ダイアリー・エッセー8       トップページヘ 

◎9月18日 左翼と『葉隠』
◎9月16日 柔ちゃん Kの家族 そのほか
◎9月13日 アユ掛け(友釣)二つ
◎ 9月6日 女房、会社からの独立。自分に正直。
◎ 9月5日 歯。網鮎。吃音者溝口。ハックルベリー・フィン。
◎8月25日 縄文の楽器
◎8月22日 人文研
◎8月13日 お経、猛暑、香味だれ、里帰り
◎8月12日 乱雑部屋、『蛇』、オヤ、材料買出し、香味だれ
◎ 8月8日 ホンダCVCCの開発成功
◎ 8月7日 さんもと
◎ 8月5日 結局は景気?
◎ 8月2日 やっと忙しい日々
◎7月26日 萩原と地方のこと 2、 モヤモヤニゴニゴ
◎7月25日 萩原と地方のこと、文化のこと
◎7月22日 にわかに朝6時に起きだして外へ
◎7月15日 Nさんのアユかけ
◎7月13日 子育てと育てられの記
◎7月11日 子育てと育てられの記 2
◎ 7月9日 決断を確認する
◎ 7月7日 子育てと育てられの記 1

7月7日 金曜日 子育てと育てられの記 1 

アメリカでの、児童虐待のことについて打ちながら、一般論になって勝手が違ってやりにくかったので、自分の経験を紹介するなら、内容が一般論にならなくて、書きいいだろうと思いまして。ひとつやってみます。

子育てといっても、長男太一郎は30を越し、結婚もして、親の手から離れています。直接に、教育というほどのことはしていないし、しない方針だったが、ずっと親ひとり子ひとりと再婚者でやってきたので、言外の関係には強いものがあったろう。

子育ては、自分自身の育てられ経験と密接に結ばれている。この経験は誰にもあるし、概念では事がいかない、すまない。自身の育てられと、青年期あたりからの生きかたの選択、迷い、模索そのままが、反映される。そこで、まず自身の幼少年期、青年期をざっと振りかえってみよう。

昭和22年に父が長期療養後に病死。その頃、祖父は脳卒中で寝たり起きたりになる。家族は、母と祖母、姉、母の義理の妹、それに自分。祖父は27年に死んで、女4人に男1人となる。戦前からの木賃宿が稼業となる。これは、女でできる仕事なので、母は再婚せず、祖母と協力し合って家族を養い、子供を育てた。

私は男1人なので、大切な跡取となった。
女手一つで家族を構え稼業を続けることは、なかなか大変です。祖母は、嫁に来た人で、この人が強くてできがよかった。がんばった。その1人娘は、母親のようなわけにいかない。教養や文化は身につけてもたくましさは、その分薄くなる。それに、戦後の混乱が追討ちをかけた。

生きるには、柱がいる。信念というほどのものがいる。目的がいる。
その際に、彼女は、祖母のように家族一本、たくましさ一本とはなれなかったし、ならなかった。彼女は、学校が好き言葉が好きであった。つまり、自分を言葉で膨らましたわけです。田舎では、そういう新時代の新しい言葉は、無用です。生活には直接関係しません。むしろ本体を弱く細くさせるように作用しました。

彼女は、人生の目的信念にと、『大法輪』という雑誌を取った。これは、戦後まもなくから死ぬまで購読した。戦後の混乱期、宗教になにか助けを求めた。彼女には、死ぬまで、家業が宗教に代る目的とはならなくて、宗教的なもの、伝統的なもの、それが彼女の支えとなリ誇りとなっていった。それを、大地に根ざしてたくましい祖母がいとしみ支えた。祖母は、娘の言葉にはほとんど重きを置いていなかった。夢のようにきれいではあっても、実際的でないことを承知していたからです。しかし母のほうは、その性分を続けるほかない。器用にこれを変えることなどできない。

私には、この母の何かが入ってきているわけです。彼女は、夕食の時、お客の食事の準備をしながら、その本で知った生き方に関ること、などについて私に語って聞かせたものだった。跡取として、あるいは理想上の男になってくれるようにと、それとなく教育していたわけです。あるいは、話を聞く人が周りにいないので私が選ばれていたのだろう。

それがこちらに伝わる。子供だから、自覚なしに、伝わっていたわけです。で、言葉の実際的でない要素、むしろ遊び的な要素、また観念的な要素が私に伝わってきた。しかし、社会や世間の話がない。世間を生き抜く話がない。

その理由として、女だから、世間を生きていく姿勢については苦手ということはあるだろう。しかしそうばかりではない。
ここが重大な面だが、彼女には、生きること、世間を生きることにもともと何か嫌悪するものがあった、と思われます。是非善悪を言っているのではない。そういう傾向があったということです。自覚以前のもの。
言葉そのものよりもそうした気質といったものは、暗黙のなか伝わりやすいものですね。

しゃにむに生きる人には、こういった嫌悪とか審美といったものは備わらないようです。実際派です。たくましい。ゴツイ。けれども、美的なもの、芸術的なものは出てきにくい。
母は、大正期に育って、一人娘とか勉強好き、言葉好きという要素も重なって、実際派から遠い人となっていった。田舎では、こういう者は孤立しますね。言葉に贅沢なような者は。

私は、町に就職して、と家族は考えていたろう。進学の話は一度もなかった。ところが高校生になって、病気休学後、息子が勉強をするようになり、大学へ行くと言いだした。このあたりから、息子は母の手を離れて飛出す。ただし、その気質と傾向は背負って。(つづく)

7月9日 日曜日 決断を確認する

昨夜、F君が来たので、体調と心の不安定と、その息ぐるしさを話す。予期していて驚かない。彼は不動産関係の仕事をしているので、あれこれ話して聞く。旅館の先行きについてと、最後のために残しておいたほんのわずかの不動産の処分を話す。この時が来るのは、2年前3年前に覚悟はしていた。だが、いざとなると家内や太一郎や姉夫婦、そして先祖のことをさまざまに考えて、動揺し不安定になる。

かようなことは1人ではなかなかしっかりとやれないもので、彼のような第3者が相談相手になってくれると、気分がラクになる。
にっちもさっちもならなくなってから、事を実行するのはやめるとは、家内にも言っておいてあるので、この段階では話は早い。早めに身の処分をするということ。旅館について、店について、いくつかの選択肢を選べばすむ段階で処置したい。

この決断は今夏のアユの、不調のおかげだ。これが、調子を回復してくれていたなら、こうはできなくて、決断を先延ばしすることになったろう。
景況もあるけれども、直接の引金は、自身の体力の弱りだ。この体力は、平均より老化している。また、営業への気力も急に衰弱している。最終の場合、引退してさがろう、の気持になった。

こう決れば、それに向って動くだけ。
パソコン日記は、今年いっぱいはいづれにしても続けるつもりだ。
これほどずっと書き続けられるとは、当初予定になかった。やり始めるうち、ダイアリー・エッセーのテーマが次々に途切れることなく出てくるものだなあと発見した。このおかげで、充実させてもらって、ありがたいことだった。商売の不調が、パソコン学習と新規文章に夢中にさせてくれて、その点ではそれなりの成果はあがった。

ただし、金銭としてはだめだった。無報酬の行為を1年間続けてきたわけだ。
この6月までは、薄かったけれどもなんとか売上があった。また、去年一昨年は、秋にまとまった売上があったけれども、ついに今年はそれはないとみる。それで、準備に入ったほうが先行きよいと判断した。
旅館をはじめて以来経営を助けてくれた夏の売上の落込みが、ひどいものになると判断したので。

自分1人で、事と思いにしがみつくと、神経衰弱になるだけだ。自分を投出せる勇気と体力を願う。
こういう内容は、入力するだけにもエネルギーがいる。

7月11日 火曜日 子育てと育てられの記 2

60年安保のあとの大学入学で、まだ、左翼ロマンが充満していた。ここで、もうすでに、自分の将来について、無鉄砲にも実務としては考えていなかった。なんとかなるだろうとしていた。

3月25日記載のKと、時代はとか、歴史はとか、無用のことを喋りあっていた。そうした気分のなか生きた。その後Kは、しっかり実務者として生きていって、この3月まさか私より早く逝ってしまった。彼は、私のあぶなかっしさを楽しみ、また支えてくれたのであった。

もうひとり、私のわけのわからんようなところ、横着いような線が細いような度胸があるようなないような、大言壮語するようなしないような、そんなところを楽しんだのが後に太一郎の母となる女性Mだ。彼女は、なかなか優秀で、学生の頃に、1人立ちできる仕事の資格を取った。彼女は、その目的を持って大学に来て、それを果したわけです。私とKには、始めから何といって目的などない。

