこれを店で入力している。のり子ママが来て隣りに座る。豆をぼりぼり食って、NHKの「破獄」というえらくリアルなドラマを見始めた。さすがに打てない。で、いま休み休みしてこれを打っている。沢木興道と文の流れを思い起しながら、画面をちらちら見ている。のり子ママが、一本つけて持ってきてくれた。ああ―あ、今日も終ったかな。ヒマで打てるけれでも、ヒマで困るなあ。(つづく)

3月22日 承前

昨日、店が休みで椅子に寝転がって、沢木興道全集の、『学道用心集』を開いてみていた。三十年前と同じ調子の文が流れている。三十年の年季で、この人のことを文から少し推し測ることができる。だがナマの反応は同じだ。文からする沢木興道が、こちらを吸込んでいく。これでみると、この人の影響が自分には一時的のものでなかったのである。

そのとき、低い大きな声で、おおーおおーと玄関を呼ぶものがある。托鉢だな……まず用心する、わけのわからん者が物を売りにきたり、寄付をしてくれと言ってくるので。本物らしいので、横のドアを開ける。と、正眼寺と袋に記されてある。よしやってみようと、本を取って彼に見せて、いまこれを見ていたところだ、と中を開く。

この人を知っているかと聞くと、はあ―えらい人で、ともぞもぞ言ったので、よし何か言ってやろうと決めた。みると、素足にワラジ履きで、指が張れて赤くなっている。手も、ひび割れている。年のころは、二十歳。人相がいい。京都か奈良の、手が6本ほどもある少年か少女の仏像の表情に似ている。童顔の眉間にけわしさがあって、修行に一心になっているなとわかる。ちゃらちゃらしないし、口下手そうなのがいい。

「しっかりやってくれよ。坊さんも寺もひどくなるばかりだからな。この人のように、偉くならなくていい。なれないしね。けれども、志だけは持っていってくれよ。ひどい坊さんになってはいけないよ。禅と念仏は、日本の土だからね。ここがおかしくなっては日本は崩れていくよ。君らが踏ん張らないとね。本物を心がけないとね。戦後は、モノとカネがあふれて、坊さんはかえって生き辛いでしょう。」

「ええ、このあいだ、たまたま美濃加茂のオームの家の前に立って……青いような顔をしていました、みんな。」彼は、眉間にしわを寄せて懸命に喋る。「あんたね、なかなかいい人相をしている。見こみがありそうだよ。」と言うと、こっちをじっと見ている。いいかげんなことは言えない。修行という威厳がこっちにせまってくる。「あの連中は、頭もいいようだが、なにか狂っている。本人は狂っていることがわからない。ああいう者たちが出て来たについては、あんたたちにも責任があるんだよ。あんたたちの荒れようもひどいもんだろうよ。」

「曹洞では、道場の人数が多いんです。臨済では、少なくて。派には、十五ぐらい僧堂があります。その中で、正眼寺は一から三のうちに入ります。」と彼はこのことを誇りにしている。梶浦逸外のことを言うとすぐ、「妙心寺の管長になりました」と誇りにしている。正眼寺を持上げたがっている。私がなぜこの名前を知っているかというと、あのころ、同じ雑誌に、精進料理について、彼が連載していたから。この人はまた、中部財界などを動かして、正眼短大を創設し、また野球の川上を修行させたので一般に名を知られている。

注 この寺へは、去年初めて行って見た。所在地の伊深が、広い盆地のような所で、さすがいい所に寺がある。田畑が広い。ひょっとしたら寺の景観などのため、建物工場の建築を制限しているのかもしれない。実はお寺行きが目的ではなかった。カラオケ喫茶というものを尋ねていった。関市で、二軒、家内と寄ってきた。さすが、これも専門道場であった。)

