ダイアリー、エッセーbP 2000年.平成12年2月16日〜27日 

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目次 

2月27日 早川一光さん(京都堀川病院・元院長)の話術と仁術と
2月24日 臨時に瘤のある人
2月20日 宗教好きで妙好人ふう禅僧西川玄苔さん〈宗吉寺〉
2月19日 『朝日』に、いい話わるい話それぞれ1つ
2月18日 ヨハンソンとパターソンの試合
2月16日 久しぶりちょっと飲みに出る
◎ 徘徊老人のこと
2月14日 山の木の手入など
2月12日 白川静先生のこと
2月10日 AAのこと
2月9日 『大聖堂』(Cathedral)
2月6日 クリスミマス
1月26日

「道」、フェリーニ、マシ―ナ、クィン


2月27日Sun 早川一光さん(京都堀川病院・元院長)の話術と仁術と

 一度もお目にかかったことはないし、診察を受けたこともない、けれども、話をきいていてそうであるに違いないと決めました、仁術のお医者さんであると。

 話術というと、器用といったイメージが浮ぶけれども、彼の話からは、そういう連想は出てこない。こんな話ぶり、声の調子の人ははじめてじゃないかな。
 戦後の、ひどい時代、病気では結核が死病だった時代から現場で医療活動をはじめておられるので、いま八十は越している。

 ラジオで3日間にわたって、〈私の歩みから〉、〈ひとり暮し〉、〈ポケについて〉、聞いた。半分は眠ってしまったが、彼が、いいですよ、眠ってくださいよ。気持いいですか、けっこうですねえ、眠ってくださいよと言ってくれているのがわかる。そして、うつらうつらしながら、〈これは何だろう、これは何だろう〉と繰返す。

 二十代から現場で医療をしている。彼は、そう意図し決意してやってきた。「私はずっと、病院の中で医療をするのを敬遠してきました。直接、病人のいる家へ出向きました。暮しがあるし、暮しが見えるからです。戦後しばらくは、医療費がなかなか出なくて、患者さんも大変でしたし、私のほうも大変でしたね」

 この話に、彼の一筋の姿勢が読取れる。一筋に西陣を診療して歩いてきた。病院の中、診察室の中だけではなく、家族の中の病人としてつきあってきた。それで彼の話術、声の調子に、常識を蹴破ってしまったものが現れてきている。
 話ができなければ、すべてが始らない。患者と医者のそれぞれが話をし、話を聞く。会話する姿勢は、彼の医の土台である。これが始であり終りであったろう。それくらいに、早川先生の話術には、理由づけを拒んで彼方へ飛んでいってしまうものがある。

 話は飛ぶけれども、この人の話を聞きながら、関西とはなんだったのだろうと、また、つくづく思ってみる。東京にはない、あるいはほかの所にはない、なにか重大なものがある、と。

 彼の話を聞いていると、どうも、医療技術の話が遠くなっているように思われる。むろん、万全の、出きる限りの先端技術は使われている。しかし、彼の関心は、患者と自分の「心」にある。いまや、老年医療の核心は心にあると。
 ここに来て、彼のこれまでの医療姿勢が、心という不思議な領域で、満開になった。精神科医でも、宗教家でも、その他その道の専門家でもないのに。

 生、老、病、死、はシャカの終生の課題。老年は、このうちの老、病、死と面と向わなくてはならない。どこにも逃げられない。若者の時の、壮年の時の、生、はほとんど後退してしまっている。
 彼は、これらと長い間、覚悟をもってつきあってきた。あの声の調子、優しさ、間合は――なんともいえず深い響きは――単なる医療技術をつき抜いてしまっている。

 私らは一般に損得生き死にをかけて、生き馬の目を抜いて生きる。必死だ。早川先生の真似はできない。やさしさへの専心からは遠い。夢中にツミをつくりあって生きる。しかし、ふっと、こんな話を聞いて、なにか遠いものを懐かしく思い出すよう。

2月24日 Thu 臨時に瘤 こぶのある人

漁協総会が終って、店でひと段落していると、額に瘤のあるTさんがはいってきた。「やあやあ」と挨拶をかわしつつ彼の額に注目する、瘤のぐあいに。顔の肌つやにも目つきにも、精気がある、瘤は一段と立派に張りきっている。小さめのこぶし大、小型のリンゴぐらいになっている。ピンク色。悪びれない。前よりもはつらつとしているようす。人生いろいろ、人もいろいろ。

 彼は、家具職人で社長。ひとりで全部をやる。近所に住む。六十代半ば。酒が好きでおしゃべり好き。雌の話題が好き。病院話が好き。自分の子供の話が好き。性質は、陽気。つまり、陰気くさくない。私とは、波長が合うのだろう。熱心に聞くと、元気よく喋りつづける。相手を陽気にする、という配慮が潜んでいるので、こっちに陽気が映ってくる。

 病院話が好きということは、病院とはしょっちゅう縁があったこと。ここニ十年、足腰やら内蔵やらで病院と仲良しになっている。Tさんと入院といえば、この辺りでは評判で有名。萩原では、これで立派に有名である。

 さて、瘤のいきさつについて。
 去年の正月に、仕事場で、つまずいて、転び倒れた。拍子悪くガラスに顔をぶつけた。「ア、しまった」、と起きあがると血がたれてくる。手で触ってみると、びっくり、鼻がぶらぶらしている。救急車で、下呂町の県立病院へ。そのまま入院だ。
 数ヶ月いて、退院してきて、「やあ」と店へはいって来たときには、これは驚いた。なんと、鼻が欠けてない。左は、かろうじて穴が見えるが、右はない。

