ダイアリー・エッセーbP0   

目次 2000年.H12.11.14〜H13.01.11
01/11 今週はあわただしい
01/09 浴槽から出られなくなった
01/07 岐阜、N斎場へ
01/06 インターネット授業
01/01/01 あけましておめでとうございます
12/30 「人が村をつくる」 新潟県黒川村 伊藤孝二郎村長の話
12/27 一万回の失敗、一万一回目の成功
12/25 良寛さん
12/21 怒鳴る
12/17 三日続きの忘年会
12/14 ジオHP転送、ワイン、婚姻書類、夕食献立
12/13 趙 治勲 名人の墜落
12/10 お公家さん
12/08 円空さん
12/05 頭が凍る。
12月3日 映画、学歴、佐藤忠男
12月2日 全身麻痺が治った。抗鬱剤。柳沢桂子
11月29日 不登校のこと。関道介さん。
11月27日 学校のこと
11月25日 挙式。 朝まで生テレビ
11月23日 萩小PTAのサイト。加藤紘一氏波紋。祝辞。
11月22日 政治家 加藤紘一氏へ
11月21日 コップ国会 雨 萩小 充血
11月20日 ニヒリズム  『トカトントン』
11月18日 ぶんがく毒1、2 三島 太宰
11月14日 役場ITrevolution  図書館太宰本 禅

11月14日 火曜日 役場ITrevolution など

昼に、役場のIMさんに呼ばれて起される。ふらふらして出ていく。今朝まで、いろいろやって起きていたので。彼とは初めて会う。今度新しくなった役場サイトのことで。そこに町の宿泊所案内を設けたいというので。私が旅館関係の連絡係をしているので。それと、すでにページを持っていたので。
彼が持ってきた記入書類を各旅館に配れと。配って記入してもらいさらに写真を添えて。さっそく廻って配り説明する。だいたいどこも、はいはいと喜ばない。面倒だからである。メリットがないと読んでいるので。しかし、役場のやることなので協力しようと。

今度のページは、イラストがなかなかやわらかくてよろしい。明るい色。これは製作者のセンスである。この期に、いよいよ地味な当町もIТ時代突入だな。担当のIMさんも若くて張りきっている。アンテナを全方向に広く深く広げていってもらいたいものだ、そして、地元についても、あらためてそれらの目で。情報の方面では、先走りするくらいがよろしい、もともと保守が根っからの地元なので。大地についた革新こそ新しい方向である。役場そのものが、情報発信局なので、その源なので。東京や名古屋、岐阜にしかなかった情報源が、ここにもある事になった。大変な革新の時代の始りです。発信となると、おんぶしておれない、責任が伴う。

配っていて、ТB館さんの前で思いがけない光景。その入口のところで、トラックの横側に乗用車が突っ込んでいる。なぜ、乗用車が国道から左折してぶつかったのか理解に苦しむ。起るはずのない事故である。眠っていたとしか考えられない。

図書館へ。三島由紀夫二冊を返す。期限がだいぶ延びている。縁が三島から奥野へ、そして『人間失格』へ、そして太宰本へ。大型の集英社版を借りる。なんと、昭和六十二年から、私でたったの三人目。太宰治がですよ。三島ならともかく。奥野さんやらの戦中派は、どう思うのかな。田舎町だからこんなものなのかな。

昨日、大拙さんについての座談をラジオで聞く。当時学生だった楠氏、晩年の秘書だった岡村女子。司会の金光。彼の日常についての座談だからかもしれないが、どうもはしゃぎすぎている。まあしかし、岡村さんのお喋りの声がなかなか魅力的だった。それをプロデューサーは主眼にしたのかなとさえ思われる。岡村さんは、彼のそばにいたという誇りと喜びでいっぱいのようだ。幸せなことである。禅は、というか、禅もというか、幸せ教になっているようだな。これは、本来なら、そんなものではありえない。苦々しいもののはずだ。一般の者は幸せでけっこうだが、指導者がそんなことでは困る。この座談は岡村女子に引張られている。これは、くりかえすが、プロデューサーが、そういう見識を持っているからなのだろう。

11月18日 土曜日 ぶんがく毒

どうも調子が重い。体調から来ている。ここしばらく、昼夜逆転が続いていたので。その他に、三島の小説の事があるようだ。彼と付合い始めている事なので、なんとか投げないで長引かせようと工夫してみる。
田舎町の風景の中で育って来ているので、また人のいいような家庭で育ったせいもあるのだろうか、どうももともとねじれに弱いのかなと思う。あるいは、単に体力と年齢かな。心身が甘いのかな。まあ全部だろう。これで、なにかちょっといい事があると気分が上を向くのだが。だいたいは、いやな陰鬱な状態に向って時が進んでいくのだろうと覚悟はしているが。十年前と比べると、二倍は怒りっぽくなっている。憎まれっ子で厄介物になりつつあるようだな。

読んでいる小説の影響のことを書いてみる。もとは、日記を、ページの更新のために始めた。三月から開始してここまで来た。よく続いて来たものだ。三島の小説感想もそのひとつだ。ところがこれは、向こうがこちらに影響を与えてくる点で、感想日記に終らない。奥野さんの『三島由紀夫伝説』は好意と善意に溢れていて、気持を軽くしてくれるところがあった。だが、その中で『人間失格』がずいぶん褒めてあったので読んでみて、小説の恐さを知らされた。一口で言うと、恨みつらみの小説である。毒がいっぱいだ。著者はこれを書いてすぐ川に飛込んで情死したのである。毒吐き、抗議、憂さ晴らし、復讐、の文になることはあたりまえじゃないか。それなのに、こっちは文章というものは、読者を喜ばせるためにあると思いこんでいる。とんでもない思い込みだ。こんな毒吐き小説が、世界文学史に残るものだと奥野さんは力説する。事実として、今でも若者に読まれている、外国でも。こんな毒吐きの、復讐の、敵意の小説が。悶々の心情が。

これは、復讐と恨みと激しい悶えを持った読者が喜ぶ小説。思い当るところのない者にはさっぱり面白くもなんともない。退屈なだけである。自分は退屈せずに、ふむふむと感心して、またドキッとしながら読み進んで行ったので、調子が合うのだろう。気が若いのかも知れぬ。感心はするけれども、閉口はする。いまさら、この終りに近いような者が、正直とか純粋とかに肩を持ってもしょうがないからだ。しかし、伝わってくる作者の悪意にはまいる。自分などは戦後民主主義とマスコミ欲望刺激情報と高度成長の子なので、鍛えたりないのかな。

三島が三十九歳のときの長編『絹と明察』を少しずつ読んで半分まで来た。どうもまたむかむかが始った。腹と頭のぐあいが悪い。調子が変だ。例によって悪意がじわじわと紙面からにじみ出てくるようになった。小説全体が悪意に満ち始めてきている、主人公の駒沢紡績社長、駒沢善次郎にだけではなく。駒沢の日本的と言われている経営方針や彼の心情が嫌いでも、こうもしつっこく毒毒とやり込める必要がないじゃないか。読者に作者の意が伝わればいいのだろう。女々しいような毒っぽい文章表現は無用である。と、三島自身知っていたはずだ。けれども、あのようにいやな文になってしまう。こりゃ、三島のある種の病気だね。『金閣寺』の毒もそうだが。

三島の悪意は、太宰のと違って、攻撃性が強い。三島は、ごく幼少のころより悪意には、祖母によって鍛えられてきているそうだが、頑丈だ。とても、こっちは応えられない。太宰の悪意はマゾっぽいが、三島のはサドっぽくてかなわない。つづく

 11月19日 日曜日 ぶんがく毒2

結論として初めから頭にあったこと。それは、むかし読んだ漱石、鴎外、藤村にはあった善意とかやさしさというものが、太宰、三島では、ねじられてしまっている事だ。それらが、悪意として、復讐として紙面から湧き立ってきている。ものすごいエネルギーで。
『金閣寺』は三島の傑作ということで読まれているそうだが、ほんとかいなと言いたい。二人は戦後の代表作家なのだそうだが、こんな毒に満ちた作家が代表とはどういう事なのだろう。自分らはその中に居るので、しかとはわからないが、よほどの毒悪の中に居るという事なのだろうな。

三島は晩年、文学の毒について警告を発している。文学毒発信の大御所がわざわざストレートに言っている、迫力がある。次のように言う、
《世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写を通して、この人生にはなにもなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。そして文学はよいものであればあるほど人間は救われないということを丹念にしつこく教えてくれるのである。そしてもしその中に人生の目標を求めようとすれば、もう一つ先には宗教があるに違いないのに、その宗教の領域まで橋渡しをしてくれないで、いちばん恐ろしい崖っぷちへ連れていってくれて、そこで置きざりにしてくれるのが「よい文学」である。『若きサムライのための精神講話』》

太宰治の『人間失格』はこれにぴったり当てはまる。太宰は今生の最後に、渾身の力をこめて、人間失格者の自己弁護を、正当化をする、ありったけの手練手管、表現力を駆使して。私のような古びた頭でもくらくらするのであるから、若者ならイチコロにやられてしまう。逃げ、言い訳、自己弁護、に利用する。集団や世間に怖気づいている者や、逃げたいと思っている者はこの小説の中に巣篭ってしまう。首だけ出して、口だけは達者に動かす。そして、その若者をシャキッとしない者に育ててしまう。《世にも美しい文章や、心をとろかすような魅惑に満ちた描写による、毒、である。》知らず知らずの毒である。