この雲水には、傲然たるところなどない。しかし卑屈にはなっていない。ここが良い。受答えにハスッハ゜な所がない。見こみがある。清冽といった感じの僧になっていってくれとひそかに願って、大枚千円(普通は百円か二百円)を布施として出した。禅と念仏は日本の土台であり思想であり土だと言う者と、萩原というところで出会ったと思い出して噛しめていってもらいたいものだ、新しい生命を吹きこんでいってもらいたいもの。
僧も生活第一、金銭第一だが、そのほかに伝統と思想を背負っている。背負って、西欧とまともに会話できる人物が出てくることを期待する。

虚無と諸行無常はこの一文の基調予定で、また結論でもあるが、それを、彼に言おうとしてやめた。行きすぎかと思って。その代り「志」という言葉で代用させました。しかし、虚無と諸行無常を志の土台に置くことなど、一般には志の範囲には入りえません。
これは、世俗の、普通のこころざしとは違う。天与のものが必要であろうかと思う。しかしこれなくしては、シャカ以来の相伝はない。無常の激しさ深さのゆえに、世俗を絶って創造としての虚無にはいっていける。一般には、世俗を絶つ、日常の価値観を絶つことなど、きちがい沙汰でしょう。ゴマカシでしょう。

彼にも、「沢木興道の真似はできない、するとかえって変なことになる。しかし工夫を持って僧を続けて欲しい」とは言った。裾野があって頂点がある。しかし、仏教学者があれば、仏教の革新と清新が行われるかというと、これは落し穴です。ここがむずかしい。

この難しさが、日本思想の難しさです。言葉のタガをはめる思想ではない。その意味では思想と呼べない思想。あえて言えば自覚による思想。感ずるところにおいて成立つ思想。思想というからには、集団に関ることは間違いないけれども、言葉のタガがない、強制力がない。言わずして肝胆あい照らす。いいかげんのようないいかげんでないような。
しかしこれで日本は成立ってきた。外敵に小突かれることのなかった島国日本の幸運でしょう。

日本土着の思想や文学というと、『源氏物語』や『徒然草』、鎌倉期に勃興した新興の禅、念仏。すべてが、美の感覚の深さと自覚の感覚の深さから成立っているようだ。
さて、次の課題は、そういう国が突然鎖国を解いて、開国と同時に、国際弱肉強食競争戦争の場に入って行ったこと。日本中がおおわらわの人生に入っていったこと。その運命とダブって沢木興道の人生があり、創造があり、禅があること。
彼の沈黙の批判と国の礎たらんとする意思と。西欧流社会性を欠いた発言の徹底。あえて不器用な発言に徹する。これらが意味してくるものはなにか。

西欧摂取の成果がなって、強い国になった今、何か重大なほころびが日本にはじまっているようだ。競争、経済競争に勝ってみんなが日常の欲を達成したそのとき、足元から荒廃が始っている。この荒廃は、応急手当程度ではだめで、時間をかけてこれを修復していかなければならない。そこに、沢木興道が現れ出てくる。(つづく)

3月25日 フレーム

いま、亡くなりましたと、残された人より連絡があって、ついにかと腹を決めた。ひょっとしたら生延びられるんじゃないかと願って、けれども半年覚悟して待っていた。四十年間、彼には支えられてきた。かけがえのない大切な人だった。
落着かないので、関係のない、「フレーム」について入力するつもりで向います。

これで、名古屋の関係者が、六十歳前に、三人もバタバタ逝ってしまった。
さらに一人は、友釣の記事以来の十歳も若いやつが、いいやつが去年の11月に元気過ぎて事故死。僕はごく若いころから、まわりで、同輩後輩が死んでしょうがない。

フレーム に行こう。トップページの下のほうに、フレーム画面というリンクを作っていますが、それのこと。フレームはHTML勉強の最後、いちおうこれで卒業。これを期に外を歩く予定、マネー算段のために。引きこもっていては、状況は動いてくれない。けれども、HTML、HPをこのままでは、中途半端でアブハチ取らずになるので、食い付いておったのでした。