後にKは、家族を持って立派に堅実に、しかし若いころの風味もちゃんと失わず持って、なんだか聖人のように地味に一歩一歩生きて、信用も力もつけていった。その盛りに病に倒れた。その彼が、私のわがままな、危なっかしい生き方を支え続けてくれたのだった。それはなんだったのか。理屈では言えない何かだったのだが。なんだろう。若いころの、詩的で美的、何か純粋なものだったのじゃないかな。

彼とはウマが合っただけで、同志ではない。そのウマの部分が、私の弱点であり、見ようによっては長所であった。ただし、長所と見る人は、見た人は上記2人だけだったかもしれない。むろんMともウマが合った。二人にとっての私のウマの部分は、子供のころに持っていた何かで、それはナマに世間に出しては生きていけないものだった。殻におし包んで、自分の中に仕舞い込んでおくべきものであった。

それを、危なくも、ムキダシにするところがあったので、あるので、彼らはそれを楽しんだけれども、ヒヤヒヤして見てきた。まさか、ここまでやってくるとは予想できなかったので。
私自身は、自分の墜落崩落破れが、ずっと若いころから見えていた。これについては無自覚な自分ではなかった。堅実でない、危ない自分をむしろヒヤヒヤ自覚してここまで来た。宿命というのか知らんが、器用に変えられるようなものではないことに間違いない。

さて、以上が、私自身の育てられの記とその後でした。(つづく)

7月13日 子育てと育てられの記3。

太一郎が5年生のとき、Mが急死した。それまで、自分に子育てというほどのものはない。平均的な、母任せの父親だったろう。
一つだけ印象としてはっきり思い出されるのは、太一郎が小学校に行く前、何かのことで、夕食時ぐずぐずと反抗していることがあった。Mは、理屈で教育するところがあって、こっちは苦々しく思っていた。

例えば、太一郎がご飯やオカズを食べないので、そんな時、Mは、「インドの子はなー、食べたくても食べられんのやよ。だから、ちゃんと食べなきゃ」
この調子が、だいたい彼女の子育てだ。おそらく、大卒の女親には共通しているんじゃないかな。理屈っぽいところが。

内々、バカなことしていると面白くなかったので、そのグズグズと言うことを聞かなかったとき、太一郎の額のあたりを、2回コツンコツン叩いた。彼は、きょろっとしてびっくりしていたが、やがてワーと姿勢を崩さず泣出した。Mは黙っていた。私の意図がすぐ伝わったようだ。

理路整然として教えるなどは、いいことのようでそうではない。やがて子供は、なんでも理屈で言うようになる。理屈が通れば、それでいいとするようになる。
「人を殺してなぜ悪い」などという子供の質問は、この最悪の例だ。理屈が通っていさえすれば、いいとしている。こんなことは、理屈ではない。悪いものは悪い。地球上、どこへ行っても、悪いものは悪いとなっている。

理屈を言わない言合わないは、後に私の子育ての基本態度となった。

さて、太一郎が6年生の時、私は再婚し、町へ戻ってきました。にわかに、2人の保護者になったようなもの。それまで、太一郎は、Mに任せっきりでいた。今度は私が中心となって3人の関係を作っていかなくてはならない。まず新しく来たNと太一郎の関係を作らなくてはならない。親父であり、亭主であり、かつ一家の主でなくてはならない。のんびり坊ちゃん坊ちゃんしてきていたので、この環境の激変は、まあ試練だった。

細かく介入しないで、Nと太一郎がまず自分たち自身で関係をつくるようにさせた。これは、Nにも太一郎にも、大変だ。
自分にとって大事な救いは、太一郎が3人の関係を作ろうとする気構えになってくれたことだ。お父さんは大変なんだから、協力しようと、小さいながらそう決めてくれたことだった。

店と旅館を新築して始めた。はじめての莫大な借金。2人ともはじめての経験で、よくやってこられたものです。さいわい、アユ釣りが上り調子のころで、東京そのほかからたくさんの人が来てくれました。この期間中は、私はオヤとりと店、家内は旅館と店。朝から晩まで、若さにまかせて働きました。子供のことは、もうほかりっぱなしです。

中学生から高校生にかけて、私は直接には、親子の会話も教育もしなかったけれども、次の方針は頑固に貫いて変えなかった。新入りを迎えて新たに家庭をつくっていく上で、ここをぐらつかせてはならなかったのです。

まず第一に、私には自信がなかった、この稼業の継続と自身の体力に。太一郎は、いつどういうことでか、また親と離れることになるかもしれない。こんなことはあってはならないが、Mが急死したように人生何が起きるかわからない。そのことに備えさせたのです。
「いいか、自分で稼いで生きていく者になれよ。自分のことは自分で始末していく、これがいちばん大切なことだ。」これをなんどか言ったように思う。

勉強せよとは一度も言わなかった。偉い者になれよとも言わなかった。ただ一つくり返し言い続けたのは、自分で自分の始末をして、人に迷惑をかけないようにして生きていくことが、いちばん立派なことなのだ、と。

次は、それにも関連するが、二人の間で、私が母親から受けていたような内容の会話を決してしないことにしました。それは、芸術がかった会話、趣味的会話、宗教がかった会話、言葉の空想力にあこがれる会話、カッコいい会話、要するに実用からはなれた、実用を遠ざけるような会話。

そのころの生活そのものであった会話を一貫させました。営業であり、売上であり、借金返済であり、です。その戦戦兢兢を。それいってんばりです、極端ですが。しかし、ここにはウソはなかった。私には、子供のころの母との会話の方にこそ、むしろウソがあるんじゃないかと考えていましたので。カッコいいような芸術がかった観念的な会話のほうこそ、空疎で虚しいとしていましたので。

この会話のこだわりにはもう一つ大きな意味がありました。それは、新しく一緒になったNが、苦労知らずの環境に育っていたことです。二人とも稼ぐということの厳しさが本当にはわからない。テレビにあるようなカッコいいことに憧れるところがある。また私自身、この状況ははじめてなので、自分を戒める意味もありました。Nと自分を叱咤して、死にもの狂いに近かったですね。Nも私も、自身の何か重大な欠陥については、何とかしようと立ち向うところがありました。時代の流れについては、損得を越えて、批判してみるところは共通していました。事をややこしくしますが。

太一郎とは、うまいことを喋ることをしないようにしていたので、親子の会話などは、意図してしないようにしていたので、そのせいか、彼はお喋りが上手じゃありません。口が重いようです。が、感覚は悪くないようです。

中学3年生の時、私が持たせた古い一眼レフで取ってきた修学旅行写真の感性には、ウーム、びっくりしました。

次に心がけたことは、言うことを一貫させて変えなかったことですね。彼は、Nにはうまいことを言って、言葉で承服させることができた。自分の思うようにできた。Nも遠慮があるので、これを聞いてやる。けれども、この手は、私には通用しないことを教えなければならない。

つまり、この時、彼に、社会というものの壁を教えようとしたのです。
私は、いわゆる母子家庭で育ったわけですが、これには長所もありますが、重大な疵がありました。それが、前にも書きましたが、社会性に弱いということです。やさしさという面では子供にすばらしい、けれども、対社会に対する知恵ということになると、だめですね。

私など、その点、成人してから、いちいち世間にぶつかって体験して学んで行くほかありませんでした。つまらないことでしたね。親が、世間というものについて、会社というものについて、自分の体験をバックにして教えておくだけで、その子はどれだけ生きやすいかわからない。これが、父がいなかった私の場合に与えられなくて、つくづくくやしい。

それで、私は、これについては、しっかりと意識して教えるようにしました。結果はともかく、このことについては、非常にこだわりました。親が、来るべき社会というものについて、あらかじめ、自分の体験を通した知恵で、子供に教え学ばせておくことが、いちばん肝要だと、信念としてありました。

これらは、私の信念として、後半生の大事な目的の一つとしてやり続けましたが、果して、結果がどうだったか、太一郎と話してみたことはないのでわかりません。まだ話してみるつもりもない。

太一郎が、今度親になったとき、やはり、親との間のやりとりをまず土台にするはずです。その時、私と母の間のこと、私と太一郎との間のことが生きるとしたなら、みんなが、そしてMも喜ぶでしょう。

また私は、若くして逝ったMに、これでいいかこれでいいか、いいだろうな、と、問いただしながら、子育てを続けました。私は、これでも、子育ての責任については、Mを合わせて二人分をやってきたつもりです。
そして今、老いを迎えて、また新しい困難に立往生していますが、子育てについては、太一郎の結婚を期に、いちおう義務を終えましたという心境です。

ただしかし、急に緊張がとれてぐったりしました。力が抜けていく感じでしたね。そして、今度は、こっちが子供に頼るような心境なっていくのが、新しい老いへの経験の一つです。長々と読んでいただいてありがとうございます。