ちょっと文学毒の話から逸れるが、戦後という時代が、よほどイヤな所のある社会なのじゃないかな、その中でどっぷり育てられてきたのでよくわからないが。毒のない社会も時代もない。毒のない人生もない。けれども、これほど執拗に、しかも、死を賭けてまで、世間と対立するという事はふつうではない。一方は心中、一方は腹切。とりわけ、戦後が悪いようだ。太宰も三島も、戦後の日本に対する、体を張った抵抗だな。東映任侠路線のヒーローたちのように。
彼らは、戦後民主主義がペケだと言ってくるのだ。みんな、社会党も自民党も、共産党も、どうだ戦後民主主義は日本を豊にしてきたじゃないかと胸を張っている。すると、三島も太宰も、キチガイ文学者になってしまう。そんな結論はおかしいんだが。

11月20日 日曜日 ニヒリズム

このテーマは今までも今後もちょいちょい現れるだろう。無聊、退屈といった程度でもあるし、もうちょっと深刻な場合もある。ニヒリズムは、幅と深みのあるもっとも現代にふさわしい言葉だ。例えば、現行日本はニヒリズムを抱きかかえていると言うときは、バブル崩れ以後の、ある精神状況を表す。ぼんやりした平和な状況なのに。大東亜戦争のころの日本は、モノも精神も不自由だったけれども、ニヒリズムからは遠い。

ニヒリズムの先駆者のような太宰は、戦中の『津軽』という文では元気いっぱいである。ものすごく張りきっているので、もうちょっとカゲのある文にしてくれよ、と思ったものだった。
司馬さんなどはそれに無縁のような感じだけれども、文の奥の方にちょっと言いたくないほどの、無残なようなニヒリズムがにじみ出ていてギョッとしたものだった。つまり、日本では、戦後の日本では、取りついてほどけない心の病気なのではないかと。

ニヒリズムなどという言葉を、今の私みたいに大事そうに扱っている者などは、周りに居ない。実態があるようなないような、ないようなあるような言葉なので、そんなものとはみんな付き合わない。一人だけいるかな。しかし彼も、それについて私みたいにヒマにまかせて熱心に考えてみるわけではない。こっちが喋るので、そうかと想起するようだ。どうも、ぐあいが悪い。孤独だ。自分がおかしいんじゃないかと自信が持てなくなる。
好んでのことではない。その証拠に、パソコン日記を書き出してから、また三島や太宰を題材にするようになってからそういう傾向が出て来た。

これは、大学へ行ったせいかな。またKのような者とつきあったからかな。いやな傾向なのだが、自分にはどうにもついてまわる。因縁だとしよう。まあしかし、軽く考えよう。魚釣りとか、商売とか、献立とか考えるように。このどうにもついてまわる傾向をいやがらずに、開き直って受け入れたほうがいい。
それにしても、あのころ大学へ行っていなければ、またここの高校を出てからすぐ地元に就職しておればこんな厄介な妙な頭の傾向を知らずにすんだろうに。因縁だ。つきあった女性も、家内も、そんな傾向はないので、やはり何かの病気じゃないかと自分に自信が持てなくなる。

ニヒリズムの反対の心の状態はと言うと、何かに夢中になってそれに関わる事ばかり考えている時だ。要するに、夢中になっておればいいわけである。充実している。心が詰まっている。無我夢中の時、目的に向かって一心になっている時は充実して満足している。目標が混乱してくると、精神の集中も行動の集中も取れなくなって、力が抜けていき、むなしくなる。ニヒリズムが好きな人はいないはずだ。

三島は、体つきから何からして、ニヒリズムに関係ないようだが、その実は違うようだ。彼は、常に緊張して生きていた。ボケっとしている時間などは彼にないように見える。朝から晩まで勤勉そのものだ。常に頭にも体にも、びんびん刺激を与えている。にもかかわらず、ニヒリズムや嫌悪感が文面からにじみ出ている。彼に、ニヒリズムについてのすっきりした論評はあるのかな。ないんじゃないかな。

太宰治に『トカトントン』という変わった名前の小品がある。死の前年、昭和二十二年の作品。これをこの間なにげなく読んでみて、恐くなった。『人間失格』と同じに恐い小説だ。太宰が、許さんと言ってくる。戦後民主主義も高度成長も、すでに見通しているように、許さんと言ってくる。ニヒリズムから逃がさないぞと、小説家太宰のすべてを文に乗せて言ってくる。大変な迫力。もし恐い物好きな人なら、ぜひ読んで見てくだされ。体のシンからゾォーッとなりますよ。
物事に感激して奮い立ち、よしっやるぞと向かいかけると、遠くからトカトントンという金づちの音が聞こえてきて、すべてを真っ白に虚しいものにしてしまう。この青森の人、太宰に相談をかけてきた人は、二十六歳の敗戦のとき以来、トカトントンに付きまとわれている。トカトントンが彼の充実に邪魔をしてくる。そして、ニヒルへ引っぱり込まれてしまう。という話しで、無気味。

どうも厄介なことになりました。若いころつきまとわれたニヒリズムとかは忘れて、宿屋の亭主で生きてきたのですが、ホームページの更新日記が縁になって、またこの虫が動き出したわけです。大学へ行ったとき、いわゆるインテリというものに仕立てられたらしい。インテリ虫に取りつかれたらしい。ニヒリズムだとか、トカトントンだとか、人生上の余分なことに敏感にさせられる。こんな事は、とっくに自分の中で消えているか弱まっているはずだったのに。

三島の『金閣寺』や『仮面の告白』が嫌いだったのは、ニヒリズムの方向へ行きたくないからだったのだ。そして三島にはつかまらなかった。また三島自身、ニヒリズムが嫌いなようだ。『葉隠』はニヒリズムではない。その反対だ。人生を肯定している。明るく伸び伸びしている。三島はそこが気にいっていた。三島は、太宰をいやだったろう。けれども、太宰の声というのはすごい、恐ろしい。三島は、結局は太宰の向こうへ行けなかったのじゃないかな。

11月21日 火曜日 コップ国会 雨 萩小 充血

きのう一日中雨。体調を崩して一日伏せる。だが、昼、山水旅館さんが役場サイトへの資料を持ってきたので夕方出かける。すごい雨で、夏のようだな。役場二階の総務課へ行って担当者へと窓口で手渡す。雨でシャツがべったりする。寒気がする。

萩原小学校PTAよりメールがある、はじめて。リンクに当サイトを使いたいとのこと。OK。役場といい、町のサイトが新しく歩き始めているようだ。発信が充実してきたら、新しい町の風景が始まるだろう。いろいろの意味で。どんな風景が始まるだろうか。始まらないだろうか。

夜、国会テレビを見ていたら、松浪というなんでもレスリングの選手だったという議員がコップの水を投げた。なかなかの見もの。意外で面白い絵だった。だが、野党が怒り出して議事進行がストップ。野党は、腹いせをやっているんじゃないか。感心しない。だが怒らないでもおかしい。どういうもんだろうな。恐いアンちゃんふう松浪議員が、殊勝に席で体を小さくしていた。彼は保守党だという。だいたい保守党は日和見でけしからん。あそこの扇という党首は、実に感じが悪い。どっかのワルずれ高慢マダムのようだ。

 扇党首について、かなりの悪口を言っているが、印象としてはウソではない。今日カゼで寝ながらラジオを聴いていて、その理由のひとつにハタと手を打った。答弁の声の色合いがよくない。ちょうど細君がガーガーと攻めてくるのに似ている。イタケダカである。私は私はと言い過ぎる。聞くほうはうっとうしくなる。感性が感心しないということ。国会にシャレた感性の女性議員が現れたら、日本が変わるときだ。まだまだ先だろうけど。

一昨日の夜、めずらしくお客が続いて、応接した家内が今朝になって目が充血している。疲れであろうということだが。今日下呂病院へ行く。こっちの薬も切れているので。

国会はどうなるだろう。まあ除名だろう、と思っていたら、直前に欠席に戦術変更。驚かない。そんなものだろう。とにかく、このごろの政治に騒ぎがなければ日本はオワみたいなものだが、加藤議員が慣れぬ反乱をやった。まあよくやったものだ。秀才加藤よ、手を汚せ。泥をかぶれ。先頭を切れよ。森とかいうタイプではもうだめだ。戦後民主主義の姿が、森さんに代表されてある。彼は、我々の代表選手なのだ。若者たちよ、よく見ておけ。君たちの親の世代は、もうダメなのだ。自分で自分をどうにもできない。政治家だけではないよ、大学も親たちも、みんなダメだな。だまされるなよ。牙を磨いておけよ。世の中全部ダメにされていると決めていい。世の中、根本から疑えよ。日本中がモノバカになっているんだ。解からないかな、解りにくいだろうな。みんなおかしければ、おかしいとは思えない。気づかない。そのいちばんの証明は、政党は全部が全部おかしいじゃないか。自分さえ良ければいいというのは資本主義の原理だが、もう時代後れだな。

11月22日 水曜日 政治家 加藤紘一氏へ

午前三時までも起きていて、加藤氏の釈明を聞く。聞きながら思うところあり。それは、以前日本新党や小沢新党のときとは、はっきり違うなということだ。あの時は、ショウを見ているような趣があった。

あの時はマスコミも国民も軽かった。観客席から腕組みして見物する気味があった。今回は非常に重い。ショウにならない。
ついに、日本の危機はホンモノになったということ、国民が、ようやくそう考えるようになった。後がなくなった。冗談ではすまされないぞと。