 このときは、まともには見られなかった。どうもぐあいが悪い。彼も浮かぬ表情だ。
 「あれまあ、ひどい目にあいましたな」
 彼は、なんにも返事しない。こっちがなんと言っていいのかとまどうのと同じに、彼もなんと答えていいかためらっている。お互い、キョトキョトぎこちない。

 このままにするか、形成するか。彼は形成することにし、鼻と穴を作ることにした。難手術で、引受けられるところは三ヶ所。名古屋大病院へ。晴れて大病院へはいることになったわけだが、心境は複雑。遠い。三時間はかかる。費用も。秋から入院をし、診察に通って、ようやくタンコブがものになってきた。そして今があって元気だ。〈 しっかりと大きくしてから、これで鼻を形成する。すごいことをやるもんだ。転び倒れて以来、一年を経過している。〉

 「コーヒーにしますか」
 「いや、寒いし、いっぽん」
 カウンターに彼と並んで腰掛ける。やがて、話し始める。子供の話。目をかけていた長女は、まだ独身だ。四年生大学まで出してやった。コンピューター関係の仕事についていて、張りきっているので、田舎へは帰らないし、結婚にも興味を持たないようす。

 「もうちょっと親のことを考えてくれたらな」
 「いえいえ、考えていますよ。いるもんですよ」
 「どこも、ちょっと見てみないよ、傷のない家はない。なんかかんか、ある。申し分ないなんて家はないよ」、とこの一言を言って、彼は満足しているようす。長女の結婚がいちばん気がかりなのだ。
 しかし今はむかしと違って、独身がナウイのである。都会はもちろん、この辺りでも、独身女性は珍しくない。私らのころの結婚常識は昔話だ。

 次女は、大企業に勤める亭主について、アメリカにいる。サンジェゴ方面にいる。どうもこの家族とは合わない様子だ。彼もいちずな、職人日本人。ずっとここで住み暮してきた。いまさら、大都会の感覚など合わせられないし、合わせようとも思わない。子供たちこそ、こっちのことを考慮して合わせてくるべきだ。学校へ行ったということは、そういう知恵を身につけるためでもあるはずじゃないか。Tさんは、三本飲んで機嫌よく帰って行った。彼は、これから女房と二人で夕めしだ。

2月20日 Sun ラジオ深夜便
宗教好きで妙好人ふう禅僧西川玄苔さん(宗吉寺)

今朝はHPの手直しやらそのお勉強やら、原稿作りやらで、気がたって、缶ビールを飲んだら逆に目が覚めてきた。どうもまた自律神経か心臓か血圧か肝臓か大腸がおかしくなってきているらしい。しかしこれだけ検索項目を出せばどれかに引っかかるでしょう。

 それでラジオ深夜便を、久しぶりで聞くことになった。この人(名古屋在住の西川さん)、話が面白いので子守唄になりません。
 ラジオ深夜便については、番組がはじまった7、8年前から、断続して聞いてきた。いずれ、メモしていたものを適宜直してお披露目する予定でいます。

 これは夜11時から朝5時までの、NHKのラジオ番組。なリ行きによって、起きて注意して聞いたのは、4時からの、おもに宗教関係者のお喋り番組でした。現在では、そうした関係者の話は、マンネリ化していたので、範囲を広くしている。

 司馬さんが急死された直後の、山折氏との対談の再放送などは厳粛に聞いたものでした。次の日も、目覚しをかけておいて、飛び起きたものでした。そのころ、彼が、時代小説の面白い作家ではなくなっていたことを知りました。

 大体こんな時間に起きているなど、あたまの始末に困って聞く人が多いはず。普通の者たちではない。いちばん多いのは、老齢者であろうか。病院の患者とか看護の人とか。また受験生もさすがにこの時間には起きていないでしょう。その他、僕みたいに、不眠症傾向とか、ノイローゼとか、また、ひきこもり者とか。まともな生活者たちでないことは間違いない。

 感心するのは、アナウンサー氏たちです。この人たちは、地味だけども、日本の一つの文化的達成であることには間違いないですね、お喋りそのものが。深夜のひとり喋りは、昼の戦闘的に構えた調子とは違う。ゆっくりと、心に響くようにしみ入るように喋っている。なにせ聞く人たちが、日々を戦闘して生きている者たちではない。まあ、ドロップアウトたちなのである。引退した人たち。

 情報の送り手の喋るほうは、だいたい老齢者ばかりであるが、引退者ではない。張りきっている。喋らせてもらえて、聴いてもらえるのだから、非常に張りきっている。

 西川さんも張りきっている。楽しくてしょうがないようす。けっこうなことです。で、こちらも聞耳を立てたのだから、ハッタリではない。

 彼は学徒(駒澤大学)出陣した。年齢は司馬さんと同じくらいだ。家もお寺だった。
 どうもごく若いころから、座禅などそういう雰囲気が好きだった。沢木興道(この快僧には私も少し因縁がある)の『禅談』に非常にいかれ感激して(彼は感激症くらいに感じやすいたちのようだ)、沢木師がいた駒大へ行った。そして、「神様のようにして附きまった」のである。

 復員してきてから、東海中学だかの先生をやったりするが、どうもこの学校の校風が、進学熱をあおるところがあって、自分とは合わなかったと彼は言う。この発言に彼の、一筋の道がすでに用意されてある。

