臺灣における植民地教育の研究

創成期を中心にして


目次 はじめに 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章

おわりに・付記 脚注 年表 参考文献

「泉君の日本語教育史講座」に戻る ご意見・ご感想


     

 

    

<目次>

<はじめに> 
  • ◇研究のきっかけ  
  • ◇調査を始めて  
  • ◇この論文で  
第1章 台湾における植民地教育の区分     
  • 第1節 他文献の時代区分    
  • 第2節 この論文での区分  
第2章 学務部創設の動き        
  • 第1節 台湾占領まで
    • 第1項 清国内の占領地行政
    • 第2項 日本の動き
    • 第3項 台湾での動き

  • 第2節 伊沢修二の動き  
    • 第1項 概 略   
    • 第2項 伊沢修二の占領地に対する考え  
    • 第3項 伊沢の「天機奉伺」  
     
  • 第3節 台湾出発前の学務部  
第3章 伊沢の構想           
  • 第1節 伊沢の台湾に対する考え  
    • 第1項 渡台前の伊沢
    • 第2項 渡台後の伊沢  
  
  • 第2節 伊沢の構想
    • 第1項 学務部の芝山巖設置の経緯  
    • 第2項 学務部の陣容  
    • 第3項 伊沢の学制構想
    • 第4項 編輯事業
      • 4−1 編輯事業    
      • 4−2  教科用図書
第4章 伊沢の台湾教育の展開         
  • 第1節 学務部と芝山巖學堂
    • 第1項 台湾総督府民政局学務部    
    • 第2項 日本語伝習講習生 
 
  • 第2節 国語伝習所の展開とその意義
    • 第1項 国語伝習所の設立意義
    • 第2項 設置の現実 49
    • 第3項 設置経緯の性格
第5章 伊沢の台湾教育の挫折
  • 第1節 伊沢の構想の挫折の経緯 
  • 第2節 伊沢の構想の中断と挫折 
第6章  まとめ−伊沢の台湾教育の性格−  

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    <はじめに>    
   ◇研究のきっかけ

     1983年の秋から1985年の春まで台湾は中部の埔里で、1987年の秋から1989年の夏まで台北に住んでいた。その時、台湾人の日本語との出会いが極めて多かった。日本語が話せる年配の台湾人にとって酒の上での「日本語」は、本省人にも若い政府系の台湾人にも分からないことを「日本語」で話し鬱憤をはらすことさえあった。この「日本語」がどのようにして彼等に教育されたのか疑問がわいてきた。最初はYMCAの派遣で、 二度目は東呉大学の社会教育センターで日本語を教えた。自身の日本語教育は植民地時代の日本語教育と同じことをしているのか、そうではないのか全く分からなかった。台湾に住んでいた頃、自分では当時、極々当たり前にされていた教授法をひっさげて日本語を教えていた。直接法である。帰国後、山口喜一郎の日本語教授法(1)を知り、それを見ていると自身のやってきたことは植民地教育時代の方法とあまり変わらないのではないかという疑問がわいてきた。
  時を越えて現代に、もし台湾において戦前と同じような方法で日本語を教えているとしたら、それは現在も植民地教育的な日本語教育を台湾で行っているのではと、思うようになった。そこで戦前はどのように日本語教育がなされていたのか知りたくなり、台湾における日本語教育について調べようと思った。