その一番の急所は、森総理はじめ、すべての政党と政治家が、我ら国民と同じだとわかってきたからだ。我々の年代の者が、今や政治の中枢を握っている。高みの見物ではすまされなくなった。それは、我々戦後世代のダメさかげんを、我々自身がよく知っているからだ。森総理は我々なのだ。加藤氏も山崎氏も例外ではありえない。もう、今までのようになんとかなるさではすまなくなってしまっている。ホンモノの危機だ。考えてみれば、共産圏の崩壊がすべてのはじまりだったのである。来るべきものが来た。驚いてはいけないのに、驚く。それだけ日本の病気が深いということ。

加藤氏たちの自重は、正しかったと私は判断します。国民は、二人の姿から、そのいわく言いがたいところがちゃんと読めています。彼らの動きは、ショウではすまされない。よって、自重は正しかった。二人の姿から、日本の危機を、国民は今度こそ感じ取ることが出来ました。

次の機会のために力をためてください。事態は深刻だからこそ、自重と果断が求められています。日本の片隅で、ひそかに期待して見守っています。

 このあいだ亡くなった三十年来の友Kが、もう十年以上前に、加藤紘一はいい、期待が持てる、と言っていたのを思い出す。何を言い出すのかと、その時こっちは聞く耳を持たなかった。政治には関心がなかった。誰が首相になろうと、大して変わりないとしていたので。
今度は、何か心を打つものがあった。詳しいことは解らない、政治家集団の流れも解らない。たが、何かこっちをまともにさせるものがあった。Kを信用すれば、いや、したいので、加藤にはなにか新しいものがあるぞと直感する。浅くないものを。日本と日本政治の流れに深く根ざしたものを。

加藤の言葉の切れ味に、なにか新しい感覚を予感できる。いま大事なのは、感覚の新しさなのである。知識や考え方などは、みんな似たようなものだ。それらには、日本を動かす馬力はない。感覚の新しさこそ馬力である。橋本にも森にも、何も新鮮な感覚は感じられない。どんよりしている。加藤にはあると見た。近い将来に、この期待を裏切られるとすれば、私は明日への意欲をそがれるだろう。おそらく、日本中が。立ち直れないほどのひどい傷によどむだろう。息をひそめて待つ。

11月23日 木曜日 
萩小PTAのサイトについて。加藤紘一波紋について。祝辞

〇〇様
 
萩小のPTAページについて、〇〇様より説明を受けましてそういうことかとわかりました。親たちには、原稿などの依頼はむずかしいと思われます。私自身、町の旅館組合の新聞からの依頼原稿が、ごく短いものでも非常に苦痛だったものです。
これは、学校のページですので、先生が動かなくてはなりません。先生がやって見せれば、親はついてきます。その例としていま思いつくものとしては、
 
自己紹介を兼ねて先生一人一人に、IT関連の所見を述べてもらうのがいいでしょう。こういうもの、ああいうものがやりたいとか、ITが嫌いだとか、何も期待していないとか、いろいろ自由に意見を言ってもらうのです。それを読めば、親たちは、学区だけでなく全国で、そういう実情かと知ることができてためになります。
 
小学校でも、パソコン教材による教育がされているようです。これは、親の経済効果にとどまらず、教材として非常に優れているからです。子供たちの多くが、機械を扱うことが楽しいでしょう。そのとき目が輝いていることでしょう。ここには自発性という教育にいちばん大切なものが芽吹きます。自発性と、文字と、絵などグラフィック、の教材としてパソコンを使う。
学級日誌。植物や動物の育成日記。益田川遊び、駅見学、諏訪神社歩き、などなどいろいろあります。企画はいっぱい立てられますが、実際にやるかやらないかが問題です。その時に、パソコンは、文を作ったり読んだりすることが嫌いな子供にも、クリックで画面が自由に動く快感から、それらへの興味をかきたてられることでしょう。
 
以上の、文字あるいは絵による作製画面が生き生きして魅力があれば、親たちは楽しんで見ることになりましょう。すると親たちは、子供たちや学級に向けて、何か発信したくなるはずです。親の生涯学習の芽にさえなるでしょう。
思いつくところを言ってみました。私には、〇〇さんの工夫と苦労がわかります。部外者にはわからないものです。どうぞ、以上ですが参考にしてみて下さい。大坪

以上は、〇〇さんへの返信をコピーしたものです。

次に加藤紘一波紋のこと

政治のことで、サイトに載せることは、事が現実問題なので、なかなかビビルものです。三島や太宰についてどんなことを言っても、事は現実関係にさわらないので、まあ気楽なものです。加藤氏についての私の発言は、読む人が殆どないとは言っても、仲間内の世間話とは違う。で、急に、報道に感心が出て来た。すると、マスコミ発言というのは、その場を騒がしくして視聴率を稼ぎたいのだなと、解かるところがありました。
加藤問題を長期の、日本の問題として捉えていない。捉えようとしていない。私は、加藤波紋は、小沢脱党の時より根が深いと見ました。また、加藤氏の考える所は、深く広いとみました。森さんは、どうせ自分は当て馬だというところが見え見えで、いやなものです。彼は、自分はその任ではないとよく知っています。加藤氏と森氏では、事の深刻さがまるで違います。

野中という人物は、私は買っています。この人は、その志においてすぐれていると見ます。
どうも日本中、政治をダシにして営業している姿ばかりのようです。という事に、この際、報道を注視していて気づきました。テレビも新聞も評論家も、みんなが自分可愛さの営業をしている。困ったものだ。政治よりも、それがいちばん困った事態なのです。自分で自分を批判できない事、政治家だけではない。その点で、加藤氏山崎氏は、何事かです。何かが違います。と、そう見る。二人がウソだったら、日本は、鶴田浩二じゃないけど、何から何まで真っ暗闇です。ひどい貧乏はもうないけれども。

選挙区のK議員が、加藤氏とは深い結びつきのはずの彼が、加藤氏について行かなかった。こりゃまずい。まずいことをした。後援会の意見なのかな。私は、議員とは何も関係がないけれども、今度の彼の行動はまずかった。情けない。老人の方にくっ付いては、将来がないじゃないか。相手から脅されたかもしれないけど、断固加藤氏と歩かなきゃだめだ。

祝辞 

明日は、甥の挙式だが、カゼで調子が悪い、祝辞を述べることになっているが。何を言おうかな。ぶっつけ本番だ。このごろの婚姻難に、当人よりも親の奮戦にこっちは感動したものだったので、それを言ってみようかな。

11月25日 土曜日 挙式。 朝ナマ

二十三日に、甥の挙式は無事終了する。新郎側代表で、予定どおりスピーチ。自信がなくて、メモしていったが、上がって、慌てるのでメリハリのきかない喋り方になった。高島田が三十万とかで、親と一緒にウームとうなってしまった。
帰ってから、新郎のうちで親族が二十人ほども集まって小宴会だ。知らぬまに一族の中心のようになってしまっている。新郎のいとこ達が元気いっぱいだったのが印象に深い。この景色で見る限りは、戦後日本の豊かさや明るさや伸びやかさは、間違いないことだったのかなと思った。苦しいのは我々の世代なのかな。ここ十年の景気の下降にこそ慣れていないので、動揺してしまっているのかな。

まあしかし、よくぞこの結婚難に、家へはいってくれたものだ。親子での、必死の嫁さん探しが、新婦の心を動かしたのである。
二人で昼食に来た。修一は、焼きソバとご飯を注文した。すると新婦が、朝ご飯を三杯食べて、またそんなに食べるのとたしなめたそうでおかしかった。そういう夫婦になるのかな。腹ごしらへして蜜月へ。

昨日は、張り切ったのでガタがきて、一日中寝いる。起きるに起きられない。体に引っ張られるので気持ちが苦しい。夜長男から電話があり、萩原の生活ぶりについて、いつになく心配していた。式で、田舎の人達と交わっていろいろ考えるところがあったのであろうか。

夜中に目が覚めたのでテレビを入れたら、朝ナマをやっている。加藤紘一問題が中心のようだ。うつらうつらしながら終わりまで聞く。日本の政治と社会が、かなりの行き詰まりになっていること。自民党が嫌われていること、想像以上だ。都会が田舎を切り捨て始めた。もうかまっていられないと。しかも、栃木や長野といった田舎でも、既成政党に票を入れなくなっている。日本は、混乱混迷の中へ突っ込んで行っていることは間違いない。不透明が常識になっている。困った。まあしかし、新生日本は難産である、とそう腹を決めよう。

11月27日 月曜日 学校のこと

二十三日の挙式後は、体調不良が続く。カゼも治りきらない。ウツ状態。グチっぽく、怒りっぽい。早くも壮年が終わって老年だ。若さは宝みたいなものだったのが、いまは解かるけれども、若いときにはそれがわからない。あたりまえとしている。

昨日、布団のなかで、いい画面を見た。NHK国際賞の受賞作品。
『レンズの向こうの真実』。
カナダの作品。麻薬中毒者を取り締まったり訓導する警官と共にレンズが動く。路上での場面が続く。悲惨なものだ。十代に興味で麻薬に取りつかれ、抜けられない。コカインとヘロイン。中毒者に、馬力があるところが面白い。懸命に生きる。死ぬまで生きるという感じだ。彼らは、朝から晩までヤクのことを考え続けている。驚くのは、そのたくましさだ。一人で生きる訓練ができている、そういう社会なのだな、と思う。