 〈 ――東海中学、高校について非難しているわけではない。考え方が合わなかった。一般には考え方云々とは言っておれない。糊口の道がふさがれては生きられないので、うんもすんも言わずご無理ごもっともで勤め上げるとしたものである。彼の場合わがままがきいた。
 この学校の卒業生は、この辺りでもごくわずかいる。中小企業の社長の子供など、まず金に余裕のあるものが行った。戦後の新興の元気さがここにある。ユニークであった。〉

 西川さんがなかなかいいのは、そして大成されたのは、沢木師の真似をすることに終始しなかったこと。つまり、矛盾を禅僧として、あるいは禅僧でありながら、これを一抱えに抱えて生きて行ったこと。
 「どうも、座禅をはなれて日常の生活に戻ると、自分の出来の悪い変なところがいっぱい出てくる。そこで、座禅をする。するとすっと気持がよくなる。しかし、また生活に戻ると、くちゃくちゃになってしまう。これに悩みました。」

 彼は宗教性と日常性の矛盾きしみを終生の課題にしていった。しかも、言葉として、あるいは学としてアプローチしなかった。生活の中における自分の生身を中心に置いた。彼は沢木師のような剛毅なタイプではなかった。それをよく自覚していた。

 さて真宗に、『妙好人』という伝統がある。これを沢木師からも聞き、西川さんはひじょうに興味を持った。

 妙好人は強いタイプの者ではない。普通の、穏かな、平凡な生活人である。むろん学者評論家文化人ではない。ただの人である。
 西川氏がここに関心を持ったのは、彼の課題ときしみが、生活の中における禅定だったからである。これは、専門の禅僧の課題にはならない。というより、ほとんどの坊さんが、ややこやしい課題はきっぱり切って捨てているのである。捨てることをもって悟ったとしているきらいさえある。

 彼はここをねばる。そして、妙好人たちのナミアムダブツを通じて、日常の暮しの中における矛盾のままなる禅定を、自分の体とすることが出きるようになっていった。禅僧としてウソを嫌えば、寺持ち家族持ちの彼らは、本当はノイローゼになるはずであるが、ならない。ならないけれども醜悪そうな坊さんになってしまう。当然でしょう。
 〈注  彼らは資格として、聖なる世界を訓練される。結果としてそれを日常使い分けることになるので、醜悪が立ち昇ってくる。しかも、本人は本気になっているので始末が悪い。〉

 〈  修行遍歴の過程で、幾つか名前をあげられたが知らない人ばかり。シライさん、カイ ワリコさん、ハナダ マサオさんなど。その中で、中村久子さんが出てきたので驚いた。西川さんは中村久子先生と言った。中村さんが、親鸞の教えに傾倒されていたとは、ちょっと知っていたが、先生と呼ばれているのでびっくりした。これは西川さんの、信仰道がどんなものであったかをよく物語っているようだ。なお、中村さんについては、当ホームページの、『身近にいた生きものたち』で、カユイ話に登場してもらっていたばかり。〉

 西川さんの最後の砦は、ウソにたいして正直ということである。綱渡りのようなものだ。彼はこの高度なワザを身につけた昨今、売れっ子で面白くて面白くてしょうがないのである。

2月19日Sat
『朝日』に、いい話わるい話それぞれ1つ

3週間前の『民の声は天の声』は出色のできばえ。『民の声』氏の快哉が聞えるよう。彼は、手をたたいて喜びをあらわす人かな、なにくわぬ顔をする人かな。

 まずバラクーダの話から始る。バラクーダはカマスのことだが、夕食のカマスの干物とは違う。熱帯方面にいて、体長は1.5メートル。鬼カマス、毒カマスと呼ばれる。字を見るだけで恐くなる。現場では猛獣なみなのだ、きっと。

 この鬼カマスを水槽で飼う。そのとき中に、透明ガラスで仕切をし、片一方に小魚を入れておく。はじめはねらって食いつこうとするが、やがてあきらめる。そこで、ころあいを見て仕切を取払う。すると、攻撃しないことに慣れてしまって、いっしょに仲良く平和主義者を実行するようになってしまっている。
 そこで次に何をするかというと、新しい普通の鬼カマスを水槽に入れる。新入りは、小魚に飛びかかって食う。これは当然だった。ところが、平和主義者に変身していた最初のが、刺激されてまた元に戻って正常に攻撃をしかけるようになる。

 長くなったが以上が枕。原文ではほんのわずか。
 これで次に何が現れるか予想できた人は、大人物だろうな。じゃ、落ちというか、結びというか、どうなっているか言おう。想起して入力しているので、細部は違うけれども。

 今冬、ようやく冬らしくなった。寒い。でも、零下にはならないが、トシのかげんで寒いし、寒いと思いたいし。
 暖房なしにはおれない。が、何時間も換気しないでは、体調がおかしくなるので、窓を開け放つ。思いっきりよく開けて、すばやく閉める。当然痛いくらいに寒いし、不快ですらある。ここのキーワードは、新鮮で貴重な空気が、冷たすぎて不快なこと。不快だけれども換気とはそういうものだ。これを知らない人はいない。

 ここまでくると、見えてくるんじゃないか。かくいう私は背中を丸めて、ぶつぶつ一人おしゃべりしながら辞書を手に一時間ほどもニラメッコをしておった。だからなんのことか判らなかった話が、見えてきたときにはにんまりしました。