久しぶり、ここ数日新しいジャンパーを着こんで、クシを頭にいれて歩いてみました。歩くとは訪問する意。歩いて自分のHPを紹介する傍ら、フレームのことや、インターネット状況について、忠告、助言、友達を求めて歩いてみました。パソコン、ワープロ、インターネットの友達は一人もいないので。つまり孤独なので。

開けてびっくり、行く先々で、こっちがびっくりされてしまった。忠告助言どころではない。みなさん苦慮している。HPの方面に乗りださなきゃ、仕事に立遅れる、かといってなかなか船出できないようなようす。
で、急にここ数日アクセスが増えたのには、こんな事情があったのでした。OCNnavi- にしか検索登録ができないので、それまでのアクセスは、一日四、五人でしたのに、二十人以上になったので、こっちはびっくり。久しぶり外に出るとびっくりすることが増えて。

中でも、これは自分と妻の精神状況のせいばかりではなく、どうも、町全体、郡全体、あるいは国全体が、ノイローゼのようだ、ということ。今次大戦のころのように、心の集団病気。
むかし、高校の社会の教科書に、景気循環ということが説明してあって、入学試験にも出るので、覚えた気がする。その後、教科書にあったような景気の底はなかったようだ。国家が介入して、景気を動かすので、ということらしい。
今度は、こちょこちょ政治家が人気目当に動かしすぎたためか、今までの応急処置の膿みがでてきたためか、陰鬱な不活況が続く。

だから、訪問先は、ちょっとでも毛色の変ったいい話を待っているので、一介の初老がHPを手作りしたというので、元気話題にはなったようだ。
以前には、米騒動だとか、騒動がよくあったようだが、今の騒動は、あったとしても、オーム騒動だとか変な気持の悪いのが続く。どうなんだろう。
と話しかけて返事をもらっていた者がさっき死んでしまった。

技術上の話になります。
フレームがパソコン上ではできて、アップすると上手くいかない。これに悩んでいました。
と、あることに、簡単なことに、やっと気がついたのでした。アップロードした場合には、アドレスに続いて、index.htmlがきてしまいます。これをframe.htmlがくるようにする。ということは、現アドレスに、/frame.htmlを続けて入力すればいいわけです。

と、これは長男のアドバイス。
私が考えたのは、ゴツイ考えで、それは、
frame.htmlを、トップページでリンクして呼出すようにするというやり方。

彼は、そんなやり方はすっきりしない。だめだ、と頑固だ。しかし、自分としては、急にフレームがついた画面に変っては戸惑う人が多いから、過渡として、任意にフレームを選べるようにしたかったのでした。(noresize処置をしていないので、右の枠線は自由に左右に動きます。動かして、幅の操作を楽しんでみてください)

去年の7月のPC到着から、ワード、年末からのHP。無給のエネルギー消費が、ようやくひと段落を迎えることができました。傍嶋さんの参考書から始って、計4冊。長男は笑うが、むかしからの、これが俺流原始的やり方。まあ、しかし、彼の協力なくては、到底ことは成らなかった。ありがたいことです。
あの赤ん坊以来の者が、今は30を越して、親父に指示するし、こっちも指示されなくては進めない。こっちは老いていくし、向うは盛りにむかう。死んでいく者もある。

3月28日 愛知県S市へ

朝7時に出発。寒い。中呂の温度計は、マイナス2℃。
去年11月9日に、彼の自宅へ見舞に行っている。それ前、5月中ごろ電話で、癌でいま入院している、と電話があった。これにはたまげる。不治かも知れぬとまず考える。頭がぐるぐるめぐって定まらない。
「どこの」
「直腸」

ここで、すぐにめぐった考えは、どうも元気過ぎたからな、だから注意していたじゃないか、激しい運動はよくないって言っていたのに。いまさら言ってもしょうがないので、言葉を呑みこむ。言葉の調子から、手遅れの感じがしないでもない。彼は、何事にも、ハッタリを言わない、言えない性分だ。