『民主主義とは何か』。
スエーデン映画。スエーデンの若い劇団員たちが南アフリカへ行って、そこの劇団と共演する経緯のルポ。文化の違いということを、スエーデンの側が辛抱して見つめている。スエーデンという国の、落ちつき、成熟を感じる。地味だけど大した国だなと思う。じっくり足もとを見つめて生きている国。

『未来への提言』。
NHK作品。ソマリア出身で、アメリカでファッションモデルとして成功している、ワリス・ディリィが、アフリカにおける女性性器切除についてルポする。そんな事があるのかと驚く。これは千年来だという。

本題。このごろ、小学校のホームページのことで考えてみる機会があった。二十三日の日記で少しふれている。昔を思い出してみるに、問題は、生徒よりもむしろ先生のほうにあるのではと。子供たちは,勉強はともかく、その自然の姿からして、自発性のかたまりである。自発性に躓いているのは、大人、先生のほうじゃないかな。先生が、いろいろの意味で傷ついている。それが生徒にうつってはたまらない。

いま、小、中、高、大学、と思い出して見るに、小中のころは自分に自覚がほとんどなかった。高校で少し鮮明になった。大学では、世界が広がりすぎて、変化に振り回されて、頭が茫然としているうち終わってしまった。高校で、先生の自発性が重大なのだとわかった。くぐもっている先生からは、何事も発信してこない。通り一遍の授業が最悪だ。大学など、ひどい月給泥棒だった。授業は先生の気迫がすべてだな。気迫が、心の通い合いを呼び覚まし、知識技能の伝達を生む。

11月29日 水曜日 不登校のこと。関道介さん。

つい先日の新聞で、不登校について、ある精神科医が長く調査し統計していた内容を語っていた。私は、不登校については直接の経験がないので解からないし、強い関心もなかった。しかし、この先生の発言には関心を持ちました。思い当たる所があったので。
それは、一番の原因は、学校授業への親の過剰反応だという指摘だ。ということは、不登校児は、やんちゃ者ではないということになる。親の言うことをよく聞く児だったのだということ。いわゆるいい児だった。親に従ういい児だったから、結局、家庭と学校の両方で授業を受けることになってしまう。これではたまらない。息を抜く所がなくなってしまう。非常に残酷な話だ。親の都合が子供の心を傷めてしまっている。

僕らが子供のころは、貧乏と野蛮はあったけれども、不登校騒ぎはなかった。先生や先輩ワルは恐かったが、陰湿ではなかった。理不尽はあったが。しかし、今は、理路整然としていて、そして結局それが理不尽になってしまう。非常に複雑な原因を作っている。熱心な親から不登校児の多くが生み出される。親の子に対する過剰親切。

友人Kの長女は、小学校へ上がる前からよく知っていた。写真も何枚か撮った。とても伸び伸びとして気持ちのいい子だった。彼のうちとは、百キロも離れていたので、詳しい情報はない。その子が小学校の四五年のころ、不登校を起こしたと聞いて驚いた。こっちはさっぱり判らない。なんでも、担任がきっつい感じの先生で、そのことが原因じゃないかという話だった。どうも半信半疑だ。けれども、こっちから詮索するべきことではないので、逆に、この話題は腫れ物触りのようなことになっていた。
ついこのあいだ、彼が亡くなったあと母親と一緒に萩原へ来た。アメリカに二年ほどもいたということだったが、どうもそれにしては感じがやさしすぎる。もっと横着なくらいでふつうなのだが。優しいことはいいことなのだが、気になる優しさ。やさしいことと弱弱しいこととは違う。で、不登校の後遺症なのだろうかとしゅんとなってしまった。

関道介さんの話。
布団のなかで、体を丸めてうつらうつらしていると、どこかで聞いたことのある言葉の調子が流れて来る(ひだ言葉だったので)。耳をすませていると、マレー方面で諜報員として従軍していた人の話だった。喋り方にメリハリが利いていて、この人はかなり喋り慣れているなと思った。戦闘のようす、捕虜になった時のようす、処刑のようすが語られる。彼は、誇りを持って戦った。それが伝わって来る。聞いていて嬉しい。こういう人がいたんだなと。まっすぐな人物だ。戦前の人物だ。
圧巻は、敗戦時、彼が単独でマレー共産軍のチンペイと、敗戦処理を談判したときのことだ。一日で話しをつけた。彼らに日本軍の武器を渡すこと。あとは一切追い討ちをかけないと。そしてこれは守られた。関道介さんは、この「信義」ということを強調していた。彼らには信義があったと。
日本軍は、めちゃな作戦をしでかしていた。華僑虐殺など、ひどいことをやった。現場の者たちには理不尽だったが、命令なので聞かなければならなかった。

関さんは、なんと、高山市の人だった。敗戦時彼は二十七歳。当地で捕虜となり、昭和二十三年に日本へ帰ることができた。現在、高山商工会議所名誉会頭である。

12月2日 土曜日 全身麻痺が治った。抗鬱剤。

柳沢桂子という科学者の話をラジオで聴いた。
彼女は全身麻痺が進んで、最後は身動きもできなくなった。いろんな治療を受けた。治らない。だが遂に、千葉の精神科のお医者さんから吉報が届いた。精神科と全身麻痺がどういう関係にあるのだろう。意外だ。柳沢さんも、周囲の人も半信半疑だったろうな。しかし、もうワラをもつかむ思いだったに違いない。

ところが、その先生が調合してくれたクスリを飲みはじめて一週間すると、体が動き始めた。治りはじめた。長年寝たきりだったので、筋肉が退化してしまっている。簡単には動くようになれない。それを少しずつ訓練して、一年後には歩けるようになった。そのクスリの秘密は?

それは抗うつ剤だった。うつ病のクスリだった。この薬は、神経と神経の連絡をスムーズにするものなのだそうだ。神経伝達補助剤とでも呼ぶのかな。これが、柳沢さんのいったんは諦めた症状の治癒に劇的に効いた。神経伝達を改善したので治ったわけだ。意外な、不思議な、常識ばなれした話だった。忘れられない話。

12月3日 日曜日 映画、学歴、佐藤忠男

この町に映画館が二つあった。洋画も来た。アメリカ、イギリス、フランス、イタリー、ソ連、スエーデン、ポーランド。町の文化の窓。十代にはよく見た。とりわけ洋画を見た。だが、以来三十年以上も映画はほとんど見ていない。

ラジオで佐藤忠男という人の話を聴く。
この人は、私より十年ほども年長。映画大好き。映画館通い。しかも研究心を持って見つづけた。
彼は、十四歳の時、敗戦にあった。戦中すでに映画少年。戦中なので戦争映画である。彼はこれを熱心に見た。映画とはそういうものだった、ちょうど戦時日本をそういうものとして疑わなかったように。私の世代は、戦争映画というものをまったく知らないが。

佐藤忠男は、敗戦時を、二十歳の若者のようには、あるいは十八の若者のようには迎えなかったけれども、衝撃は衝撃であった。その例として彼は次のように語った。
戦時中の、政府御用映画の英雄は、藤田進であり、大河内伝次郎であった。進め、進めの大熱演。佐藤は、憧れて見ていた。ところが、戦後になると、とたんに、彼らは、反戦映画に出る。戦中、戦前の否定者として。これは少年には衝撃だ。そしてこのことが、彼の生涯の出発となった。比較や相対化のきっかけとなった。映画を通じて、なぜかを問い続けることになって今日に至った。

その例として、物語という事について彼は語った。物語、つまりロマン。リアリズムの反対。映画は、一般には物語である、ロマン。戦争映画もそうだ。リアリズムでは反戦になってしまう。映画は戦争賛美を物語らなければならない。厭戦であってはならない。事情はアメリカでも同じだ。極端な物語を作る。都合のよいウソを物語る。楽しい物語、夢を見させてくれるロマン映画。彼は戦時の価値観のひっくり返しにあって、映画の基本であるロマンに疑問を抱いた。ロマンの裏返しのリアリズムに敏感になった。彼は、映画をこの二つの眼で見るようになった。

恋愛ひとつでも、アメリカ映画の扱いと日本映画の扱いに大きな違いのある事にこだわるようになっていった。その奥にある、文化の違いについて映画を通じて知るようになっていく。
感傷や泣くことも。日本映画では、よく泣くそうである。しかもめそめそと。後年、アジアの映画にも関心を向けるようになっていって、韓国映画でもよく泣くことがわかった。しかし、日本と違って、豪快に泣く。めそめそ泣きではない。

と、そういったことについて、彼は映画からいっぱい学んでいった。このあたりから、話は、学校に移る。
彼は、新制高校卒で、大卒ではない。かえってよかったと考えている。映画周辺について、気が向いたように研究していった。好きで漁っていること、それが結果として研究となっていた。もし大学へ行けば、中心が失われ薄まってしまったかもしれない。薄い知識に走ってしまったであろうかと。

彼は、ロコツには大学については言わないけれども、話ぶりにそれに批判的であるらしいと伝わって来る。
例えば戦後の代表監督について。小津安二郎、黒澤明、溝口健二。彼らは大学へ行っていない。溝口などは役者の子で、小学校も満足に行っていない。ついでに、小説家では吉川英治とか長谷川伸とか松本清張とか。彼は、大学がダメだなどと粗雑なことを言っているのではない。戦後日本映画の隆盛が、小卒も中卒も大卒もまぜこぜの中で、よき映画作りに一心となった成果であったと言いたいのである。