 真中には、日産を立てなおしに来たなんとかいうフランス人の話があった。
 日産の話は、大企業経験がないし、なるほどそういうものかと読んだが、大学の教室のよどみについては、むかし非常ににがい思いがあるので、手をたたいたよ。
 ほんの数人の社会人経験学生を入れたら、教室の空気が新しくなるだろうと彼は断固として言う。居眠教師にも学生にも刺激になること間違いない。平和主義者が狂暴主義者になっては困るが。

 そのほかにもあったが忘れた。「良薬は口に苦し」だ。「ワル薬は口に甘し」だ。

 日本中が――責任あるべき上の者たちが、口に甘い薬を飲みあって慰めあいごまかしあい利益を図っている。

 旧約のユダヤだったら、予言者が叱りに叱るに違いない。『国が滅びるぞ』と。『天は怒ってついに見捨てるぞ』と。『うまし国ヤマトは、昔話になってしまうぞ』と。

 つぎは、わるい話。
 私のこのごろ見つけたひそかな楽しみは、かっての受験英語を使って『朝日』の英語版を、ゆっくり時間かけて一つ二つ読むことだったのである。ここの英語は、ふくよかな感じがあってなかなかいい。翻訳陣がお座なりではないのでは。原文よりよくしようと決心しているんじゃないかな。字も大きくて見やすい。

 ところが2月から、紙面が変ってしまった。字が小さくなった。いっぺんに機械に取りこめなくなった。他紙と変らなくなってしまった。
 『朝日』の親切とサービスには感心していた。これをただみたいに読ませてもらって金欠の私らにはありがたかった。ひそかにお返しはしていたのだ。(購読はしていないが、同社の別のを購読し始めたばかりだった。)

 どういうつもりで改悪したのだろう。やっぱり利益をたくらんだのだろう。紙面については、翻訳陣だって、面白くないに違いない。

 おそらく『朝日』も日本中と同じく、方向を決めるのに、編集も営業も混乱しているだろう。ユダヤの予言者の役をもって任じてきた『朝日』だ。正念場だぞ。本物を問われているぞ。

鬼カマスは、当の本人たちにこそまず問われているのである。

 追記――このホームページの見出しの一つにイッキ飲みについて書いて、「民の声」氏を非難したことがあった。何を怒ったかと言うと、若者の元気をそぐような記事はとんでもないとカミついた。一見正しいような意見が横行していて、このニセモノが本物の出現をじんわりはばんでいる。いまの日本には、元気こそ、とりわけ若者には、絶対に肝心かなめです。

 日本は、ずっと元気な島国でした。ぐにゃっと元気がなくなるなんてことは知らなかった。すぐに反発力を発揮してきました。大東亜戦争前後など、子供が駄々をこねるようなぐあいに、かす元気ぎみに元気でした。とくに敗戦前は、気が狂っていたも同じでしょう。

 ああいった坊ちゃんふう元気は、途方にくれる状態に弱い。敗戦後は、すぐに元気に気を取りなおして動き出した。それっと動きだした。なんとかなるさで走出した。左翼も右翼も、帝国軍隊を継いで大言壮語して、大合唱を繰返した。そして社会党の大墜落。その関係ジャーナリズムも敵方も墜落。それから今がある。新聞もテレビもノンキほうだいで、生残りの経済戦争を美言の裏でやっている。官僚まで自分の生残りに夢中になっている。

若いころ、道徳教育云々でやかましかった。今こそ道徳だ。経済やら何やらに利用されない、我々の柱になる元気の支え――地べたからの道徳だ。ジャーナリストよ、正念場だぞ。

2月18日 Fri ヨハンソンとパターソンの試合

  16日は、1メートルの大雪になると、呑屋で言われて、半信半疑。ほとんど疑だったが、帰り道ヤケに寒いとは感じた。
 この辺り数センチ申訳程度に降っただけ、岐阜名古屋が冬らしき冬となったようす。平家集落で世界遺産の白川では、ズバリ1メートルつもった。この辺り風は強いけれども雪はおだやか。だいたい三十センチほど、シーズン一、二度つもる。

 ヨハンソンという言葉を目にしたとき、ぶるぶるときた。ぶるぶるとは、モウロクのせいか。
 僕は彼の体の白さが忘れられない。見事にノックアウトされた。倒した方のパターソンはカッコよかった。後にクレイの試合をなんどか見たけれど、あのときの鮮度はなかった。
 モノクロの画面なので、ヤケに白が目立つ。周りがみんな黒かったよう。その中に、ヨハンソンの白が、敗北の美が漂っていたのだったか。ヨハンソンは、最後のホワイトのチャンピオンだったことを、いま知った。

 だから映画を作る者も観客も、最後だとしていたようだ、アナウンスも。あとはくろとくろの試合のせいなのかどうか、何か美的なものに欠けている感じだ。物的な感じ。
 僕はパターソンにも、クレイ以後の者たちとは違った、何かヨハンソンに共通するようなものを感じ取ったね。パターソンはとてもきれいな黒だったな。こんな強い者が、負けるはずがないと確信していたけれど、すぐリストンに倒されたようだ。
 リストンから、どうも世界が違ってしまったみたい。

 たしかロッキー・マルシアノというのが、強くて、それをヨハンソンがたぶん倒した。しかも彼はスエーデン人で、この試合はしろとしろだった。

 ボブグリーンというアメリカのジャーナリストエッセイストが、五十歳になったヨハンソンに会いに行った時の記事を、たまたま僕はいま読んだのである。
 そして僕は、これらの試合を中学生か高校生のころだったろうとしていたが、事実は、1961年(昭和三十六年)3月13日。そのころ入学試験の結果を八十パーセント期待しないで待っていた。