7月15日 土曜日 Nさんのアユ掛け

Nさんは、10日月曜日に来て、昨日の朝帰りました。4日間釣ったことになります。ふつうは、2日釣って帰ります。今度は異例です。彼ははじめからその予定で来ました。

最初に来たのは、10年ほど前、Oさんに連れられて来ました。その時、1日やってゼロだったかな。で、私は、この人はもう益田川へは来ないだろうとしていました。Oさんに、
「だめじゃないか、ゼロってことはおかしい。ちゃんと釣れるようにしてやらなきゃ」となじったのでした。

その彼が、予想外にも、縁あって、益田へずっと釣りに来ることになったのでした。近年は1人で来ることが多くなった。
彼の釣りの特徴は、自分のペースで納得してじっくり釣るというもの。そのことを、今度あらためて知りました。予定した通り、稚アユの不調で、釣果は、細かった。10匹なら上々が相場。その通りになりました。それでも彼は、満足して、リフレっシュして帰りました。

彼は、職人で、その会社の番頭のような役をやっている。生まれは、国立市だが、育ったのは北海道の田舎。だから、彼には、田舎と東京が半分半分ある。しかも、彼は、東京半分よりも、田舎の半分のほうに肩入れしているらしい。それがあって、こうも熱心にこの田舎町へ来られるのでした。

彼は小柄で、スマートではない。いかにも田舎人が似合う。横着ではない。奥ゆかしい。がさつではない。口上手ではない。器用でない。けれども、喋ってみると、人間全体に優雅でなめらかで奥行がある。とても、この田舎町の者では太刀打できそうにない、とほかの人はともかく私自身は見る。それを、私は、さすがに東京は違うのだ、としていました。人との交流に伝統の深みがちゃんと作用しているのだと。つまり、洗練されているのだと。むろん東京なら全部そうかと言えば、まったく違いますけど。

彼は、私の仕掛けを続けている。掛けバリを1本にする。一般常識は3本。以前、私は2本ヤナギでしたが、10年ほど前から1本にしました。理由は面倒でないことです。すっきりしています。
しかし、3本使っていた人は、1本では不安でしようがない。計算上、3割しか掛けられないことになりますから。これは違います。ちゃんとふつうに掛ります。数釣りの競技ならともかく、釣りを楽しむなら、これはいいものです。ネックは、釣れないのはハリ1本のせいだとする思いこみと不安です。それさえクリアーできれば、1本はけっこうな仕掛けです。

ややっ彼は、それをやりとおしている、と川でオトリの交換のとき気づきました。
今年は、今のところ川が不調です。釣り人はほとんどいない。けれども彼は、まる1日やっている。くさらない、ヤケにならない。充実している。帰ってから、話してみるとそれがわかります。そりゃもっと釣れたほうがいいに決っていますが、釣れない時でも、川にオトリと共にある自分と時間を充実させるのだとして、やりぬいている。
その姿に頭が下がります。

彼に、それとなくそれを言うと、ちょっと満足そうに笑いました。彼の、生きる際の価値基準が、一般とは違っているらしい、と解りました。これは、密かにある決意のもとに耕されてきたものだと。いまふうではないと。権力財力地位という常識から遠いようにと。
だから、これからの再生日本の一つの見本になるのだろうと。

7月22日 にわかに朝6時に起きだして外へ

その時間、胸がどきどきして苦しいので起あがる。どうも血圧らしい。測ってみる。210。なんとなく不安定。クスリを飲む。1ヵ月ぶりかな。まだ気持が悪いので、歩くことにする。歩く。国道をまたいで、川のほうへ行く。いつものコース。水辺まで降りて、石の様子を見ながら歩く。どうもまだ石のツヤがほんとではないが、前よりいいかな。誰もいない。これじゃ死んだ川みたいじゃないか。また胸が苦しくなる。

胸のノイローゼは、アユの調子が悪いのも原因しているので、こんな釣り人のいない川を見ると、散歩の効果もなくなるじゃないかい。活気に溢れていたころの思い出がまだ私に生きているので、つい、諦められない。諦めが肝心だよ、何もかもに。もうあの日々は戻らないんだよ。いい時は過ぎちまったのさ。そんな時があったということだけでも、十分じゃないかい。

と、向うから、姿勢よくとっとと歩いてくる人がある。Kさん。幼友達で先輩。お互いこんな年になっちゃって。丸々している。顔も体も。機嫌がいいらしい。やあ、やあ、と声を掛合う。お互い、体調が悪いことはわかる。やあ、やあ、と言いあう。いくつになったんだ。そうかそうか、そうだったな。アユはどうだい。どうもね。悪い病気らしいよ。明日の鱗友会はどうする。飲み会だけは出ますけど。もう釣りのほうはしんどくて。

彼は、すたすた姿勢よく歩き去る。
また別の人が後ろから来る。Mさん。彼は、私より若い。元気そう。またアユの話。その不調と病気と、客が来なくてまいったまいったの話。スタンドの経営者なので、説明不用で分り合える。すると向うから、元気よく、手をまっすぐに振上げてくる人がある。彼は、古関の人で、毎朝来る。朝霧橋、益田橋と一周するそうだ。見かけたことがある。彼はこっちを知っている様子。彼も、アユの話をしてくる。またまた、やつは調子が悪くてと言う。彼もすたこら、元気いっぱいに歩き去る。

こんな光景は、10年前、予想だにできなかったのに。いまみんな、頭の切替に苦慮していることだろうよ。

帰って家の前を、手を振りあげて体操しながら歩きまわる。胸のいやみは引いている。こういう体のいやみにまいるのだ。ああ俺は、もうヨボになったのだと、認めるか認めないか、まだ争っている。引下るほかないけど。

7月25日 萩原と地方。文化のこと

ふるさと創生、1億円の配付ということが竹下首相の頃あった。この町では、それをどうしたのか知らない。あるいは、貯金にしてしまってあるのかもしれない。町おこし、村おこし、文化おこし。

これは、公共投資でもあった。使い方は政府が決めるのではなく、各町村が自主で決める。町村では、その金は嬉しかったが、使い方となると、はたと困ったんじゃないか。一般に自主計画と実行いうことに慣れていないので。

だいたい、文化ということがよく解らない。
この言葉とそれがもたらした混乱軽薄は、明治の近代化日本と、戦後の再生日本、の宿命でもあった。文化の混乱には、政府ばかりを責められない。この100年余り、日本全体が混乱の中にあった。ただし、技術力生産力、その馬力においては、当時並ぶものがなかった。日露戦争と大東亜戦争を引起したのであるから、並の国と国民ではない。

だが、いまのところその器用さが、こと文化には悪く作用した。なぜなら、文化は、器用と速成では成らないものだから。時間と熟成こそ文化なので。
となると、萩原では、その暮しの土台であった、山林と農業、山仕事と百姓にこそ文化があったわけである。えっ、そんなところに?そうです。それが、萩原が育て持っていた文化だった。この事を、小中高で、じっくり教える必要があった。おそらく教えてはいまい。自分の学校時代、そんな姿勢は学校にはゼロだった。親はともかく、先生は、それが仕事なので、文化の何者であるかについてしっかりした見識を持つ必要があった。いや、これは義務だね。

ないものねだりだろうな。でも、やっぱり、人の育成という精神にかかわることだからこそ、生徒に地味にこんこんと説きつづけておくべきだ。なり行きまかせ、力まかせじゃ、荒廃の種をまいているようなものだ。

萩原だけでなく、多くの地方で、多くの地方都市で、同じ現象が見られたろう。じゃ、何が文化についての見識の熟成と栽培と教育において邪魔してきたかというと、それは、ほら、すぐ傍にあるじゃないか、営業であり利益でありその拡大膨張いってんばりだ。

国と政府と、地方と中央と、国民と企業と、このうち天下を取ってきたのは企業だ。企業オンリーで企業オールマイティだ。国是が、あの敗戦の滅亡と自信喪失のなか、国是が、なにくそ、経済では負けんぞだったので。国中が、戦争一色ならぬ経済一色になった。私など若くて浮かれ踊っていたのだが、経済こそが、国中を、仏教も神道も、道徳も、社会党も、民主主義も、自由平等博愛も、そしてまさに文化も、ぜんぶがぜんぶ、陰に支配しておったのだった。私にはこれは判らなかったなあ。そのなかにおって、浮かれて、膨張経済を楽しんできたので。あるいは、楽しむよう操られてきたので。

また大学の先生とか、評論家とか、マスコミ人とか、みんなもその中で浮かれていたんだ。なんてこった。だが、これも、いま考えてみるに、無理もないことだったかな、なぜなら、マスコミそのものが、企業、大企業なので。彼らも、本音のところ、激越な食い合いをしている。まあ、血も涙もなくだ。
だから、ここでも、影の実力者は、結局、営業であり利益であり食い合いに勝ち残ることなのだ。まことに、シャレも教養も関与しない、寒々しいような世界だったわけだが、それは、決して表には見せつけない、上品と正義を見せつづける。

こんな時、公務員で決った給料の出る、大学関係者などは張りきってもらはないといけないのだが、給料に安心してしまって、余分なことはやりたがらない。まして、身に危険が及ぶ、体を張るなどという姿勢は、見せびらかしでなくホンモノ要求ともなれば、一転安全地帯に引込んでしまう。そして、誰か、奇特な奴が何かやってくれるだろうと高みの見物を決込んで楽しんでいる。

結局全部が全部、何やかや屁理屈を言っているうち、大企業経済システムにやんわり巧妙に組込まれてしまっていたわけである。そして、事が大企業経済システムという国単位の巨大システムなので、誰がどう責任があるのか、とるのか、さっぱり要領を得ないことに成ってしまっている。困りました。国は大丈夫かいな。
経済に熱中してきたツケが回ってきてしまった。ツケを見逃しては倒産してしまうので、ツケは、払うまでしつこく追いまわされること、当然だ。流行の公的資金を使うだって?