そしてその後の衰弱について、戦後の、大卒社員の数百人に一人というような選抜試験の結果が、何かたくましい創造力をひどくダメにしているのではと言いたいのである。小学校から大学、就職に至るまで、試験試験試験である。記憶すること、試験に良い点を取ること、これらが青年たちのすべてのようなことになってしまっている。これでは彼らは、学校教育の終りには、くたびれ、いじけてしまっているだろう。試験点数序列の国だ。ついこのあいだまでの中国の科挙の試験は対岸の火事ではなくなっている。
いま日本は国難であるけれども、テレビによく出てくる指導者たちの厚みのなさ、人間としての印象の薄さに、佐藤さんは不吉を感じていることだろうな。

12月5日 火曜日 頭の中が凍る

寒くなった。朝起きると、室温十度。店へ行ってみると、七度。風邪が治りきらない。寒さのせいだ。
今日は休みで、決めてあったように家内を病院へ連れて行く。眼科へ。二週間前に充血の治療をし、今日は再検査。大丈夫。次の検査は一年後。

寒さで思い出すのは、十数年も前の、Kのうちでの事。Kのうちでは、ストーブが広いダイニングキッチンにひとつで、私など慣れるまでは寒い。夫婦もその二人の娘もそれをあたりまえにしている。彼女たちは、いまどきめずらしくおとなしい。夫婦からしておだやか。あんまりおとなしいのには、こっちは苦手なので、少しとっぴなことを言ってキョロッとさせてやろうとしてみた。次のように言った。

「オジさんのうちはな、貧乏でな、ストーブが焚けないんだ。コタツにはいって、服をたくさん体に巻いて、じっとしているよ。すると、夜になると、だんだん寒くなる。零下になる。それでも、本などを読んでいる。すると、なんだか頭が重くなってくるんだ。で、頭を振る。前後左右に振る。からからと音がしてくる。頭の中が凍ってきたわけだ。凍ると、頭がうまく働かなくて字が読めなくなってくるので、よく振ってこなごなに壊してから、コタツのなかにもぐり込んでとかすんだよ。」
と言って彼女たちを見ると、目を見張ってこっちを見ている。驚くわけでも軽蔑するわけでもない。ただこっちをじっと見る。だいたいそんな反応だろうと予想していたが。ところがKが喜ぶ。これが意外なのだ。計算外の人が、ひそかに、ニヤッと喜ぶわけだ。この光景は、まざまざと生きている。寒くなると、いつも思い出す光景。Kは二月に逝ってしまった。

さっき、買って棚に仕舞ってあった『倅・三島由紀夫』の第一章を読む。三島のオヤジ、梓が書いたものだ。この本は毀誉褒貶のようらしい。自分には面白い。独特のツッパリがある。この人は農商務省の上級職だった。エリートだが、大蔵省などではないので、あの中ではエリートではない。それをモロに出している。文化人や、政財界人に激しい敵意と嫌悪を抱いている。予想外である。こりゃ面白いおとっつぁんだ。
三島由紀夫は、予想以上に、家族の者たちには聞き分けのよい子供であったのだな。

12月8日 金曜日 円空

円空さんは辞書で見ると次のようにあった。「江戸初期の臨済宗の僧。美濃の人。東日本を遍歴。各地で多数の荒削りの仏像(円空仏と称)を刻んだ。(1632〜1695)。」
きのう円空についてテレビで見た。その仏像の迫力と不思議な魅力に驚く。ちょうど映像は、奈良県の大峰山で修行する円空を映していた。その洞窟に独り真冬にこもる。下界にもどれぬ覚悟をして。時に円空四十歳。この時から円空は諸国行脚の僧となり、仏像を彫りつづける。北海道までも行っている。十万体余りを発願して。

禅宗の僧として出発したが、思うところあって、山岳修験僧となった。定着を嫌った。諸国を流浪した。
禅宗からは、そうした異様な人物が出ている。ある高僧は、突然地位を捨てた。弟子がついて行くと言うので、やむなく一緒にしばらくいたが、やがて、その生活ぶりに弟子は脱落する。予想どおりである。乞食以下の生活だからだ。犬のような暮し。彼は、そのようして道端に朽ちることを願って、成就された。
円空さんは、そうした異常な人物ではない。仏像を作りながらのこつじき行脚である。この人たちは、名前と業績が知られることになったが、不明であろうとして不明のまま終った人はずいぶんいたろう。

人の背の二倍ほどの像もあれば、切れ端に彫った小さい像もある。それらの像は、願によって成されていて、趣味によるものではない。その迫力、気迫がどの像にもある。
すべての像が荒削りだ。専門の仏師のものではない。これらは、修行と願によるもので、いわゆる美的なものではない。その伝統から外れている。意図して外れている。彼は、そのようにして、伝統と文化の形骸化という避けがたい宿命に挑戦しこれを破り新鮮に変える。彼は、実行の人として、ひたすら歩き続ける。

晩年になると、像は優しく穏かな表情になる。ようやくにしていわゆる仏の顔を作れるようになった。それまでの二十年間は、憤怒の像だ。憤怒して優しさを出させない。嘘と停滞を拒否して。
死ぬ数年前、六十四歳で終えることを言って、その通りにした。ということは、自殺である。内容は、即身成仏。生きたまま、掘られた穴にはいって死ぬ。その塚が関市にある。
びんずる像というものがあり、これは晩年の自画像だそうだ。生命と魅力に溢れ笑っている。

12月10日 日曜日 お公家さん

加藤紘一さんはどうなっているのかな、彼のHPを見てみる。つい数日前のもの。彼は言う。表に出ないでいること、テレビからも呼出されたが出なかったこと。また、受けとったメイルについては、見ているとのこと。しかし、日に数万通なので、どう処理しているのだろうか。それ専門のものが当ってはいるだろうが。
彼の文章は、はじめて見る、落ちついていない、雑っぽい。もうちょっと何かぴかっとするものがあるはずだが、期待はずれだ。ただおざななりに入力したように見えてしまう。まさか、本人の直入力だとは思うが。

彼と彼らのことを、お公家さん、お公家さん集団と呼ぶのだそうだ。
加藤紘一氏でいちばんの印象は、彼が、現内閣不承認の行動にでると公言して、一挙にマスコミに集中され始めたばかりのころの、テレビ画面上の、上気してのぼせたような表情だ。どうも様子がおかしかった。坊ちゃんが、力んでいるみたいでこちらに安定した感じを与えていない。それで、変な感じだと思ったわけだ。しかし、坊ちゃんふうは新しい政治の風であろうかと好意的に取ることにしたが、現実は、どうも、坊ちゃんふうがはめられたようだな。しかし、あるいは、ほんとうに、一人よがりだったのかもしれない。政治家としての力量が乏しかったということかな。

国民は、強い政治家を待っていること間違いない。真綿で首を閉められているような現況に我々はよく耐えているけれども。まあ今、望まれるのは、テクニックではないな。人間の大きさ、幅、器量、などなどだ。これらは、急ごしらえできるものではないので、困ったものだ。成長経済、消費経済、その効率というブルドーザーが日本の土台まで根こそぎにしてしまった。知らぬまに心を、常識を、ねじらせて浅はかにしてまっていた。どの政党も、フラフラにさせられている。これは、第二の太平洋戦争の敗北だな。

若いころ、アメリカをめちゃくちゃに、スローガンとしてやっつけ罵っていたのが左翼だったが、あれはどうなったのだろう。結果として、左翼までも、一緒に戦後日本に踊ってしまった。踊らされてしまっていた。今ごろ気づいては、手遅れかな。

12月13日 水曜日 趙 治勲(ちょうちくん)

趙治勲とは囲碁界の第一人者で、今年四十四歳。もうそんな年になったのかと思う。二三十年前、囲碁にこっていたころ、この名前はしょっちゅう囲碁雑誌で見ていた。当時から強かった。この世界は、新聞のスポーツ欄に出ているようにスポーツ扱いで、勝つことがすべてである。彼は、五百人ほどのプロの碁打の頂点にたってきた。二十年も。

その彼が、教育テレビで、中野孝次という碁好きの文士と碁盤を対して話をしているじゃないですか。懐かしくて注目していると、どうも様子が変で、堂々としていない。そわそわぼそぼそと伏目がちに話している。その理由は、ここ一年ほどに、本因坊、名人、棋聖のビッグタイトルをたてつづけに失ってしまったのである。つまり、負け続けたので、教育テレビに登場となった。勝ったからではないところがユニークだ。あまりに強かった棋士なので出演の声がかかった。受ける方も受ける方である。感心する。彼は、負けてみじめな姿をさらしている。まあ、飛びきり強かったからできる芸当であるが。

話の焦点は、当然のことながら、なぜこれほどのトンネルに、不調にはいったかだ。それを彼はみずから話して確めたいし、こちらも聞きたい、みんなも聞きたい。
それを彼は、集中力、情熱、と言った。負けが続いてますます二つが落ちて行った。いくら焦ってもダメだ。ここまで落ちて彼は、はっきりと、これは年齢の大きな節目のせいだとしていた。二十年間の緊張がぷっつり切れた。彼は、もう這い上がれそうにないと弱気になっている。まあいつかは来るべきものだが、遂にきた。大鵬にも、長島にもきた。頭のスポーツなので、五十歳でも横綱になれる。容易ではないが。