 ヨハンソンとパターソンは、3回戦っていたこともここで知った。1959年6月26日が最初で、この時パターソンを倒し、スエーデンはもちろんアメリカでも、日本の田舎のにきびづらをも、感動させて、生涯のしわを脳に刻みつけた。

 会見の記事はあの直接の感動は与えない。しかし、なるほどと納得させるものを、グリーンは伝えている。
 ヨハンソンがストイックな男だということ。チャンピオンを背負って生きていること。スエーデンではあまりにも英雄なので住めないということ。で、世界を転々としてきた。長く住まない。四五年か。
 いまは、フロリダでモーテルをやって、ひっそりと普通に暮している。社長兼雑用係として。今のおれは今のおれだとして。あのときのおれはあのときのおれ。

 ヨハンソンがパターソンを倒したときの強い衝撃は、特にスエーデンでは、ケネディが撃たれたときに匹敵するとさえ、グリーンは言っている。

2.16.00 Wed久しぶりちょっと飲みに出る

15日22時半ごろ出かける。でがけは雪。粉雪。つもりそう。急に寒い外気にあたって、心臓がどきつく。ついこのあいだまではこんなことはなかった。歳だ。いろいろガタがくる。「A」か「B」かどちらかだが、「B」にする。
 入ると三十人くらいいる。農協関係か。知った者もちらほらいる。お客がたくさんで、マダムは、機嫌がいいようす。

 不景気。田舎は遅れるので、まだまだ深くなる。しかし飲み客は、若者もいて、華やいでいる。不景気とはいえ、この雰囲気は、千年らいのもので、洋の東西を問わないはずだ。横着飲みが少なくなった、と思えばいい。酒なしでは、地球はありえない、かに見える。

 帰り。辺りはまっ白。
 マダムは、カゼでへんに上気して、顔が熱っぽい。倒れないかと心配だ。
 自分が萩原に来て、呑屋のマダムが、すでに三人もお迎えられた。多すぎる。みんな五十にならないうち。なにか無理を続けているには間違いない。

 15日、NTT DIRECTORYに登録掲載なる。記念すべき日だ。ここは登録者がかなり少ないようだ。益田川でも、馬瀬川でも、萩原町でも、数人しかない。一発で出る。しかも、全体として、個人のホームページは、この辺りでは、きわめて少ない。拍子抜けする。ヤフー登録者はさすがに多い。しかし、役所関係ふうのものが多い。釣りの現場体験とか、文章勝負の者は、非常に少ないようだ。まあ、なかなか、記事の更新ということは手間ヒマがかかってたやすい事ではないはずだが。

徘徊老人のこと

  数日前、どうも誰か玄関へ来たようなので、のり子ママが出てみた。一緒に玄関から出てきた姿を見てみると、見るからに様子がおかしい。どこがおかしいとピンとくるかというと、社会性というか、常識というか、を欠いている。普通に生きる者は、子供も大人も、格好とか世間を雰囲気としてちゃんと持っているものだが、その調子が狂っている。で、変な感じを与えてしまう。そしたらすぐにタクシーが迎えに来た。無線がはいったので来たとドライバーは言っていた。

 次の日、のり子ママがお客から聞いたと言うには、
 「あれからおお騒動した。あの組の人たちは、みんなで探していた。もうすでに問題の人だって。なんでもあそこのうちでは、息子までおかしくなって引きこもって出てこないのだそう。あのおばあさんは、農協なんかで、ちょいちょい物を持っていってしょうがないんだって」

 えらく元気よく話す。もうちょっと控えめに、こういうことは口にするもんだと思うが。性分なのでしょう。
 彼女は自分の母親を、あの病気でなくして、その間ずいぶん手を焼かされた。それで、おかしい者の話になると元気がでて、いかにも自信を持って話すから妙だ。
 事のついでに、私までおかしいと言いだすのにはまいる。
 「萩原にはもう一人引きこもりの坊ちゃんがいるんだって。もうハゲはじめているんだって。ここにもう一人いるから三人ね」

 とんでもない事を言出す。この俺をおかしくするきか。そうでなくても、おかしいんじゃないかと内心びくついているのだから、追討ちをかけてはいかん。本当になりはじめるぞ。

2.14.00 Mon 山の木の手入など

11日に、1ヶ月ぶりに泊り客があったのだが、裏のTさんの紹介。去年も来た人たち。

――そんなに客がなくてどうして物理的に生きているんだい、と関心のある方は関心があるだろう。困っている。私は煙草もやめている。タバコに物理的に不自由するとしたら、禁煙などそう難しくない。先立つ物がなければ、シケモクをあさるしかない。
 去年の11月に、20日間ほど、毎日休みなしで16、7人を引受けた。パートさん二人の、四人でやった。年が年なので、非常にきつくて、倒れそうになったが、がんばった。欲は欲、悲壮な欲だ。こんな上客は〔ほとんど値切らない〕、当旅館では、このごろめったにないこと。で、食つなぐことができた。肝心な支払が、年末半分しかなかった。後は今年に持ち越し。現金を見なくては、マイナスと同じだ。