前々年から、山登りをやりだしたといって、ここの御前山を二度も登りに来たことがあった。痩せてすっきりしていた。いま思えば、そのころ彼は重大な転機に入っていたのだろう。
学生のころ登山部に在籍していたことがあって、それで、今の山登りにはなるほどとわかる。安保のとき彼は、二年生で、教養部のリーダー格になっていた。それで登山は尻すぼみにさせられて。

いつもなら三時間はかかるのに、2時間半でつく。コーヒー店にはいって休み、めざす葬祭場をきく。私と同年配の者が夫婦でやっている。二人でやるには、店が広い。気力を集中してやっているので、その充実感が伝わってくる。脱サラの感じがする。長年やっている者によくある、澱(オリ)のようなものが非常に薄い。道をきいたとき、わかったようなわからぬような感じだったが、あんまり根掘り葉掘りはきけないので、はいありがとうときりあげる。店を出ると彼が駐車場まで追ってきて、説明しなおしてくれる。そのとき、帰りも寄れたら、と決める。

街の川筋には古い建物がみすぼらしい感じで続く。そのあたり一帯、新しい建物はない。だが、中心の道路沿いには、強そうな大きな建物が新しくたっていて、ここが、廃っている街ではないことがわかる。ずっとふくれてきた街なのだろう。陶器の輸出も製造もふるわなくて、苦しいとはきいていたが、見る限りは、そんな感じを受けない。以前の経済動力が、全体としては新しいものに変っているのだろう。

葬祭場は大きな建物。体育館ほどではないが、その半分はあるか。いちおう白亜である。が、せいぜいもって二三十年のものとして造ってある。経営者の苦心が見えて気持がいい。若い従業員がちらほらする。ほっとするしめずらしい。重々しいような感じの、同年配者たちが目についてしょうがないこのごろなので。
式が二つはいっている。ヘエー、結婚式なみだな。

式場はたっぷり広くて、中にいる黒服、喪服の面々もゆったりして、なんだか豊そう。私だけ、なんだか場違いのとこにいるみたいだ。一人だけ貧乏くさい感じ。ひがみ病気が出てくる。ここは一つ、株で儲けたと自分に言ってそういうツラにしてみる。しかし誰もひとのことには関心がない。
ざっと百五十人いるかな。会計士会と囲碁会の花輪がめだつ。椅子が並ぶ。劇場にはいったようだ。着席して上演を待つよう。壇上には祭壇が作られてあって、きらびやか。ほとけの写真は、ポロシャツを着ている。ほとけにはみえない。これが葬式かどうか、わからなくなる感じ。

いちおう名士になっていたんだな。
しかし、彼の生き方を映して、地味作りになっている。暖かいものが雰囲気に流れている。1年近い闘病期間があったので、みな覚悟は決っている。むしろほっとしている、自分も。奇跡頼み、神頼みだけだったので。

自分にとって彼は、名士でもなんでもない。あのころの彼である。彼にとっても僕はあのころの僕である。二人とも名士にはなる筈のないものたち。競ってなろうとしないような者たち。こういう資質は、僕のほうはハッタリくさいけれども、彼には身についたもの。だから、名士的なものにつくっていきつくられていくことには、きっと苦いものがあったろう。
そこに無理があって、酒なども多飲したのではないかな。資質と違う生活を続けることにつらかったろう。資質とはそういうもので、ほとんど変えることができないものですね。

全体に簡素な式。しかし弔電についておかしいと思った。まず代議士などのものが呼ばれるのは、いづこも同じで、そういうものとして。娘さんのТ銀行と弟さんのS製薬のものが幾つも呼ばれるのは、その社の宣伝を聞いているようで気持がよくなかったね。