彼は、六歳のとき、単身韓国から来て、木谷門下にはいった。十一歳でプロになり、二十四歳で名人となった。以後、ずっと囲碁の横綱を張ってきた。彼には、独特の陰影、屈折したところがあり、文学者の興味を引いたことだろう。
人間趙治勲をこれほどに、その弱さも見せつけたのであるから、彼は何事かである。この虚ろさというもの、凡人でも同じくある。ただこれほどに注目されないが。それにしても、囲碁しかない人生、勝つことしかなかった人生なので、ふと虚しさにとらえられてどうしょうもないだろうな。普通の人間、ふつうの棋士にはなれないからね。

底辺のプロ棋士のことはまったく表に出ない。黙々と生きているのだろうな。弱い者がいるから強い者がいるのだと胸を張っているかな。みんなの尻からなんとかついて生きていく、これだって必死なのだ。強い方ではなく、弱い方のその他大勢組に興味があるね。

12月14日 ジオHP転送、ワイン、婚姻書類、献立

今日は、こまごました事柄を記入してみよう。
まずジオシティーズのHP作りと転送。ここ数日、これがうまくいかないので、その連絡関係が理解できないので、身体に酸がたまっておった。どうにもいらいらするので、きのうの夜、その前の夜と、めずらしくぶどう酒を飲んだ。一本は、新婚の甥修一のハワイみやげ。これが辛くてうまい。ついついちびりちびり飲んでしまった。日本酒では、こんなに飲めない。修一夫婦の新鮮を思い浮べて、イライラを吹飛ばすべく飲む。次の日もジオシティーズがいらいらさせるので、数年前の、これも結婚式の引出物のワインを奥から取出して飲む。こちらは甘い。甘くて感じがよくない。しかし、ちびちび飲む。そのうち甘いのか辛いのかわからなくなる。

ジオシティーズへの写真ファイルがアップ成功、ファイル転送で。サイト転送では、機械が拒否してくる。転送手続が面倒だけれども、ともかく送れた。さあ、写真を載せまくるぞ。新鮮な娘さんが周りにいなくて、おばあちゃん、おじいちゃんの写真ばかりになるのかな。重いな。いずれにしても、こうも引きこもっておってはいかん。意地の引きこもりだ。書を捨てよ、街へ出よう。PCを捨てよ、街へ出ようだ。もう少しの資金の見こみがあれば元気が出るのだが、前方が暗くて。どうしたらバンザイを先延ばしにすることができるか、そのあたりをうろついている。

修一が、夜、こっちはジオシティーズとケンカしているところへ、今晩は、今晩はと玄関で呼ぶ。不機嫌症がこの時は、はーい、と待ってましたとばかりいい声をだす。なぜか。ジオシティーズ転送の目どがついたので。我ながら、軽い声に気持がよくなる。玄関へ前のめりに突っ込んで行くと、修一たちは、直立不動で、感じよく、おじさん、頼みたいことがあるんやさ、と言ってくる。なんや、カネならだめだぞ、とパシリ一発かますと、二人とも上機嫌で、いえいえと言う。そうか、よし、俺の部屋はきたないので、店へ行こう、と。カウンターの向うに二人が座る。いのちが張っている。毎日、じいさんばあさんを見ているので、とても新鮮。まずおもむろに土産を出す。高山のラーメンですと嫁が言う。それはありがとう。つまり、これが頼み代なのだな。婚姻の書類を持ってきたわけだ。嬉しい書類に、土産までもらって、バチがあたるほど嬉しい。

今日の夕食献立。四人ぶん。
刺身、かきのフライとトマト、大根と人参と昆布の煮物、ナスのかき油いため、やわらかねぎの味噌汁。刺身は、はまちとマグロ。マグロは柵ではないが油がのってうまかったので。以上全部うまい。家内がパクパク食べる。パクバクバク一心に、ちょっと身体を傾けるようにして食べる。食べ物に切ないようにして食べる。こっちは安くてうまいものをつくるのが生きがいなので、その姿に、複雑。むろんこれは、お客さんようである。二人だけの食事は、家内の手になるものだが、いたって質素、ふつうである。人生残り少ないので、うまいうまいと食べる。

12月17日 日曜日 三日続きの忘年会  

第一日目は下呂の旅館へ。建物も、部屋、設備も立派だが、料理は、これは料理と呼べるかどうか。隣に座ったSIさんは、「こういうものは、ばあちゃんたちが内職で作っているんだ、おれは見て知っている、だから、食う気になれん」、と激しく言った。さらに余勢で、「刺身が乾いているじゃないか」、と。この刺身の切身の小ささにはびっくりだ。ついにここまできたか。おひな様用のような。しかし、自分は同業のはしくれで事情が推測できるので複雑。

帰り、久しぶりでスナックAへ。農協さんの忘年会で活気がある。
下呂では、「兄弟船」を歌う。後に続く者がない。元気がないというか、なんというか。孤軍奮闘か、浮きあがりか。
Aでは、長淵の「とんぼ」と「シャボン玉」を歌う。マダムがくらくらに酔って立っておれないほどに。つい数年前までは、ウワバミみたいに強烈だった者。すべてが未来に、つまり老いに向って。時は矢のように速いのだそうだ。それほどではないが、過ぎてみると速い。日本語では、光陰矢のごとしと。わかったようなわからぬような身につかない言葉。

二日目、きのうは、「鱗友会」。ここで。最後の勇者たち五人は、明くる午前三十分に帰った。深夜から朝にかけて、パソコン写真の修正。
そして今日、疲れて起きれない。えいっと起きる。お年寄り六人。シーズンにとっておいた最後の小型アユを焼き、刺身とサラダ、それにあげだし豆腐。
いま眠ってしまわぬように、身体を前後に動かしながら打っている。テレビでは今、「終着駅」。「津軽海峡冬景色」。続いて幾三君が「雪国」。
そのまま眠っていると、大前さんのカメラで撮ってくれと、起される。ついでにデジタルも持って行く。失敗しないよう、設定を変えておいた。マニュアルは同じだが、感度をオートではなく100にし、basicをnormalにする。さてどうか、どうやらOKらしい。みなさん、六時に来ていま九時半。まだ頑張っている。不景気風はいまはどこかへ行っているようだな。ちなみに、きのうの連中は、7時半から最終の者は零時半。こうなると馬力がないとだめだな、遊びでも。そして不景気風はやっぱり、どっかへ一時退散だ。トタニサンは、前日腕を折ったばかりなのに、これをつったままにして参加した。この情熱はどう表現すべきか言葉を知らないです。

12月21日 木曜日 怒鳴る  

先日、知人ではなく他人にどなった。はじめてのことだ。
隣町の大規模電気店で。若い店員に。むろん新米だろう。
この男には以前にも、「このばか者めが」、と腹の中で怒鳴った事があった、また同じようなことを言ってきたので、今度は、でっかい声で、なんだ、なに言ってるんだ、とやった。彼はしれっとしている。ボケたんとこっちを見ている。

この日、年賀状用のインクがきれたので、買いに行った。終ってから店内をぐるり見てまわった。デジカメを見ていて、このぶんならこの店にあるだろうと思って、その店員にきいた。
「十六メガのコンパクトフラッシュはあるかね」
コンパクトな閃光器ではない。まぎらわしい名だが、デジカメ用の、フイルムにあたるPCカードである。すると、彼は、
「十六メガが使えるかどうかは、説明書を見てからにしてください」
またバカなことを言ってきた。そんなこと、ここで調べたらすぐわかることじゃないか。
「ニコンのクール何とかというカメラだ」
「古いものだと、使えないものがあります。説明書で調べてきてください。ここではニコンは扱っていません」
「なに言ってるんだ、バカヤロー、調べりゃすぐわかることじゃないか、商売だろう、高山の系列店で買ったんだ、電話でもなんでもして調べろ」

ほかに客はいなかった。二人の店員がこっちを見ているらしい。後ろをふりかえると、視線をそらした。
「カードを見せてください」と言う。
カードに登録していなかったら逃げるつもりらしい。カウンターへもって行って調べた。むろん記録してあるにまちがいない。それから彼は、十分ほども出てこなかったが、やがてカタログを持ってきて、百九十メガまで使えますとその部分を指していった。
「そうか、八メガは出ていないんだな。よし、十六を買う」
それで終り、後はなにも言わない。そのまま帰る。
後味は悪くない。怒ってよかった。よくもあんな声を出せたものだ。寝不足で機嫌も悪かったし。

この店員は自信がない。それを隠すために小細工してきたものだろう、客を威圧して。このままほおっておいては、やつのためにならない。
こっちがドカチンの格好をしていたことも影響していたようだが、カッコウでひどい目にあうことがあるんだ。よおく気をつけろ、ばかもん。

12月25日 火曜日 良寛さん 

小冊子『青春と読書』に中野孝次氏が良寛さんについて書いている。なるほどそういうことかと感銘しました。
辞書には次のようにある。《江戸後期の禅僧・歌人。俗名山本栄蔵、号は大愚。越後の人。諸国を行脚の後、帰郷して国上山(くがみやま)の五合庵に住。性恬淡(てんたん)、村童を友とし、高潔の人格を敬仰された。書をもって知られ、また漢詩・和歌にすぐれた。弟子貞心尼編の歌集『蓮(はちす)の露』などがある。(1758〜1831)》