 のり子ママの目が釣りあがって暴れグチをたたいてしょうがない。がこの日、支払ったとの連絡がついたので、二人とも体の筋肉が抜けてしまったよう。しかし確認は、月曜日にならないと解らない。お客様は神様である。
 最初に戻って、神様のお客様三人は、去年は五人だった。何をする人たちだと聞いて驚く。枝打など手入管理に来たのである。東京から。こりゃ―不思議でしょう。東京から山の木の手入にくるんだぜ。
 なんでも、その持主が、T家の親類の人。なにかの事情で持主となって、管理が大事と言い含められたのかも。そこで当の女史は、職場関係の人かなにか募って乗りこんできたわけである。そりゃ、仕事は、たぶんまにあわないでしょう。
 ともかくも、世間は、東京は広い。町のものでも、関係者以外は、まず山へ行くことなどないのに。

 思い出したが、このごろは、山の伐採などをする人がなくて困っていて、で、都会へ募集を出したところ、けっこう志願者がある。山の仕事は、田舎人がやっているのではなく、都会人たちがやるようになっているらしい。時代とともに人も流れ動くということ。しなびた私の頭にはびっくりすることばかり。

2.12.00  Sat 白川静先生のこと

十六時ごろ、店を仕舞いに行ったら、のり子ママがえらい剣幕でまくし立てる。わたしがいるんだから、閉めるなと言う。争わないでテレビをちらちら見ていたが、目が離せなくなった。こっちが画面をにらみつけていると、遠慮するようにして喋らなくなった。

 京都在住の白川静という漢字の先生の画面だった。年齢に驚いて注目した。八十八とか九十八とか紹介していた。しゃべる態度も所作も、とてもその年齢には思えない。老人という痛々しさは何もない。現役だ。びっくりして注目しているうち、この人が漢字の出所の研究で、地道な努力においてついに独創を切開いたことがわかってきた。要するに只者ではないわけである。

 漢字の手本は、今から二千年前のなんとかいう本。部首で漢字を整理した。しかし、白川さんは、地道な研究を続けるうち、定年後の年齢になってから、漢字の出来方において、上記従来の常識を覆した。それがようやく近年認められはじめた。
 祭祀を中心とした古代人(殷のころ、紀元前千六百年こ゛ろ)の生活ぶりを想起しつつ漢字の成立ちについて、新しい見解を発表した。お手軽を排して、経験というすっきりとわかりにくいものを対象として研究を続け、それがついに実ってきた。
 と、ここまでやって来たときマッチビュウ―ティチャイルドさんの次男と、時計と貴金属やさんがそれぞれ別個に来たので、中断した。

 時計やさんとは、漁業組合のことを中心にして話した。つまり魚の話、川魚の話。
 若者とはPCの話。彼は印刷会社に勤めている。マッキントッシュを仕事では使っている、と言った。プロバイダって何かと聞いてきたので、インターネットと仕事は直接関係ないようだ。

 もとに戻る。
 白川静さんが、孔子さんのことを次のように言った。孔子は、聖人を第一のものとしている。これは解る。問題は、第二だ。孔子は第二を、きょうけん(狂狷)の人としている。狷の字は、狷介な人物などとして今も使われている。新明解では以下になっている。狷介〔狷、は自分の意志をまげない意。介、は堅い意。性質がひねくっていたり自尊心が異常なまでに高かったりして、人とむやみに歩調を合わせるなどしない様子。例として、「狷介孤高」〕。

 安易に妥協せず、信念を貫く。これが、新しい局面を創り出すもととなる態度。ただし、見識の広さ深さがないと、ただの負けん気になってしまってだめ。
 白川さんは、狂狷と自分を重ね合わせている。

 彼は毎日35分の散歩に出る。あとは家にいる。体も心も非常に強い人。普通ではない。

2.10.00 Thu  AAのこと

きのう、めずらしい男が来た。同級生だ、と名のる人が来たとのり子ママが言う。へんだな、わざわざ言ってくる者などいないはずだが。
 出ないわけに行かないので、頭を振って寝ぼけをサマしながらヨタついて出ていく。
 「ようよう、なんだなんだ」
 「ようよう、話には聞いていたんだ。」
 「同級生と言うので、誰かと思って、びっくりした……よく来てくれた。なつかしいな」
 「同級生と言わんと……安心させんとな。どうもおっかなびっくりしていたからな……」
 もうだいぶアルコールが入って気持よさそう。
 意味がすぐわからなかったが……わかった。そういう喋り方をする。この配慮の仕方は、なかなか苦労人を予想させる。彼は上手にほのめかすように話す。もうだいぶアルコールが入って気持よさそう。

 その点、私らは、夫婦ともに、欠陥ふう人間だ。ぽんぽんと言いすぎる。味も素っ気もふくよかさにも欠ける。ぽんぽんと言うことをもって、正義にかなうとリキむところがあるので、救いがたい。

 彼とはコーヒー兼呑屋の《あくん》でいっしょになったことがあった。昼間から飲む連中なのだ。雨、雪の日はまずたいがい来て、でっかい声を気持よかげに吐出して飲んでいる。ママさんを抱きこんでいるので、これができる。金は、バシッと払う。いい客なのだ。ほかの普通の、コーヒー客なんかはびっくりしてしまう。ともかく外が荒れる日は、彼らの天下だ。

 粋なような女性といる。てっきり女房かと思って、奥さん奥さんとか呼んでいたが、どうも普通の奥様ではない。なんとなく水っぽい。
 つまりなかなか、いい男なのだ。カネをちらつかせるわけでも、いい男ぶるわけでもないが、よか男なのだ。彼は女房をなくして十年になるそうだ。
 そのしゃべりっぷりを再現できなくて残念。独特の気持よさを持った男。もやもやにごにごしていない。こういう者は、珍しいほう。たいがいは、含んだような腹がさっぱりしないような、ぐにゃりとしたところのある者が普通。