以上が、中央の知恵者たち、エリートたち、金持たちが主導してきたこと。
だから、地方がフラフラになること、初めからわかっていたのだが、ふるさとの自治だとかおだてられ、自分らはいっぱし見識を持っているのだと巧妙に思いこまされてきた。
文化についても、妙な自信を持たされてきた。中央がらみ、マネーがらみの文化だ。だから、地元の、山仕事や、畑仕事にこそ文化があったのだ、とはさっぱり気づかない。気づきたくない。気づかせようとするほうが無理だったのだ。だって暮しが成りたたんようなところに、何が文化だ。馬鹿にするない、ということにあいなる。

おこりっぽい文ですみません。

7月26日 萩原と地方のこと2 もやもやにごにご 

生活あれこれではなく、その勘所について打ちこんでみます。
大前提は、百姓立国だということ。
モンゴル語、朝鮮語、トルコ語、さらにハンガリー語も、日本語と同じ語順の言葉だそうだ。中国語、漢語は、違います、英語と同じ語順です。
たぶん、遊牧系の者たちが、いつごろからか、列島で優勢になった。けれども、ここは、遊牧には適さない。結局農業主体の集団をつくるようになっていった。

一方、いま地球を支配している、西欧系は、もとは、カスピ海の辺りに住んでいたアーリア民族の末裔なのだそうだ。インドの支配層となった連中も、アーリア人で、彼らとヨーロッパ人は根元が同じなのだった。驚きます。なぜこんな事がわかったかと言うと、言葉の研究の成果だった。ヨーロッパの諸言語と、インドのサンスクリット語は、同一語源だとわかってきて、その根元にアーリア人という血気盛んな民族がいたわけである。

このあいだの沖縄サミットは、日本人のみ、系統からして、孤立していた。あと全員が、アーリア系統だった。どうもやりにくいでしょう。その裏話は知りませんが、ぜひ、外務省の関係者で親切いっぱいな人がいたら、それについて教えてくださいよ。

勇猛獰猛果敢なアーリアの血筋は、ヨーロッパに引継がれている。彼らは、そこから、大西洋を渡って、アメリカ大陸なる我々の系統の者たちを、征服していった。さらに、太平洋を渡って、列島の高度な文明国だった日本も、つい50年前に征服した。征服のプロにはかないません。勝てません。いま、日本独りが征服者たちに混じってがんばっている。孤立無援に闘っている。

日本は弱腰だなんだかんだと突つかれているが、全方位、敵に囲まれているようなもの、軽はずみな行動は取れない、用心深くやらなくてはならない。この臆病なほどの構えこそ、百姓立国日本なのだ。なかなかずるいのである。
三島は、武士武士と頑張りぬいたが、かえって危ない。いま日本は、武士の面影はゼロに近くなっている、指導層はみんな、我々と同じ百姓精神だ。シャキッとしなくて気持悪いが、反面、用心深く慎重な点は評価されよう。

モヤモヤニゴニゴの態度は、だから、萩原に限らず、日本の特質なのだ。百は、和をもって尊しとする。水田による共同体。お互いにけん制しあって、飛出し目立ちを警戒しあう、嫌う。
遊牧系統の血が入っている西欧人種は、逆に、進取の気性を重んじる。攻めが得意だ。日本じゃ、戦後は、守りのずるがしこさを発揮しているが、彼らからはなめられている。百は、戦士とまともには戦えない。腰低くして酒肴でもてなすのは、その代り、手慣れたものだが。

萩原で生きるには、百姓精神の知恵がいる。これを軽んずると、いつかやられる、浮かされる。
外来をものめずらしがる、喜ぶ。だが、ここでいい気になってはいけない。面と向ってそれを指摘しないのが、百姓ふう慎ましやかさだ。彼らは、自覚してくれるように辛抱して待つ。だが、いつまでもいい気に愚かに浮いて調子付いていると、少しずつ少しずつ、集団からつまはじきしていく。

集団つまはじきが、日本人にはいちばん痛いことだろうな。
しかし、やり手の者は、その辺りの呼吸を読みつつ、自分の利益を図る。微妙にうまく立ちまわる。これは、ひとつの芸であり、文化だろうな。
水田による米作りは、平等精神による助け合いを土台に置く。つまり、跳ね上り、ひとり勝ち、ひとり占め、進取先行をひどく警戒する。その辺の事情をよくよく勘案して地方を、萩原を生きてくれ。

しかし、いまや、日本全体が、百姓精神と百姓立国にいらついている。互いに警戒しあって、進取先行打開をつぶしてしまう。これが、日本の、この場合重大な瑕疵となっている。
奇跡の明治維新の立役者武士たちが、いま懐かしい。百は、内側の調整はうまいが、プロだが、果敢に新しい道を切開く力に欠ける。指導されることはうまいが、するほうは苦手だ。
困りました。迷走日本です。グニャグニャ日本への道を進むんじゃないかな。日本列島独自の文明と文化は、昔語りになるんじゃないかな。

司馬さんの随筆に、ただ今の鹿児島について書いていたのが印象深い。維新の鹿児島の、あの剽悍な武人の面影が今はなにもないのだそうだ。逆に、モヤモヤニゴニゴした者たちの鹿児島になってしまっている。西南戦争で、あの武人たちが死んでしまった後は、百姓たちが残った。となればすでに、ふつうの農業県になってしまっていたわけである。
武人と百姓の違いは、当時、同じ日本人とは到底思えないほどのものだったそうだ。

しゃべり方が、モヤモヤクニャクニャしている者のことが気になる。私自身も、萩原へ、二十代の終りに帰った頃、そういう態度をしていたので、気になる。お互いすっすっと通じ合えるなら、そんな態度はとらない。結局、用心して、正直な意見を保留するのだろう。自信がないか、ずるいかだろう。シャキイッとしなわけなのでうっとうしい。

高山への途中に久々野という町がある。そこの者4人だけだが付合いがある。彼らは、萩原のモヤモヤした連中とは明らかに違う。
あそこには、お寺がないという。これには驚いた。お寺は、独特のかけひきと下こなしをやるものなので、それがない分かえってすっきりしているのじゃないかな。
萩原はお寺が多いので、格式など、格好をつける。だからこの町の来し方ようすが、おおよそ察しられるだろう。

7/28  昨日、夕食を、7人と泊り1人用意をする。ヒマで体がナマっていることもあって、くたびれてしまった。弱くなったなあ。この機械で、1日2千字ぐらいを打つのが適度かな。明日は、22人だ。気力だ。あとはぶっ倒れるだけだ。

8月2日 水曜日 やっと忙しい日々

またグチになりますが、数年前まで真夏は、毎日が忙しくて。すなわち、オヤ売り、釣り道具の店の客、友釣の泊り客。仕事関係の客。
忙しいと考えるヒマなどありません。夢中の行動。ただただ追われて動くのみ。むなしさなどは来ません、考えるヒマがないので、うつ病傾向の人にはいいです(私も、夏は快適になったものでしたが)。ひたすら夢中の中、忙しい忙しいで過ぎていく。欲を楽しむ、忙しいぶんマネーが比例するので。夢中の中の行動と欲。それだけ。腹いっぱい。自分が膨張している感じ。原水爆も恐くない感じ。

ヒマで、何やかややたらに神経的にイライラ考えるのは、戒められているが、同じく、忙しすぎるのも戒められている。
キリスト教、特にその先輩のユダヤ教では、休日は労働日と同じに、むしろそれ以上に大切にされている。3千年の知恵だ。
忙しさにかまけて、ものを深く考えない反射人間ができてしまうことが憂慮されている。そういう者たちは、私も、挫折やつまずきにひとたまりもない。訓練がされていないので、ただ右往左往するのみ。