お坊さんは4人。小さめの人たちだなと思っていたら、どうも尼さんらしい。一人だけは、男のようだったが、あるいは彼もそうだったのかな。禅宗にしては、聞いたことのないお経のようだった。なかなかいい声でよろしい。威圧するところがない。チンポンジャランもやさしい音を出している。彼女たちが帰るとき、曹洞宗とアナウンスしていた。契約僧侶たちなのだな。東本願寺門徒の場合は、その向きの契約者が来るんだな。まさに営業で、ショウ。

彼は、仏教系のТ高校の出である。しかし彼は、その話をしない。好きじゃないようだった。もっともキリスト教だってそうだった。とにかく好き嫌いを言わない珍しい人物。僕がわがまま者だったので対照的。
つまり彼は、本音を隠して義務として生きていたようだった。自分の人生ではなく義務としての人生。そういう人もあるもんだ。これも資質だろうね。彼は自分の資質を隠して生きた。

5月病気を言ってきた次の日、S市へ。行く道、何を言おうか考え迷った。
行ってみると、拍子抜けする。病人には見えない。普通である。が、手遅れ1年と彼は言った。また、例によって、僕のしゃべりまくりが始る。
苦しかったら言ってくれよ。やめるから。と言っておいて喋る。
この際は念仏がいいと思うよ。彼は、もう考えているので、こっちが何を言ってもどうということはない。ただ、僕が困る。黙ってじっと座っているわけにもいくまいし。それでしゃべる。彼もその辺は承知しているので喋らせる。つまり、彼は、僕がそこにいるだけで嬉しいわけなのだ。

僕が念仏がいいだろうと、ちょっと無責任な口ぶりで言っていると、奥さんが、娘があちらでキリスト教にはいって、いろいろ言ってくるんですよと。
じゃ、まあどっちでもいいですよ、と言う。やりいいのがいいですよと。気持の滅入りを処置するときのことを考えてこれを言ってみている。彼は、とっくに考えていることだろうけど。
彼には、僕の言うことではなく、僕がそこにいることが嬉しい。喋りの内容ではなく、喋りそのものがいいのでしたろう。

外へ出ると、快晴。さわやか。気温も上がっている。棺の中の彼を見たくないし、見送りたくないので、こっそりと抜出す。これはわがまま。それでも彼は、あ、そうかと言うだけだろう、きっと。

さっきのコーヒー店へもどる。ランチを注文する。12、3人ご飯を食べている。テレビが貴闘力の優勝と表情を伝えている。おかずは二本の串カツと、こんにゃくと卵におでんタレがかけてあるもの。串カツはかたくて噛めない。しょうがない、最後グッと呑みこむ。入歯でない者でも、とてもかたいでしょう。このカツは、既成のものだな。一人では、つくる体力もないので、この程度しか仕方がないのかな。

4月2日 土曜日 引きこもりなど

「朝までナマテレビ」という喋りあい深夜番組があります。以前は大晦日にやっていました。いろいろ言葉のパフォーマンスがあって僕は、来年を楽しみにしていたくらいでした。このごろは、毎月やっているんじゃないかな。今日はたまたま、ひきこもりなど教育関係の話で面白かった。出演者が若返っていて良い。若返りすぎるかも。一生懸命さがいい。

番組全体でいちばんびっくりしたのは、引きこもり者の9割が男だということ。みなさんもまさかと思うでしょう。このデータに反論する者がいなかったので、その通りでしょう。たしかに、言われてみれば、その傾向の者は不器用な男たちばかりだ、少し変な感じのする。ギクシャクして滑らかさを欠くような。

僕の結論では、引きこもりは、豊かな日本症候群ですね。
次は子供のかまいすぎ。ヒマや心の不安定を子供にぶっつける親、母親。そりゃ、子供は、親のいうことは聞きますけれども、やがて親のねじった対応は子供のねじった対応として膿みとなって出てくる。
単純な結論としては、その子が一人だちして生きていきやすいように育てる。子供に一方的に期待をかけたりすれば、反発しますね。自分の勝手な欲を子供に、弱いのをさいわいにして、押しつけないことですね。