 彼は、これから上流5キロ先にある野上(のがみ、いい名だ)の産だ。マッチビュウ―ティのだんなとは隣同士て゛、しかも同年で、いっしょに小学校へ通った。奇縁だ。狭い田舎のことでよくあることだが、やっぱり奇縁だ。
 「俺の方が少しマシだろう」と相槌を求めてきた。たしか、数年前にもこういう光景があったような気がするが……。私は、この場合、はっきりそんなことは言えないと言った。妙なことを言ってくるね―。野上が不思議な所なのか、二人の関係が不思議なのか。彼がマッチビューティのだんなを気にしていることには間違いない。

2.09.00 Wed 『大聖堂』( Cathedral

 朝10cmの積雪。今冬いちばん。高山では、50cmになっているだろう。このあたりは少ないが、8キロ先の小坂から奥は多くなる。
 昼には、道路の雪がまずとける。道路ぎわは用心しないと、車がとびはねかす。とにかく、いま町での飛びぬけての元気ものは車だ。びゅんびゅん飛ばしてひとり元気。あとはひっそり息をつめている。若者もひっそりしている。呑屋もひっそりしている。なんだか不吉を待っているよう。

 マネーで苦しいので、のり子ママが、僕にあたる。ばか、うすのろ、ふけつ。あんたがいると、みんな気持悪がって逃げていく。僕はうなだれる。だが三回に一回、怒鳴る。やくざのオドシ声のように。
 こうやって、老いて、やがてサラバになることは絶対の真実だが、それまでなんだかんだ生きねばならぬのも真実。このごろ体調が下を向いているので、頭が暗い。しかしこの辺り飛降りるビルはないし、降りたいとも思わない。病気の頭ではないようだ。

 昨日は『らっど』が休みで、ここで一日中半睡ですごす。
 八時半に一年床から起きて出る。室温3度。ストーブ二つに火をつける。原始的ストーブ。ぶるぶる体が震え、頭の中の氷が溶けないようなので、エアコンもオンにする。
 魚たち(金魚たち)をまず見る。様子を見る。みんな元気なようだ。この池の水は地下水なので、水温は十二度ぐらいだ。夏で十五度ぐらい。自然の力はたいしたものです。
 新聞を取りに外に出る。空気が痛い。持ち帰ってホッチキスで閉じる。
 さて、パンにするか、ご飯にするか。パンでは力が出ないが、体が重いので。厚めに切って二つにしてバターをぬる。牛乳を飲む。十五度ぐらいになってきたのでエアコンを切る。

 HPの勉強と下書作りにどうも気が向かないので、どうしようかぼんやりする。一時間ぐらいも。レーモンド・カーバーをのぞいてみよう。気持が、ひょっとして改まるかもしれない。
 辞書を用意して、覚悟して始めてみる。『大聖堂』(Cathedral)
 なつかしい言葉。思い出す。彼の言葉は僕の体に入ってくる。相性がいいのだろう。だが、すぐ眠くなる。カウンターの椅子を四つ並べて横になる。気持がいい。その間のり子ママが起きてきて、のぞく。彼女もトーストを食べる。コーヒーはいるかと聞くので、いると答える。知らぬ間にいなくなる。

 またむっくり起きて読み始める。すぐ眠くなる。また横になる。例のマッチビュウティが配り物を持って入ってくる。健康調査の書類だと言っているのがわかる。そう言えば彼女は組の衛生係(正式には健康福祉委員)だったな。体がしびれている。起きあがりたくない。生返事をしておく。
 もう夕方五時だ。体も頭もだるい。二十四ページ中十八ページまでは来た。もうだめだ。いやな文ではないので、粘れたのだ。ふらふらするので、目覚しに缶ビールを飲んでみる。よけい悪い。頭が濁って起きていられない。あーあ、今日も終ってしまったか。

 途中、演歌をやっているヨーと呼ぶ声がする。うつらうつらしつつも、そんな呼び方があるか。と腹が立つから不思議だ。演歌、がワザとらしくて怒れてきたのだ。
 朝二時に目を覚まし、また蒲団のなかへはいる。寒いのでカタツムリのようにする。室温5度。また目を覚ますと、4時。ラジオ深夜便に合わせて聞いてみる。

2.6.00 Sun クリスミマス

 今日は冬らしい日。朝のうち粉雪で、店の窓から見ていると、見る見る積る。4、5センチになる。お客は二人。常連。七十のおじいさん。曰く、
 「冬はこうでなくっちゃ、だちかんさ」(冬はこうでなくっちゃだめだよ)「寒いときゃ寒うのうては」(寒いときは寒くなくては)「冬ナマ暑いようでは、景気はようならん」
 〈注 土地言葉で入力すると、機械がへんに反応して、ややこしくなる。入力がギクシャクすると、肩がこり頭もこってくる。それで、なるべく機械用言葉で、一般通用言葉で打つようにします。〉

 昼頃ぼたん雪に変ったので、あーこれは積らないな。積るどころか雨に変ってきた。山下達郎のクリスマスの歌に、雨に変るだったか雪に変るだったかという一節があったな。クリスマスイブのあたり、スナックへ行ったら、やや美人顔のママさんが、クリスミマス、すみませんと言ってグラスをカチンとあわせたことがあっておかしかったな。