良寛さんは、人気があるのだそうだ。とくに、バブル崩壊以後の混迷において人気がでてきているという。彼は、いまの日本からは想像もできない、空想の中の人物のよう。今の自分を照らすために良寛さんを読む。
そのまっただ中にいて、みんなが同じでは、自分の姿がはっきりと見えてこない。くっきりさせるために良寛さんを求める。何かがおかしいけれども、それが何なのかはっきりわからなくてもがく。

政府の第一の目標は景気の回復だ。ところが、良寛さんの生活では景気が悪くなるばかりだ。無欲小欲を旨とする事になっては、日本はつぶれてしまう。誰も、そんなところへは戻りたくない。けれども、良寛さんはひそかに熱心に読まれている。あんまりおおっぴらにはできないが。

彼は僧であったけれども、今は何者でもない。乞食僧である。山中の五合庵は板敷にムシロ、壁も板である。冬、そんなところで独りよくぞ生きられる。暖房冷房の文化生活に慣れきっているので、私らにはこれはおとぎばなしの世界だ。そんな良寛さんの生活が、こちらを照らしてくる。
そのいちばんの力、迫力は、彼の心、みずみずしい心だ。これこそが意味がある。もし心が伝わっていないなら、単に風変りの人が居たというだけである。

彼の生活ぶりは、文化などと呼べないが、彼の心、思想こそが文化、日本の第一級の文化なのである。我々の今のITも、ついに達成された文化なら、良寛さんのあの生活と思想と作品も文化である。モノではなくココロの文化。
良寛さんは私自身の心構えのありようと、日本の明日へのありようにとって、何事かである。

12月27日 水曜日 一万回の失敗、一万一回目の成功

今冬いちばんの冷え込み。起きたとき、室内で六度。戸外を歩くと皮膚が痛い。昼、少しやわらぐ。

ラジオで、元気よく喋る声が聞える。聞耳を立てると、運動部のコーチか監督が訓練の模様を喋っている。京都大学アメリカンフットボール部の話だ。気持が集中してくる。
数年前の正月、この大学が全日本の決勝をやっているのを見た。何かの間違いだろうと、はじめ思った。東大、京大は勉強の学校だが、スポーツでは後ろにいる。六大学野球で、東大のビリは決っており、シーズン何勝するかが話題となる。京大もそんなものだろう。ところが、この学校が、アメリカンフットボールの決勝を争っている。まったく考えられない。一体どうなっているのだろう、何が起きたのだろう。この疑問はそのままになっていた、だから、その監督、水野弥一氏の話なので、ラジオに食いついた。

雑用の話をしていた。雑用は、一年生ではなくて、四年生がする。これに驚かない人がいるだろうか。雑用は初年兵がするものと決っている。初年兵の楽しみは、上級にあがることだ、雑用を命ずる位置につけるので。だが、それは、私の生れと育ちを暴露する。まず、しょっぱな水野さんの話にがあーんと打たれた。
もし、雑用を新入生に命じたら、みんなやめてしまう。ははあーん、それくらい部員そろえに苦労しているんだな。なるほどな。入部してくれなければ、すべてが始らない。とにかく部員確保は、すべてのすべてだ。そこで、雑用は四年生がする事になる。いやいやではなく、こまごまとやったことだろう。なぜなら、部員がいてこそ、第一の目標、勝ちあがることができるので。

新入生は、まず興味半分でのぞきにくる、激烈試験勉強でかたくなった頭と体で。その彼らを、まず上手にだまして入部させなくてはいけない、さらに、アメリカンフットボールに興味とやる気を持たせなければならない。監督も上級生も神経を使う。楽しそうな雰囲気などををつくって。

次は、訓練の話。初心者には、高度な話は無用である。現実的、具体的な訓練をする。手取り足取りで。一歩一歩前進していることがわかるようにする。進歩している事がわかれば、やる気が出てくる。ここだ。ここが大切な第一歩だ。この時に、高度な精神論や抽象論は無用である。あくまで現実的で具体的にすすめる。
ここを通りすぎれば、やる気と自覚ができてくる、欲ができてくる。さてここからが勝負にかかわってくる。勝ちあがって行くためにはどうするか。どう訓練するのか。

水野さんは、その例として、見ると見える、について次のように言った。
見るは、集中することである。これはむろん一般に大切な要素だが、試合中には、見るではだめなのだ。なぜなら、見て集中することは、試合の動く流れの中では、かえってマイナスになる。試合は、全体の中で動いている。一部は、常に全体の流れの中にある。だから、一部と全体が同時に閃いていなくてはならない。これを、彼は見える目で見る、と言う。試合の動きのなかで一部と全体を瞬時に把握するには、見える目の訓練をしなくてはならない。問題はこの訓練だが。

ここでは、初心の具体的な訓練はもう通用しない。自己訓練。自分が自分でする訓練だ。練習という言葉よりも、日本古来の、修養とか、修行という言葉が当てはまる。ある閃きを待つ訓練である。いつ訪れるとも知れないその日を待つ。これは苦しい。ただし、これが達成されたとき、突然、その選手にとって試合の様相は激変する。試合が見える目で見えるようになり、また瞬時にそれに合わせた動きがとれるようになる。
ここに、京大の快進撃の秘密があった。興味本位で入部してきた者が、日本一を争うまでになったのである。ふつうではありえない。修行というような高度な訓練が達成されていたのだ。

タイトルの意味がこれだ。一万回の失敗。誰でもいやになってやめるだろう。百回でも千回でもやめるだろう。一万回で成就されるという保証はない。ここが、この練習、この修行のこわいところだ。しかし、いつかはを信じて繰返しているとき、突然、まったく突然、するっと、見える目と連動する動きが達成されたのだ。
それがなくてはあのチームは成らない。そういう奇跡のような事が起きたのである、客観的には、数字的には出てくるはずのない成果が。

アメリカンフットボールの勝敗がその後どうなっているか知らない。京大チームについても知らない。評判を聞かないので、当時ほどの力がないのであろう。やる気が成させた奇跡だったのだろう。
それにしても水野さんの話は忘れがたい。事は指導者とやる気なのだな。人間は、潜在力を持っていて、やる気と集中力によって、想像もできない力を出すものなのだな。

追記
剣豪宮本武蔵の話で、見の眼と観の眼というのがあったように思う。果し合いにおいて、問われるのは技術ではなく、心の構えだと。こだわりをもてば、見える目をうしなうので負けだと。死地における柔かい心。
以上はおそろしい話で、私らには縁がないけれども、すこし似た例はありふれた毎日の事々のなかにもしょっちゅうある。食材を買うとき、私も主婦も、心に何か引っかかっているものがある時うまくいかないものだ。職場でも、学生の勉強でも同じ。
集中力がなくては何事もできないが、集中しすぎると目が見えなくなる。このへんのかげんが難しい。京大チームの選手たちは、瞬時に、考えなくて、理想の動きをするという難題に挑戦してなしとげた。

12月30日 「人が村をつくる」 新潟県黒川村 伊藤村長の話

村長さんの話をラジオで聞く。また例によって、井の中の蛙なのでおどろく。獅子舞

今朝、起きてすぐに、黒川村を検索する。あるある、いっぱい出てくる。ここには、僕なんかにある村というもののイメージはない。村を主テーマにして売出している営業している、ヨーロッパの観光地案内を見ているように錯覚される。
僕は、町中で生まれ育ったけれども、すぐ近くの父の生家へ行くと、ここは村なのだと自ずと知らされたものだ。目の前百メートルに山が壁をつくっている。家の前は畑で、いろんなものが植えられている。にわとりがいる、山羊がいる、そして牛がいる。鯉もいる。いま家々は、そのころと同じくまばらにあるけれども、雰囲気は、村ではなく町に変っている。だが黒川村が与えるイメージはない。岐阜県なら、どこへ行ってもあれほどの所はないんじゃないかな。井の中のカワズなのかな。

伊藤孝二郎村長は。十二期四十八年を進行中だ。三十歳で就任されたとして、いま七十八歳。この長さはなんなんだろう。ここまでになると、通常の判断でははかれない。いちばんはじめに閃いたのは、飽きない、倦まない、ということだな。村長も村民も飽きがこない。惰性ではありえない。その急所はクリエイティブだ。これがあるから飽きない、いやにならない。この感覚は、村長と村民の間を循環して、さらに日々を新たにしていく。そりゃ、いつかは止り、下降していくときがくるけれども。

はじめに黒川村が天下に知られたのは、昭和四十一年と四十二年の大水害だ。死者は三十二人。村の三割がひどい被害にあった。危険な場所にいた村民を、ここぞと別の安全有望な地へ集団移住させたという。集団移住とは先見と決断がいることだ。

次が、新しい村づくりの出発だ。そして、今日、黒川村へは、年間八十万人が訪れるまでになった。人口六千人の村へ。生産地の村と、消費地の都会とを結ぶ。両者交流の地。そして観光施設と、村特有の新しい産業の創造。その時に、カネとモノだけでは成らないことを、村長ははっきり知った。人だ。以前から続けていた村民海外研修が実を結んできた。それはいま子供たちにも及んでおり、ニュージーランドへ二週間のホームステイだ。その経験は、子供たちにとって日本と黒川村を考えさせる因となり、またこの時の体験は子孫に語り継がれていくであろうと。

ビールについては、伊藤さんがドイツへ行ったとき、そのビールのうまさに感嘆して、これを日本で、黒川村でやってみようと。技術者が来て、ここの水を飲んでみて、大丈夫できると言った。その時、すでに派遣していたドイツ研修者が役だった、ドイツ語ができることだけでも。ハムやパンも作る。目に見えなかった海外研修の成果が、加速度に見えるようになってきているのが現状だ。