民族は、他民族との争いの中、なんとしても生きぬき存続していかなくてはならない。そこで、民族に知恵を授けておかなくてはならない。その首尾の徹底性において格段に優れていたのがユダヤ民族だ。民族教育の成功。ただ一つの神の発見こそ、最高度の、民族英知だった。

まあ、だから、ヒマな時は、深く来し方行末を考えよということだ。ユダヤ民族の場合は、休日にまったくまったく何もしないで、ただ神とともにあれということ。
わが大和民族には、唯一の神はないので、代りに祖先、歴史、風土、などについて考えるしかないかな。考えにくい、漠然としているので。日本には日本の核はちゃんとあるのだが、はっきり言葉にされていないので、解りにくいなあ。

つまり、日本は、日本人は、他民族や他国のこととなると、訓練不足で、子供みたいなものだ。もともと幼稚だったわけだ。『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』、とあらためて言われるまでもなく。
バブルで忙しかった時、結局日本中がテイノウになってしまっていた。忙しいと、逆上せてテイノウになるんです。そうならないように、あちらでは、三千年も前から、週に一度、徹底的にヒマにさせて(休日)、頭ののぼせを冷した。たいした知恵です。

日本人ののぼせぐせは、なおりませんね。くり返します、今後も。大東亜戦争は、ムチャクチャの作戦を戦っています。ひどい逆上せです。当人は、のぼせにはまったく気づいていない。自分は正しいと自信を持っている、バブルの時も。

ヒマでは、夜逃をしなければならないので、忙しいほうがいいに決っていますが。
ヒマは苦しいです。忙しくて我を忘れている時がいちばん幸せです。
アユ掛けは、サオとイトとオトリに集中して気持がいい。これも一つの、我を忘れる、ですが。

8月5日 結局は景気?

また静かになりました。今日の泊りは、釣り客1人。
昨夜、飲みに出ました。1日おいて出かけたわけ。めったにないこと。なぜこうなったかと言うと、2日に行ったとき、Aのママさんが、目をとろんとさせ顔をゆがめて、ちょっと不気味なくらいに罵り、わめいた、私にではなく、店にいないある人に。
こんなことは、ついぞないことだったので、同病相憐れむで、同情心が起きた。原因は、景気のせいと読んだ。その止らない落下が、私に狂ったかと思わせた。で、次の日電話してみると、娘さんが出て、いたって元気がいい、何事もなかったふうに。本人が出る。声の響きが重い感じ。

むろん景気の話などしない。彼女にアドバイスを言ってみる。罵りまくった人を、たてるといいよ、と言う。商売柄、たてるを別に解釈したようなので、もう一度、人を、顔をたてる、の意味だと言いなおす。

そこで、昨日も行ってみたわけだ。なんと、きょろっとしておだやかで、今日はえらくツヤっぽいように感じられたね。なんだ、アホくさ。
お客は少なくて、店に若いこがパートに来ていて、それやこれや同業相憐れむで景気付けに来たような事になった。むりに飲み、歯抜けの(下の入歯が、きのう割れた)、さしすせその発音がぐあい悪いのを義務として歌い、歌わせ、重いマネーを置いてきました。
今のところにがい話にはなっていません。これも一つの、ライフの味付です。
それにしても、さしすせその漏れる歌を歌うなんて、数年前までは考えられないこと。格好が悪い。惨めな姿をさらしたくない。なのに、さらした。これは事実として大きな転機ですな、きっと。

8月7日 月曜日 さんもと

このあいだ、テレビで面白い人物を紹介していた。挫折というテーマで。つまり彼は、挫折のつど起きあがり頑張りぬく。ただ者ではない。
3人のもととは、張本、谷本、そして山本。張本は、3000本安打の張本だ。ここでは、山本の話。

彼らは、浪商野球部の同級生。
第一の挫折は、彼らが1年のとき、いきすぎたシゴキが行われているとして、甲子園出場ができなくなった。

その後彼は、目標を失ってぶらぶらして喧嘩に明け暮れていたそうだが、やがて、智弁学園の監督に迎え入れられる。これは、異例の抜擢だろう。大学も出ていないので、それでもいいのか、と念をおしてこの仕事に打ちこむ。甲子園出場を旗印にして、野球漬の毎日。猛訓練。
ところが、これがシゴキとして、彼は叩かれる。智弁学園の街からも白い目で見られるようになる。結局1年半後に学校から去り、野球から去った。皮肉なことに、あくる年、智弁学園は、甲子園出場を果す。人生を、世間を呪う毎日が続いた。

次が奇抜。
そのころ、東映仁侠映画が盛りのころで、その『仁義なき戦い』を見て、よっしゃやったるぜと、志願してヤクザ業界にはいる。任侠道に励むことで、その道の信頼を受け、32歳のとき大抜擢されて、山本組の組長となる。ヤクザの親分に転進。
その後、服役中の獄で、親友張本の3000本安打達成を知る。また、任侠道は、彼が思い描いていたようなものではなかったので、煩悶のすえ、48歳のときこの稼業から足を洗う。その時、もう一人の本の、谷本から金銭上の助けを受ける。

次がまた奇抜。なにをするのか。絵をかく。彼は画家になる。
山本の親分はあきれたそうだ。からかわれ、馬鹿にされているんじゃないかとさえ思ったことだろう。彼は、絵は好きだし、上手だった、しかし、この道では絵は関係がないので、みんな知らない。まわりの動揺が伝わってくるよう。だが、絵なので、親分廃業が許されたのかもしれない。

似た話で、聖職者になった話を、直接ラジオで聞いたことがある。これも奇抜。予想外。キリスト教の牧師に転進したヤクザの親分の話。

山本画伯は、画家として成功を収めているそうだ。テレビ映像の彼は、一本気そのもの。すっきりそのもの。颯爽としていい男。彼自身、絵になっている。
いわゆる画家というようななよっとした感じはまったくない。画布に向って戦闘態勢をとっている。気迫、気力、のかたまり。
浪商野球部のシゴキは彼において、生きつづけている。

8月8日 火曜日 CVCCの開発

前回のNHKプロジロェクトXは、ビクターによるVHSビデオの開発。新任で、背水の陣を敷いた高野鎮雄部長のもと本命とされていたソニーのベータに勝った。同時にビクターの危機を救った。戦前における国産テレビ開発研究の高柳の精神が生きていた。

ホンダ若手技術陣によって社運を賭けて開発されたCVCCエンジンは、、アメリカのマスキー法に、世界ではじめてパスする。車の排気ガスを従来の10分の1にした。現在では、この数字は100分の1となっている。見事にクリーンだ。

マスキー法にパスすることが、アメリカ三大メーカーに勝つチャンスだと、本田宗一郎は若手社員に訓示しハッパをかけていた。しかし、若手から、それは今までのオヤジの精神と違うじゃないかと反発された。ただ青空をとりもどしたいから、それでいいじゃないかと。
これに本田は敏感に反応し、自分は精神も老いてしまっているとして、障害物になっているとして、社長でいるべきでないと決断し、去った。このエンジンの開発成功後7ヶ月で、彼はその座を降りる、若くして、60そこそこで。
その後の苦しみ、会社へ行けない、車作りがもうできない、ただひたすら耐えることが仕事。これは、ほんとにつらいことだったろう。企業哲学と、人生哲学を全うすべく耐えた。会社は私のものではないと。遠くから見守っても、口出しすべきではないと。彼のこの信念と実行によって、今のホンダがある。

 マスキー法…自動車の排気ガスを規定する法律。1971年、アメリカで制定。大気汚染防止のために、一酸化炭素・炭化水素・および窒素酸化物の排出量を厳しく規制。マスキーは法案提出者の名。(広辞苑)

8月12日 土曜日 乱雑部屋、『蛇』、オヤ、材料買出し、香味だれ

ここ10日ほど忙しかった。きのうは、お客なし。ずっと寝ている。予定では、アユかけだったが、起きられない。情けない。ただ、寝て、ぼんやりしていたい。回復したい。最良は、ただ寝ること。横になっていること。
この部屋は、もとは、休憩室兼応接室で、10畳、天井が高めで、ラクな感じ。ここを、自分の部屋にしている。自分の全部。部屋の真中に、テーブルを二つ並べて。その上は乱雑。
引出しつきの小物入れ、次に大きなものが、ノートパソコン、次が、血圧計、双眼鏡、鉛筆削り、鉛筆立、エビオスの空瓶、もう一つのメガネ、時計、ホッチキス、辞書、ブロアー、手ぬぐい、置き時計。雑誌、紙紙紙。イヤホーン、ブルーブラックのインク瓶。監視員の赤帽、さかさまに投出したまま。部屋中むちゃくちゃに乱雑。