大人どうしは、なるべく時と場所を選んで、濁った心を吐き出し合うことは不可欠のものですが、子供に対しては、これはだめです。濁りを選分ける力がないので、いやな感覚がたまっていきます。
子供にまず大切なのは、知能や、競争力ではなくて、まっすぐないい感覚ですね。感覚は、はっきりつかめないものなので、扱いにくいのですが、これは第1番のものです。感覚に大きさのない知能は、しなびていきますね。対人関係もそこないます。

僕は小学校は活発でしたが、中学校高校にかけて、不活発な面、悩む面が出てきました。そこに疲れると、じっと閉じこもっていたくなります。この傾向は、いまもありますし、誰にもあります。調子の良いときは活発、調子が悪くなると不活発と休息、引きこもり傾向。
しかし、それではダメなので、生きていけないので、エイッと決心して人間たち、人間群の中へまたはいって行きます。人間群は、他の生き者同様生きていくために競争にシビアですが、反面、くつろぎ合おうとします。暖め慰め合おうとします。群として、競争とくつろぎの両面を自ずから実行しています。群の知恵ですね。

時代がアレレと変っていって、自分たちの慣れた地図の中に入らなくなった。これが現状でしょう。入らなければ理解困難。そこで、いったん諦めるか、自分の地図のほうに現実を合わせようとする。敢えて言えば、両極端ふたつ。
社会現象としてのひきこもりには驚きますね。僕にはその地図がありません。したがって、すっと理解できません。僕の若いころ、精神病になってだめになった者は、数人いましたが、引きこもりはなかった。それぞれに群の中へ入っていった。はいって、鍛えた。つらい面楽しみな面、残酷な面やさしい面、を覚えて自分が生きていく知恵としていったのでした。家に引きこもって他人との交わりを絶つ、という行動はなかった。あるとすれば、伝統としての、修行の引きこもりです。これも、修行僧という群の中のことでした。死を覚悟で一人こもる、空海のような者は、例外の強者ですね。

引きこもり者は、不平不満を言いつつ、結局は、それがけっこう楽しいのでしょう。楽しみを見つけていったのでしょう。もし不快が続けば、出てくるでしょう。飛出してくるでしょう。不快じゃなくて、むしろ楽しみを見つけている。けっこう工夫して上手に生きている。鯨のお腹の中で生きる幸せという寓話があったように、胎内復帰感覚は、程度の差はあれ誰もが持っている。

しかし、これは、人間群から見ると、ゆゆしい事態です。適齢期には、それぞれ相手を見つけて、子供をなし、家族を作るのが群れの基本掟。ここが崩れては、群の興廃に関るからです。人間ひとりは、そのひとりの損得、喜怒哀楽を追い求めますが、人間群は、群の興廃盛衰にしか関心がありません。会社員と会社の関係と同じです。
日本人間群の元締めたる政府と国家は、だから引きこもりに重大な関心を寄せる。これが、群の衰微の予兆ではないかと。どうしたらよいか手をこまねいている。いや、日本人間群は、根本の所で、群の思想と教育という土台からして、再編をせまられているのであります。

日本は、世界第2位の経済大国だそうです、こんな島国なのに、奇跡の島ですかね。その経済が、やはり落し穴を作っていた。経済第1主義とは、人間個々にまで、経済が進入し規定するということです。経済第1主義は、おもてだって、大日本帝国のような国家思想を振りまわさないけれども、ちゃんと隠然と思想も教育も巻きこんでいる。元締めたちは巧妙にやっている。ほとんどみんながこの中に巻きこまれていった、大日本帝国に巻きこまれていったように。
子供は、アメリカに生れても、アフリカに生れても、極東に生れてもいい、たまたま日本に生れただけ。自身は自由で無垢だ。だから、彼は、引きこもって参入を拒否しているわけである。経済的人間、経済第1主義に、彼は叛旗をひるがえす。引きこもる。不登校する。