 もう一人の客に、私のことがほめられたと、のり子ママが言った。けなす話よりもほめる話のほうが要注意。私は、ごく小規模ではあるが決断と実行が早いんだそうな。はじめまわりはびっくりしてなんだかんだ言うが、そのうち黙るんだそうな。どんづまりの前に手を打つんだそうな。私は信長を真似て、坐して死を待つよりも打って出て後は勝負、が好きなので、それを真似て粋がるのである。
 しかし、アフターケアが大事。持駒が歩二枚でも、そこを、空想でごまかさないで冷静に対処することだ。飛車角は夢のまた夢。歩一枚でも、工夫すること。もろもろがない者は、あらん限りの知恵常識しか味方はいないじゃないか。私も人生訓を語るようになった。いや、語れるようになってきたのである。

1/26/00 Wed
「道」、フェリーニ、マシ―ナ、クィン

 夜中、五時ごろだったか、目が覚めてうつらうつらしていて、HPのことを考えるでもなしに考えていると、ダイアリーのことが浮んだ。それから、映画に飛んだ。映画とはめずらしい。
 どうしてそうなったかというと――釣人は関係のないものは見たくないし読みたくないもの。で、
DIARY二つに分けようと思いついた。その連想で、映画がきた。たとえば映画のことなどを打ちたい(書きたい)場合もあるなあ、と。
 その他、するするっと頭にのぼるのを、見ていると……。

 今いちばん気になるのはHP。これが脅迫されるような内容のものだと、心臓が苦しくなって暗あい気分になって、消入りたくなったりするが、女性のことなど、前はよく観音さまがわりに思い出させて楽しませてもらったものだったが――いのちが墜落しているときにつけ昂揚しているときにつけ――このごろは縁遠くなってしまっていた。

 ジーナ・ロロブリジタなんて名前が出てきたよ。またHPと今度はsobashimaさんが出てきた、と、「道」が出てきた。と、アンソニー・クインが出てきた。その前にジュリエッタ・マッシーナが出てきていた、映画のこれが最初。
 マッシーナの連想で、ザンバロがすぐ出てきたが、その時はアンソニー・クインの名がどうしても出てこない。もどかしい。出てこない。いやな気分になる。悲観ぐせ。だいぶ脳細胞が欠落しているよ。

 さあて、監督の名前が思い出せない。たったの今まで思い出して脳中にあって、打ちこむ準備が整っていたのにだ。消えてしまって出てこない。だからHPはむりむりだね。記憶も理解もヨタヨタなのに。

  まだ出て来ない。
 来た、来た、フェデリコ・フェリーニ。発音が、くちゃくちゃする感じなので思い出しにくいのかな。僕はフェリーニは気になっていた。彼らのことはなんにも知らなかったころ、高三のころ、町の萩原劇場で(当時こんな一万人の町に二つも映画館があった)、「青春群像」というかれのデビュウ作らしいのを見た。なんとも不思議な映画だった。筋があるようなないような。若者の乱雑猛烈なエネルギーが、画面から飛出しくるのだ。そういう場面は、あとで、ちょいちょい出くわしたので、彼の十八番なのだろう。本当の劇場だったので、桝席で、ほんの数人の観客と見た。そろそろ斜陽で数人の観客が常連になり始めていたころ。あのハギワラゲキジョウはとても懐かしいな。

 ジーナ・ロロブリジータなんて名をよく覚えていたものだ。目がヒョウのようにつりあがった感じ、下から斜めに見上げる感じ、私は魅力的でしょうと自信まんまんに右胸をぐいと突出すよ、日本の女優たちはみな可愛らしい感じなので、にしているので、ぼくは少年だったが、アラビアの巣窟にいる感じ。大根やにんじんやウグイに囲まれて田舎にいて、劇場の中では夢のよう。

 ジーナは「道」には関係ないので、ザンバロで想い出したのだ。ザンバロ役のクインが、ジーナと、「ノートルダムのせむし男」に出ていた。彼が丸い背中の下からジーナを見上げるさまが、強烈だったね。
 旅芸人のザンバロもヨダレをたらしているような口をさせて、とろんとジュリエッタをうわ目づかいに見やるのが、同じく忘れられない。アンソニー・クインは正真正銘ああいう男かと思ってしまうね。迫真の演技、演技などとんでしまった演技。
 急に宮本伸子に映像がとんだ。彼女も伊丹監督と組んで迫力演技。
 その先輩がジュリエッタ。あの大きい目。若いまま行倒れに死んでしまった。ニーノ・ロータの歌を残して。それをリチャード・ベースハートがジュリエッタに教えていたのを、ジュリエッタは彼のやさしさに吸いこまれて覚えてしまう。ザンバロにぽい捨てに捨てられたあとも、それを一人歌っていた。悲しい曲だったなあ。
 この曲のメロディーと、ジュリエッタが[ザンバロ]と呼ぶ声の響きだけは、音で伝えたい。神のごときパソコンのことだから出来るようになるでしょう。獣よりはるかに獣のザンバロが、ついにその神に出会うらしいところで、映画は終る。

 年月が過ぎて、老残に近くなった彼が、とある旅先で、ジュリエッタがいつも歌っていたそのメロディーを耳にする。
 「誰からきいた
?」とザンバロは聞く。
 目をぎらつかせ口をまげヨダレをにじませながら、いつもの粘っこさで。
 「ちょっと頭の弱い女が、この辺りに住みついて、いつも歌っていたの。かわいそうに、草むらで死んでいたよ。行倒れだよ。」
 このときザンバロにキリストが入ったらしい。暗い海辺で、彼はひとり慟哭する。明りがついて映画は終る。僕は呆然とする。

 名前などうろ覚えで、合っているかどうかわからない。ご勘弁を。