テーブルの向う側は、家内が仮眠する時の蒲団が敷きっぱなしになっている。自分のはこっち側で敷きっぱなしになっている。
この部屋は、誰も入らない、入りたくない、頭が痛くなり不快になろう。私は不快ではない。努めて快適にしていなくてはならない。それでなくては生き続けられない。この部屋を、10畳を、自分そのものとして、嫌わないようにしている。

1日中この部屋でしていることは、二つ。横になって雑誌などを見ているか、起き上がって機械に向っているか。
横になっていることのほうがほとんど。しかし、時間はつまっている。先の短い老人性のものかもしれない。すべてにちっとも能率が上がらないのに、時間は詰っている。横になりうつらうつらする。
ただし、台所で、息をつめて、3時間もぶっ続けに追われたあとは、ものも言えず、食うこともできず、部屋へもどって、ぐったり蒲団に倒れこむ。楽しみはテレビ。水戸黄門は見ないけど、チラッと見たときは懐かしい。若者向け番組は、もう合わない。NHKのコクのある番組は、深夜にあるので、つい起きて見てしまう。

パートで客室掃除係のミタさんは、けれども、この部屋を嫌悪しないみたいだ。それと銀一マの子供のヒーさんも。2人とも、むしろ興味があるみたいだな。何をしているのかと。2人とも、私のなにごとかを信用しているようだ。

きのう夜7時過ぎに、Aの紹介でノシさんが来る。Aのブランデーを飲みに。私は、例によって寝ている。家内が店に出る。彼は、私がいないかと言う。家内が呼びにくるが、寝たままでいる。やがて、近所のユーばあさんが来て、続いて近所のツーさんが来て、ナマを飲む。

8時過ぎに、近所の村木さんから電話があり、『蛇』を読んだと。書いた4月23日は、俺の誕生日だと。だいぶ酔っているようだ。精神に異常のある者が気になると書いてあるなあ、と言って大きく笑う。なにか思い当るのかな。意外なことを言う。向うも、俺の書いているものに、意外なものを発見したのだろう。HPなる私設極小新聞のいい所だな。
愛知県に住む彼の娘婿が、大坪史朗のサイトを取り込んでプリントして彼に送ってきたもの。かなりの量のはずだ。そのなかで『身近にいた生きものたち』が彼の目をひき、さらに4月23日の「蛇」が、彼の誕生日とも重なって、さらに,精神に異常をきたしている者への俺の関心に、彼はひきつけられ、愉快だったので電話してきた、のだろう。

いま昼の2時、近所のサーさんが来てオヤを1匹買っていく。これから盆休みだが、台風が心配だと。オヤを選びながら、すぐ掛けるオヤがいないかと言いながら1匹を選ぶ。暑い。
続いて遠い近所のテ―ちゃんが来る。いま機械に向っているので、中断したくないなと思いながら、家内を裏の部屋へ呼びに行く。ぐっすり眠っている。テーちゃんが来たぞと言うと、うんうんと少しうなづく。もどって打ちこみを再開。なかなか起きてこないので、また呼びに行く。もどって再開。やがて起きてきた気配があったので安心して打ち続ける。が、宿泊客4人の食事の材料買出しに行かなければならない。時間がない。

昨日の夜からずっと今の時間まで、何があって何があってと書いていくつもりでいたが、時間が切迫したのでやめる。面白いことを書きこめるぞと力が入っていたのに残念。

これから台所でやってみる楽しみは、NHK「今日の料理」、20ページにある、高城順子さんの香味だれを作ってみること。

8月13日 日曜日 お経、猛暑、香味だれ、里帰り

夕方になっても、坊さんが来ないので、寺役の人に家内が電話する。すると、すぐ飛んできた。アルバイトだ、学生ふう。どこから来た、と聞くと、京都とこたえた。京都からねえー。去年も飛ばしたらしい。
どうだい、儲かるかい、と聞くと、いいえと、明るく照れ笑いする。このようすでは、彼は京都の人間ではない。田舎から京都に来て学校へ行っているのだろう。
不景気だから、お布施は少ないよ、と彼に言う。そして、飛ばしたバツとして、あげるよ、と1枚渡した。いいえ、と拒んだが、君に出すんだと言って押して手渡す。

今日の日差の強さには凄味がある。痛い。夜になっても暑い。暑くて頭が痛い。
バローでレジが、暑いですかと声をかけてきたので,今日は太陽の機嫌が悪くて暑くて暑くて、と言うと、表情がぱっとはじけた。このこは、洒落ているかな。

この暑さで、昨日の香味だれはなかなかいいので、今日も作る。甘さを抑える。かぼちゃがもらってあったので、素あげして、これをかけてだす。

昼に見なれぬ女性が来てカレーを食べた。どちらさんですかと家内が聞くと、隣りの大前さんの親類の人。50年ほど前に東京へ出ていった人の子供。聞くと私より10歳ほども若い。彼女が生れたころ、東京へ移り住んだ。その父という人の名が、諏訪神社の高額寄付者に載っている。

彼女の夫君が、吉田君という名の犬を連れてきたことがある。家内には、これは忘れられない。ジョンとか、ポチとか、リンチンチン、ではなくて、吉田君だぜ。こりゃ生涯の記憶に残るね。

私は、彼女に、萩原ふうに無遠慮気味に話したが、ひるまない。びっくりしない。ふつうにしている。つまり、これは、彼女の両親が萩原人なので、家では、萩原弁が使われていた、ことによる。夫婦の郷里が違えば、こうはならない。彼女自身は、生れも育ちも、池袋なのに、萩原人ぽい池袋人なのかな。

8月22日 火曜日

今朝9時ごろまで時雨れていたが、また天気になる。暑くなる。だが、ひところの、太陽の刺すような暑さは少しやわらかくなっている感じ。
毎年20日頃にここへ来る、大学同窓生のいる人文研が今年もやってきた。去年は休み。10数年来ではじめての休み。常連で世話役をやっていた二人が亡くなったため。老年と死が身近になったことを体に通知される。

老いた元教授が、帰りぎわ、いくつに見えるかねと聞いたので、率直に、75ぐらいと答えると、緊張したようすがうかがえた。この会話は、彼には軽くないのである。彼は精神の集中力など、一般よりも鋭く、また気張っているので、辛い感じにさせられました。
一方もうひとりの、元助教授は、お若いですね、と言うと、好人物らしくごく自然に、いやいや、のんびりしてしまっているので、と言った。この人は、根っから、若いときからがんばることが苦手の人なのだ。好好爺、という言葉がうまく当てはまりそうです。

同級生2人は、どうも、まだ老年ではない。定年に近いけれども、感じに張りがあって現役である。私も、体はがたがただが、彼らのようにまだ現役という煩悩とツヤを体ににおわせているのだろうな。

8月25日 金曜日 縄文の楽器

昨日今日とやっとヒマになった。結局一日寝てしまう。川へ行くつもりだったが、二日ともにだめ。行けない。ずくがない。休みたい。
これをカネスさんと比べると、問題にならない。彼は、僕よりも二つほど上のはずだが、そのまあ元気なこと。二日ともに、朝から晩までサオを持った。しかも、おっくうがらずに、場所を何回か変えている。自分など、川へ行ったとしても、二時間ほどもサオを持っているのがやっとこさだ。とても場所までかえる力はない。彼は、三日目も、三時ごろまでやった。それから静岡まで帰る。そして今日、彼は埼玉方面へ商売に行っているはずだ。

昼ごろ、それでもとバイクで川を見てから、帰ってまたぐったり寝てしまう。釣り人は少ない。益田橋から朝霧橋までに、十人弱。
一六時ごろ起きて前の川を見る。二人いるだけ。ほかに戸谷さんが、本格的にゴトすきの格好をして川の中を歩き回って探している。
どうもわびしい。本来なら、彼はアユ掛けをするはずなのに、しない。代りにゴトすきをやっている。なぜか。直接彼に聞いたことがないので確たることはわからないが、おそらく、アユ掛けが彼には思わしくないからだろう。

帰って写真ファイルを四つ作る。使う写真がサーバーに残してあったかどうか、もう忘れている。

◎ 昨日、縄文の楽器という番組が印象深い。縄文の笛と打楽器。ともに土を焼いて作られたもの。
これを語るのが、土取利行という人物。五十年配で、なんといま郡上在住。元は、ジャズのドラマー。ドラムへの関心から、世界のドラム、その起源、楽器そのものの起源に関心を持ち、独自に研究。

十年前に、彼は実際に縄文時代の楽器で演奏してみせた。小さな土笛は、ひとつの音しか出ない。しかし、彼の出すその音は日本の音だった。大自然と自分とが交感する音。しっとりとした音。征服の音でも、屈辱の音でもない。ある深みを持った森羅万象交感の音。確かに日本の音。