大企業幹部や、役人、警察トップまで、不祥事が続く。これも、引きこもりや不登校ほどロコツではないが、隠微な現体制拒否ではある。

戦後日本をやれ行けどんどんでやってきてつまずかなかった。小渕首相らの世代には、そういう日本が自然のものであるかと錯覚しかねないほどに、敷かれたレールの上を楽天のなか生きて育ってきた。だからいまさら、急に危機の日本について土台から考えて何事かを提案することなどできない。

社会党の墜落のあっけなさでわかるように、戦後日本も戦前と同じに、つまるところ大政翼賛的であったと言えよう。みんな同一で同質。社会党も自民党と違う質を信念として主張していたものでなかったことが露呈して、僕など、コンチクショウと呆れても、結局自分が怠慢ですっかりぬるま湯につかっていたことが判明しただけ。批判を言っても、カッコよさのアクセサリーのようなもの。ぬるま湯につかって現行日本を楽しんできたのでした。

テレビの喋りあいを見ていて、しかし、若い世代の彼らに感心することがあった。それは、姿勢が好もしいということ。
みんな豊な日本の戦後に育って、ぽっちゃりと豊そうで坊ちゃん嬢ちゃんふうですが、足元をはずさずに自分の肉体から安易に飛出さないで、正直にじっくりと考え生きているという姿勢ができていることです。これはすばらしい。たしかに、司会のタハラがジレていたように、彼らには、現状日本を歴史や思想から見る目がうすいけれども、大言壮語しないぶんいいとしたもの。

大言壮語の虚しさは、社会党やら進歩派の理路整然たるまくしたてで苦い思いがあるので。
彼らの、幼いようにさえ見える着実さ、正直さがよい。この姿勢を、続けていけば、必ず着実な次の日本ができていく。身についた言葉を使っていこうとする姿勢、これが最高にいい。最高の贈物。明治以来ようやく、この姿勢を身につけることができるようになったのだ、と僕は嬉しい。

しかし、反面、彼らの苦難を思う。彼らには、小渕首相らがらくらくと乗ってきた、乗るべきレールが破綻しているのです。壊れていては進めないので、作っていかなくてはならない。自前で、手作業で作っていかなければならない。
今度こそ本物の手作業であることを念じます。

そのテーブルの発言者のなかで明らかにおかしかったのは、アグネス・チャンと、年配の教育方面の顔役のような人物。これを教条的と呼ぶのかな。紋切型。
アグネスは、どこの土の中も生きていない。言葉のなか、彼女に都合のよい言葉のなかを生きている。であるべきだ、という論調を繰返す。であるべきだと言えないで、言えるために、彼らはここで悶えているのに。まだるっこくても、日本の混乱した土の中から着実に方策と言葉を見つけていかなくてならない。たどたどしさこそ本物なのだ。

もうひとり、年配者は、自分のいままでの言葉、地図に現状を当てはめようとしている。これはもう退場願うしかない。現状を見極める目がないのである。ここに、いかにいまの日本が、20年前と違ってしまっているかを証明している。彼は、空疎なもっともらしい言葉を並べるが、みんなは聞かない。無視している。

二人の、教師ふう紋切型が無視され浮きあがされていることに、安心しました。ここは、型どおりの論議では一歩も進めないからです。
言葉にされた普遍的規範のない日本国では、やっさもっさやって行くしかないのです。しかし、トロクサイ国かというと、違う。すべての面において民度は高いでしょう。やっさもっさやって行くのが、日本の特色。やっさもっさ国。

規範はどうしても似合わない。受けつけない。
となれば、こういう国として引受けて覚悟して出発するしかない。これは賭けではない。いよいよ独創の途についた。彼らのお喋りを聞いていて、そう希望的断定に至りました。