以上じみちに続けてきた、人の育成たる海外派遣研修が、伊藤村政の実際の担い手となってきている。
気づいたこと、気になるのは、感心するのは、派遣さきがドイツだということ。アメリカではないこと。これは重要だな。そのあたり、伊藤村長に聞いてみたいものだ。
日本のとるべき方向、地方のとるべき方向は、ヨーロッパの方にあるんじゃないかな。ひそかに、うまく、アメリカを見限っていくのがいいんじゃないかな。と、ひとり井の中にいて空想する。

1月1日 あけましておめでとうございます。

暖かい元旦です。零時に、長男夫婦を連れて、歩いて五分の諏訪神社へ行く。火のカミ水のカミなど八つのカミにお参りする。この時間がいちばんこみあう。みんな足早に無言でお参りする。
帰って、仏壇と神棚にお参りする。子供のころ、これらはしきたりにしたがって行われていました。家でも、井戸やくどに、鏡餅とミカンとをお供えして安全と感謝のお参りをした。炊きぞめの火は、男がおこすものとされていたように思います。それが、私の代になってめちゃくゃになりました。年中の行事はいいかげんのものになりました。この一事をとっても、私らの時代と私自身の姿をよくあらわしています。伝統の壊れは、またそこに培われていた心の壊れです。

国の経済が行き詰って、そのほころびがムキダシになってきました。国のほころびは、むろん私自身の足もとのほころびからです。傷は深いですが、後ろ向きに歩くことはできません、進んで行って、新しい姿をつくりだしていくほかありません。しかし、いまのところとまどうばかりです。どうにもなりません。やつあたりのようにして、怒り、文句を言うばかりです。

一時すぎには眠ってしまった。長男は、パソコンで年賀状をつくっている。五時に目が覚める。朝まで生テレビをやっている。田中長野県知事がいるので、活気があるようだ。彼は、この番組の定連だったので。
混迷は深くなっていくばかりのようだ。世界冷戦構造のときは、活気と安定があった。政界もマスコミも、かたちが決った中でやりあっていた。熟練のかけあい漫才を見ているようでもあった。それが、いま、かたちが崩れてしまって、まことに見苦しい。醜悪でさえある。混迷から醜悪を見せはじめている日本であるなあ。

三十年前のような革命騒動の気配はまったくない。これを、若者のせいにしなくて、親の世代の問題だと言っている者があったが、同感だ。親の崩れ、この事に異論はない、その通り、来るべきものがきたのである。

1月6日 土曜日 IТ授業

東京の小学校と石川県の小学校が、パソコン授業をやっていた。同時間に、テレビに映る相手を見ながらやっている。課題を、両校の小学生たちが討論のかたちで勉強しあう。授業が、ふくらんだもの立体のものになっている。先生と生徒の対面授業にはならない。ひらぺったく終らない。画期的だ。
番組に出演していたゲストが、すばらしいと言うすぐそばで、これでは、しかし受験が心配です、とも言っていた。つまり、自発的はいいことだとばかりに、追究に走出しては、試験勉強がおろそかになってしまうじゃないですかと。

難関の司法試験勉強に、理想の受験技術や勉強は絶対のものだが、ここでは、理想の法学勉強は問題にならない。むしろ無用である。
とは言うものの、高校の授業の味気なさにはまいる。部活動ふうの授業も一部あっていい。
大人になって生活人となれば、身近な社会の動きには誰でも関心がある。それを、授業で先取してやったらどうかな。理科などは好き嫌いが激しくわかれるが、社会関連なら、誰でも程度の差はあれ関心がある。そのふくらんだ立体的な知識は有用なんだが。

大人でもそうだが、子供にはなおさら、社会というものは複雑で解りにくい。これは、試験勉強ふう知識では貧相なものになってしまう。字による知識があまりに優先すると奇形になってしまう。経験とあわせて立体的なものにしなくてはいけない。そんなとき、IТ授業は知識に終らなくさせるからいい。

インターネットの毒の面に、ヘイトサイトなるものがあるそうだ。ヘイトは、hateだろう。つまり、毒をあおるサイトだ。ナチスドイツを正当化する、というような。
分別の少ない子供などに、そういう片寄った知識を与えては害になる。教育と、情報は、これからの社会の急所になるだろう。
社会とその人間を育んでいく教育、情報を!

◎ さっき、名古屋の友人から、SТが亡くなったと連絡があった。意外だ。急なのでおどろく、かえって現実感があまりない。ここ二三年のうちに、四人も死んだ。自分のようにふだん弱い者より、強くて死にそうにない者が重い病気になってしまうようだ。
明日、あさ早く岐阜へ出かける。出かけるのは、Kのとき以来だ。

1月7日 岐阜の、N斎場へ

6時半に起きる。朝食準備。非常に寒い。今冬いちばんだ。肌がチクチク痛い。8時半出発予定だが、お客を送出した後、とたんに動きがスローモーになる。よたよたする。怒ってがなると、家内も負けずにがなり返す。コンチクショウ、ニガニガしい。農協のバカヤロー、スパーのバカヤロー、バローのバカヤロウと叫ぶ。無関係な言葉を発して毒を吐出す。

道路の温度表示はマイナス4℃。道端には雪が残っている。すべるかもしれないので、金山から右折しないで、41号を進む。白川口の道の駅で休憩。車から外に出て建物に向うが、体がこわばってよたよたする。
12時ぎりぎりに斎場へ着く。いくつか葬儀が行われる様子だ。二階へ行く。こじんまりしている。Kのときは大会場だったが。SТのは40人くらいだ。彼らしい。四十年前の、l1c教室の者が、自分をいれて4人いる。ほかには学校関係者と親族。親族は少ない。

式は大谷派で。司会者が、もったいをつけすぎるので落ちつかない。頭の中を動くのは、40年前の二三の場面のみ。わが青春の光景のみ。落ちつけない。彼は大人になりたくない男だった。それを貫いた。表情は穏か、安らげて嬉しいと言っているようだ。そういう者なので、印象として、奇妙な感じを与えたものだった。だが、話してみると、常識人。それを蹴破る馬力はなかった。
この時はじめて彼の家族を見た。みんな、彼のようにおとなしくおだやかである。彼は、生涯において、怒鳴る、ということがあったのだろうか。はがゆい男だった。

1月9日 火曜日 浴槽から出られなくなった

きのう、数ヶ月に一度訪れている初老の女性が、浴槽から出られなくった。
今回は、来た時から、すこし様子が変だと家内が言っていたので、気をつけてはいた。風呂が長いので声をかけにいって、「〇〇さんが出られなくなっている」、と言ってきた時、すぐ身構えた。「私、重くて、持上げられないので」、と言ったので、浴室へ行って様子を見てみた。同性ではないので、ちょっとひるんだが、この際、男も女もない。

背後から、「どうです動けないのですか」、と声をかけたが、返事ができない。「立ちあがれますか」、ときくとうんとうなずくので、脇をかかえてグッと持上げて立たせてやった。体は、まだお婆さんと言うにははやすぎて、肌にツヤがある。心がけて手入している感じが伝わってきて、辛い。
その身体を承知で、彼女は覚悟を決めて親しい知合いに逢いにきたのだろう。かわいいところのあるひとだった。迎えにきた人も、今回はどうも様子がおかしいと、玄関で家内と話す声が聞える。〇〇さんの声はまったく聞かれない。養生して、また来てくださいね。

1月11日 木曜日 今週はあわただしい

今週にはいってから、にわかにあわただしい。といっても大したことはないが、体力衰微の証拠です。まるくすませていけない。ギクシャクする。頭も体も。ふたりともが同じように弱くなっているので、ぶつかってしょうがない。日本最小の二人企業では、社長も従業員もない。二人で、この世のありとあることをやり、解決していかなければならない。誰も助けてくれない。動かなければ、マネーは来ない。二人企業なので、いくらケンカをしても、最後は協力し合わなければならない。二人とも、至らぬ者たちであるけれども、ぎりぎりのところ生きていくために折れ合い教え合い支え合わなければならないので、自ずと知恵はついてくる。戦後民主主義の頭の短い者たちであったが、人生の終りあたりに来て、もう先がわずかと知り、しかも甘えられないと知ってきて、ようやくすこし知恵がめぐるようになったようだ。

戦後民主主義の、自由という得手勝手とマネー本位に包まれてきて、さいわい経済成長という忙しさにまぎれて、人生を紛らせて、解決すべきを先送りしてきたが、ここへ来て、まともに足元を見るようになってきた。足元は、「夢まぼろしのごとくなりい」だな。
ウソに包まれてきたような人生だったので、そのことを、次の者たちに、うまく申送りできたらと思っているのだが。

学校で習った戦後民主主義は、憲法のように立派すぎるほどのものだったが、その実情と裏は、マネーこそ正義だったな。国中に空想をばらまいて、そして金儲けをしてきた者たち、これが黒幕だな。この黒幕にかかったら、左翼も、社会党も、進歩的文化人も、、マスコミ人もころり懐柔させられてしまった。なぜそんなことになったか、つまり、彼らは紳士づらのハスッパな俗物だったからだ。日本の混迷とは、その者たちの正体がばれてしまったところにある。その正体の暴露と日本の惑乱が、ソ連と東欧圏の墜落に始ったわけだ。共産圏ががんばっていてくれたほうが日本には幸だったこと、言うを待たない。