現代音楽の音は、新参の音であることがわかる、西欧起源の。この音は欲望がせめぎ合う音だ。自我が、欲望が、沸騰する音。ざわつく音、若者向けの。こういう音からは、年齢とともに離れていく。遠く懐かしい心にしみいる音をなんだか待っているようだ。すぐにはないが。
しかし、土取さんが出してみせてくれたその単調な音は、単調にみえて単調でははない、単色にみえて単色ではなかった。なにごとかであった。

彼は、縄文時代の出土品で、広口の周りに小さな穴のある壷に対して、打楽器だ、太鼓だと断定した。ただし、まだ定説はないが、僕も、素人ながら打楽器だと思った。彼は、世界の打楽器を調べて歩いていたので、このことにピンときたのであった。そして、実際に鹿の皮を張りつけて作り、音を出した。これを彼は、かなり激しく打って演奏し続けてきた、十年も。傷まない。くさらない。現役だ。博物館のものと違って、使用するからいつまでも現役なのだ。

これらの音は、恐れる音だ。対して、今の音は人間様の音だと威張って疑問がない。えらい違いだ。
頭が熱く変になってきたときは、こういう音に耳を澄ませて、昔の人の姿を思い浮べてみるのがいいよ。今の全部がむろん正しくはないし、その基準がふわふわしてきて不安定になってきたら、遠い昔の人の姿を思い出すといい。ハッと知恵に目覚めるかもしれない。

9月5日 網鮎。ハック・フィン。吃音者、溝口。

◎ 歯医者さんへ行きました。1週間前から痛かったのだが、予備のを使って我慢していた。今日火曜日だし、血圧が高めで調子が悪いので、新しいのをはめて、直してもらいに行くことにしました。はめるとシカッとして途端に体が硬直する感じ。圧が高まる感じ。腹いせに、出がけに、おい、あんまり辛いものを食べさせるなと言残す、自分で、しょうゆをぶっかけているくせに。機嫌が下降。で、血圧が不安定。と、悪循環は悪循環を呼ぶ。ここはひとつ歯からいこうと医院まで五十メートル歩く。

彼女はまったくの同級生。つまり、親の代から五十メートルのところに共に住み暮しているのに、年に一二度三度会うのみ。歯の用事のみ。
彼女は私めの歯を、口の中をのぞくのだが、不思議だな。こんなこと若いころに空想したこともなかったな。あれまあ、あんまり我慢してちゃダメよ、ちゃんと来なくちゃ、と東京弁らしいので喋る。口を抑えられて身動きならんので、返事のしようがないので、じろっと顔を見る。しかし不思議だな、こうも近くで女性の顔を見たことがないな、何年も。だから、いつも、彼女の顔、看護婦さんの顔、女性の顔が、男性でもそうだろうが、近くにぬっと上から現れると、そのたびにブルブルッとくる感じだ。

◎ 彼女と、チリョウインさんのこと、鮎の話をする。同じく歯医者だった父上は鮎狂だった。子供のころ、彼女は仕掛を作らされたという。はじめて聞く。患者さんがくると、すぐ下の川へ呼びに行く。波音で、なかなか声が届かない。届かなくて困ったことが、思い出として強い。しかし、釣りの感触は知らない。
書生だったチリョウインさんは、その間、先生が治療を終えて戻ってくるまで、サオを持たされた。こっちは、サオの感触の思い出。

◎ 彼女の話では、石油下でやったものは300ほども獲ったという。比較して多い、みなさん大苦戦なので。
益田橋下流でやったТさんがさっき来て言うには、60そこそこだと。えっ、ひとり?いやいや、ぜんぶで。とほほほほほ、だ。腰が抜けるよ。ここ3、4年そんな調子だという。7、8年前までは、毎年その10倍は獲れていた。
私もやっていた10数年前、ひとり150はあった。
やっぱり今年はひどかった。

◎ 因縁というか、ちょっと面白い話。
『ハックルベリー・フィンの冒険』を買ったのである。原因は三島由紀夫。このごろ、三島に困っていた。どうも彼の小説が読めなくて。もともと小説は好きでないのに加えて、彼のコテコテした文と内面の自問自答みたいな小説世界について行けなくて、いらいらしておった。一銭になるわけでないし。しかし、彼のを読んでみると誓った手前、早々投げるわけにいかない。

『ハックルベリー・フィンの冒険』は、もう3、40年も前から、書棚に並んでいるのを知っていたが、買う決心がつかなかった。それがとうとう買った。高いのかって?629円。三島のに消化不良が起きていたので、ハックは正解のようだ。訳文がいい。原文がいいためだろうかな。文に順調な流れがある。
とにかく、モヤモヤしないのがいい。マーク・トウェインさんは世知にも鋭く、世事に辛らつだ。こりゃ子供の読物じゃないな。
パシパシと行動があって気持がいい。
いま『金閣寺』を必死でしがみついて読んでいるが、苦痛だ。どうもさっぱりしない。これが三島の世界だからね。衆に交わってうまく生きられない姿をえがくのが。うまく生きられないので、空想が猛烈に跋扈する。空想することが人生になってしまう。どうもこういう小説に付合うのは大変だ。

吃音者溝口が、私は、と喋っているのではなしに、三島が私はと喋っている感じなので、どうも変だ。溝口は、あんなに言葉に達者でないはずだが。
一方ハックも、僕は、としゃべり続ける。けれどもトウェインがでしゃばってこない。

9月6日 女房、会社から独立。自分に正直。

不良中年のすすめなどと、穏かでない番組名のものをやっていたのが、なんとNHK。だが、登場しているのは見たことのある、額の広い、めがねを掛けた善良そうなアナウンサー。隣には、これまた見たことのある嵐山という作家。彼が持論を言う。アナは聞き役。嵐山は、出版社に勤めていて、四十近くで退社した。その後作家になった。みんなにできる道ではないが、説得力はあった。

要するに、会社人間になってしまうなということらしい。タイトルは、サラリーマンなら魅力的だろう、聞耳を立てるだろう、アナ氏も楽しそうであった。
嵐山は、独立するなら、三十代後半から四十代だと言う。会社で、ある程度の社会常識や人間関係ができてからのほうがよいと。五十代も半ばではおそい、これはハッキリしている、体力。二十代では若すぎて、社会慣習が身についていない。

自分の場合、会社には二年ほどいただけなので、会社から独立、の話からはすでに外れる。
生活の安定を欠いて今でも不安におびえて生きているが、これは、自分に正直、の代償なのだ。人生そうそううまく行かないとしたもの。逆に、自分に正直、を実行したら家族も何も破れてしまうから、みんなしたくてもやれないのだ。単純な話だ。
しかし、自分に正直、についての彼の主張は、自分の内なる声に聞き耳をたてろ、聞く耳を失うな、ということだ。会社は職場であって、全人間的なものではないからだ。会社という生きものは、自身に不利益をもたらすものに対しては冷たい。はっきりしている。

自分に発言できるのは、女房からの独立だな。これは、地味な事で気がつきにくいが、タイトルの三つのうちこれだけでもいいくらいだな。
甘えたい、ラクをしたい、自分のわがままの領域を増やしておきたい、これはまずみんながやる事だろう。
それに対して、日本の女性、妻というのは、古来からの繊細な知恵に満ちているので、なにくわぬ顔で亭主をたぶらかすのである。故意ではなくても、知らぬまにたぶらかしている。これが危ない。なぜそうやるかと言えば、家庭の中で自分の力を確保するためなのだ。亭主を威張らせ、いい気にさせておいて、その実は、彼が妻なしでは何も出来ない人間につくっていく。女房がいなくては、すべてが始らないようにする。自分が亭主にとってどうしても必要な人間にする。
亭主は、給料を取ってきてくれるので必要な人間だ。ハッキリしている。それに対して女房も必要な人間にしておかなくては身が危ない。で、亭主を甘やかせて、女房なくては不都合でどうにもならないようにつくっていくわけである。

この作戦にいい気に乗っていると、いざという時に力を出せない、ふがいない者にされてしまっている。
で、ふだんから、気を引締めて、なるべく自分でやるようにしておく。調理もやろうと思えばできるようにしておく。洗濯も。ご飯だって、歩いてお櫃まで行って、自分でよそおうようにしておく。心がけを磨いておくこと。女房に威張ることで自分がえらい者のように錯覚しないよう、気をつける。女房は、亭主をえらい者のようにさせて、結局手綱さばきをラクなようにしておこうとする。
家庭での駆引きがちゃんとできないようで、主戦の会社での駆引きがうまく行くはずがない。

嵐山の三ヶ条のうち、女房からの独立が、平凡のようでいちばんの急所であるよ。

9月13日 アユ掛け(友釣)二つ

このあたりは雨雲の中心からそれました、それでも増水2メートル。
去年は大洪水となった、郡上方面も。川の相が変ってしまった。ここの前がうずまって川原となり、真中へ流れが移動してしまいました。

さてタイトルのこと。
言いなおすと、一般常識の友釣と特殊なそれ。私自身その特殊を十数年もやってきたので、二つあることが身をもって判ります。その特殊はと言うと、釣り客に、出発するとき、じゃ仕事に行ってきますと言う、すると、まず皆さん奇妙な感じの表情を見せる、これです。川へ仕事に行く、と聞いてギョッとする。どうも落ちつかない、ちょっといやな気さえする。

我らは、仕事を離れて喜び勇んで川へ行く。対して、奴は仕事に行く、などと言う。川が仕事なんて聞くと、自分らの仕事を思い出して穏かでない。仕事は、なによりも義務であり強制だからだ。どうでもいい、とか、まあまあに、とか、適当に休むか、とか、いやになったらしまって帰ろう、とかは許されない。それを仕事を、私はやる。一人、ぽつんとやる、みんなと交じって。目立たぬように。
みんなと同じ友釣びとの一人に間違いないけれども、根本において違う。上手下手でもない。趣味ではなくて仕事としての釣りだ。なにか根性といったものが違うわけである。

オトリを一日平均、何匹は釣ると自分に課す。時間は10時ごろから17時ごろまで。なるべく、ささっと掛けて、ささっとしまって帰る、そしてなにくわぬ顔で、釣り客をご苦労様と迎える。これを理想とし、生きがいとしてやりました。しかし、だんだん釣れなくなり、体力もなくなり、これが出来なくなって来ました。引退です。

競争して釣るわけではない。目標は自分に課したノルマ。マネー。ですから、競うだとか、釣果を威張ってみるとか、そういった要素は近づけないようにする。またなるべく目立たないようにして、周りにいやな気分を起させたくない。そうでしょう、隣に、なんとなく肌合の違う釣り人がいれば、いやなもんですよ。仕事なので、考えていることが違う。

釣りを楽しむという姿勢が、まず違う。アユ、釣り人、川、自然、風、雨、時間、オトリ。背掛りにする、オトリを疲れさせない、などなど。それらの要素と、果し合いをする感じでサオを持って立っているわけである。こりゃ違和を発散させますね。朝、バイクに乗って川を見ながら考えていること、(支部管内はほとんどでやっている)、もう帰るときのことを用意している。明日、明後日、一週間後を。趣味の釣りではないので、体も頭ものんびりなどしない。張りつめている。殺気立ってさえいる。違和です。

これと似ていて、ロコツ度において大いに違うものに、競技の釣りがあります。これは、20年ほど前から盛んになりました。むろん元々友釣に、競技などなかった。
プロ、職漁師の釣り、これは友釣の知恵と技量練磨の元祖みたいなものであるけれども、競技の釣りは、そういう伝統からは異分子であります。職漁師は、日本人の生活階層からすれば、いちばん下のあたりにいた。この辺りでは、釣りをする者で裕福になれた者などいなかった、その代り釣りの楽しみは手にしたけれど。軽く低く見られておった。

それが、スポーツとしての釣りが海でも川でも一般となって変った。釣りは、大企業の営業品目になった。サオの高いこと。バイク一台と、あの一本のサオが同じですよ。その他の道具も高価。

その大企業が自社製品の宣伝のためにはじめたのが、競技としての釣り。優勝者たちは、釣り人にしてその宣伝マンになった。
経済、文化、伝統、それぞれのせめぎ合い。戦後の象徴。主役は、釣りを通り越して、経済、営業。私もその末端に連なっておこぼれをいただいて生きております。けれども、ひそかに、釣り関係の推移を、世相の推移を見ると同じに、見よう見ぬこうとしてはおります。そうしないと、自分がわけのわからん者になってしまうからです。自分の出所進退が。

競技の友釣。こりゃ、企業戦争と同じです。仁義なき戦いです。結果がすべて。勝てば官軍、負ければ賊軍。
これこそまさに違和の友釣です。で今、その指導者に望まれるのは、自立し品格を持った友釣姿のひそかな承継育成です。

9月16日 土曜日 柔ちゃん Kの家族 そのほか

三島について入力していたりで、夜中ずっと起床。オリンピックを見ながら、うつらうつらしておって10時ごろ眠ってしまう。柔ちゃんは、言うことは勇ましいが、不安定な感じだ。選手にして柔道家、プラス日本女性。日本女性の要素が気になる。この人はなかなか繊細の人物のようだ。しかし、可愛らしいような、またおばさん顔のような、落ちつけない印象を与える。
そんなわけで、金メダルをとってほしいが、予選を見て、どうも以前のワザの切味が鈍くなっているんじゃないかと不安。しかし、払い腰一発を決めたのですっとしたが。彼女は、老練になったのかな。なまくらふう柔道に変えたのかな、動きまわって楽しむ柔道ではなしに。

昼ごろ、賑やかな様子が店から伝わってくる。M子さん、Т子さん、Y子さんなどなど。Y子さんの旦那が思い病気で伏せっているので、みんなで彼女を元気付けるためにちょっとビールを飲みに。

14時ごろ、ぐっすり横になっているとき、Kの家族の人たちが来たと。残された娘さん二人と、奥さん。上のM子ちゃんは、今アメリカから帰ってきていると。そりゃ、よかったと言う。Kは、グチとかいろいろしゃべらないたちで、ある方向で相当の出来物だったが、その娘については心配をしていたようだったな。この子は、さっぱりアメリカふうに活発になっていないようだ。アメリカじゃ、どんどん喋らないとダメでしょう、と言うと、当然うなずく。日本では日本風にしていて、アメリカではあちらふうにするんだと。さて、そんなうまいぐあいに行くもんかな。
下のN子ちゃんにHPアドレスのある名刺を渡す。Kは、サイトを見ていてくれたかと思っていたのに、どうやら違うらしい。本人は、自分のPCを用意するつもりでいたようだったが、かなわなかった。

Kは全般に口出しや介入を嫌ったので、家族にはがみがみ言わなかった。そういう様子が三人にしのばれて、Kを懐かしくも想い出したよ。Kについてはこちら

15時すぎに、Yさん、Mさん、Fさんが来る。Yさんはいつになく白っぽい表情で、体の調子でも悪いのかな。三人に任せてさがって寝る。

9月18日 左翼と『葉隠』

きのうA君が来る。「店を開いていなかったので、どうしたのか、体でも悪いのか」と聞くので、「違う。二人とも休んでいたので」。「喉が渇いたので、ちょっと一本たのみます」と。
彼は日曜農作業をしていたので。その身なりで来た。アユの話、営業の話を挨拶がわりにする。月曜日には岐阜方面の仕事場へ帰る。

彼はたまに、わがサイトを見ているので、葉隠の話をする。私とは、三、四十年前の話をする。熱心に。営業には関係ない。儲からない。学生のように話をする。だが、幾多の経験を経てきているので、むろん学生のころのように甘くない。なかなか辛らつである。

彼との共通話題は、あのころは何だったのだろうという問だ。その後の日本に苦い思いを抱いている。特に左翼に。威張っていたからだ。こっちもその気になっていたからだ。信用していたのだ。その行く末を見てきているので、不審と腹立ちいっぱいだ。
左翼系統とはなんだったのか。彼も、これは金にならないことであるけれども、大いに関心がある。当時の日本に、われわれの青春があったからだ。

一番の疑問と不信は、左翼系統の言葉が根付かなかったこと。根無し草の言葉だったこと。アホらしい。
吉本隆明ってなんだ、という点でも共通している。ハッタリくさいと。
それがあるから、『葉隠入門』についての僕の記事に違和を持たないのである。三島由紀夫は、左翼の宣伝で捻じ曲げられてきているらしいと。僕らは二人とも右翼とは関係ないけれども、土地に根づいた言葉を取戻そうとする姿勢において共通する。つまり、まだまだ、自分の再生のために密かに奮闘しているのである。

左翼の言葉がなぜ根無し草に終ったのか。それは、左翼の関心が「全体」にあったからだ。と思う。彼らは日本の文化そのものにはたいして関心がなかったのである。関心はインターナショナル。経済。冨をばらまけ。底辺をなんとかしろ。個々の国や民族の特殊性に対しては、ほんとの関心はなかった。だから、雑な格好いい概念を使うことに酔って平気でいられた。個々の文化が政治政略にやられてきたのである。そして、それらが去ると、あとには荒涼。根無しぐさ。自分捜しのはじまり。

三島にとって『葉隠』は戦後における自分捜しであった。徹底抗戦であった。奇矯ではない。左翼やヒュウマニズムの合唱の中では、三島は合唱で抹殺されてきた。普通に、実際に彼のものを読んでみて発見した、そこには戦後日本の経済急ごしらえと左翼急ごしらえに対する地道な、身をもってする批判があった。