   ◇調査を始めて

  植民地教育ということについては「皇民化教育」「日本語の押しつけ」という言葉を盛んに聞いた。どのような方法で教えたかについてはこの時まで考えもしなかった。歴史の分野では植民地について語られ、文献も多い。だから植民地教育についての概略書くらいはあるだろうと思っていた。ところ一般に目にする所には全くなかった。 
  教育史はどうかというと、現在の国内に限られ、戦前も「内地」に限られていた。「国語教育史」はどうかというとこれも「内地」に限られていた。そこで自分で調べる決心をし、一文にまとめることにした。それがYMCAに提出した帰国報告書「報告書No2」であった。
  その後、86年の4月に台湾の東呉大学の蔡茂豐氏の『中国人に対する日本語教育の史的研究−台湾を中心に−』(1977)を入手。台湾に於ける日本語教育の教授法の歴史や内容の歴史を研究した書であり台湾の日本語教育史を知る上での貴重な一冊となった。
  その著書を基に未発見であった『日本語教授書』その他数点の所在を確認すべく調査の協力をし、国語伝習所規則で使用するとされた全種類の図書の所在を確認した。(資料@)これが縁となって台北で日本語を教えることとなった。
  また1986年の秋、日本語教育学会からの学会誌『日本語教育60号』は「日本語教育史」の特集を組んだ。植民地での日本語教育について本格的に取り組んだ特集であった。
  1987年、日本語教育能力検定試験が正式に始まり、試験の範囲には日本語教育史も入った(2)。また、民間の日本語教師養成講座が一気に増え、大学の課程にも日本語教育関連の学科が目に付くようになった。日本語教育史という項目があっても、その方面の教科書的な本がなかった。日本語教育史の学習教材として系統だったものがなく、この試験を機に日本語教育史も一般に分かるものが求められてきた3。それまでは日本語教育史 といっても、一般に目に付くものではなく、日本語教師をしていても極々専門的に限られたところでしか目にすることができなかった(4)
  1990年代に入って、日本語教育の歴史に関する物が出てくるようになった。「台湾教育」に関連しては伊沢修二の動向と共に日本語教育が語られていた。日本語教育については伊沢修二の時代から公学校の設置、臺灣教育令と直線的に記述されていた。(図@)
  日本語教育からの日本語教育史の捉え方には、教授法中心にいかに教えたかを論じることが多い。そのため時代背景の史実については、他文献の引用に任せていることが多い。しかもその引用文献自体の実証がされていなものもあった(5)
  私が台湾に在住していた頃からすでに「台湾総督府文書」の目録づくりが始められていたようで、一般にも目録が刊行されるようになり、それによって様々な手がかりがつかめるようにもなってきた。。
  また、近年では聞き取り調査を研究にしているのもあり、植民地教育の実態に少しずつではあるが、明らかにされようとしてきている。

       ◇この論文で

  植民地教育というと「皇民化教育」「日本語の強制」という捉え方がされてきた。しかしそれがどのようになされてきたかについてはっきりされてこなかった。台湾、韓国など日本がかつて植民地にしていたところでの日本語の教育はいかにしてなされたのであろうか。その始めとなった台湾を見ていきたい。
  台湾では明治28年6月に伊沢修二が乗り込み芝山巖学堂、国語伝習所、国語学校などを設立していった。しかしわずか2年で非職になった。2年で台湾を去ったとはいえ、伊沢修二が台湾の教育に残した功績は計り知れないものがあったのも事実である。
  彼が非職になった後、後藤新平によって学制の改革が行われた。その改革は伊沢が当初作り上げようとした延長線上にあったかというと、後藤によって断絶させられたのではと思うところ多々ある。  この論文では、伊沢修二が台湾で作った国語伝習所と国語学校について、その性格が違うが故に作られたことに着目し、特に国語伝習所の成立とその背景を検討し、植民地教育の創成期の数年間を考察した。
   
     第1章 台湾における植民地教育の区分

              第1節 他文献の時代区分    

  台湾における植民地教育期(1895年6月から1945年8月)を扱った文献のいくつかは性格区分をおこなっている。

  『台湾教育史』の著者吉野秀公は
     (一)台湾教育の発端(明治28年〜明治30年)
     (二)台湾教育基礎時代(其一)(明治31年〜明治39年)
     (三)台湾教育基礎時代(其二)(明治40年〜大正7年)
     (四)台湾人教育確立時代(大正8年〜大正10年
     (五)台湾教育確立時代(大正11年以降)
     としている。
   臺灣ヘ育會編纂の『臺灣ヘ育沿革史』では
     (一)第一期 台湾教育令発布前(明治28年〜大正8年3月)
     (二)第二期 台湾教育令発布後(大正8年4月〜現在)
     としている。
  台湾の東呉大学の蔡茂豐氏は『中国人に対する日本語教育の史的研究−台湾を中心に−』の中で
     (一)日本語教育の模索時代(明治28年〜大正8年)
     (二)日本語教育の確立時代(大正8年〜大正11年) 
     (三)内台人共学時代(大正11年〜昭和18年)
     (四)日本語教育の義務教育時代(昭和18年から昭和20年)
     としている。
  鍾清漢氏の『日本植民地下における台湾教育史』では
   第一期 1895年(明治28年)6月から1919年(大正8年)
   第二期 1919年4月から1941年(昭和16年)から1945年
     としている。
  近藤純子氏は「戦前台湾における日本語教育」の中で
    一期は明治28年から大正7年まで、
    二期は大正8年から昭和5年まで、
    三期は昭和6年から昭和20年まで、
     としている。
  これらの区分の特徴は大正8年(1919年)の台湾教育令の発布を区分の中心に据えていることである。大正8年までの時期を植民地教育の基礎の時代という考え方では共通しているといっていよいだろう。ここで幾つかの疑問がある。それはこの区分をどうやって決めたのだろうかという疑問である。単純に考えると、初期の頃はいつでも基礎の時代であるのかということである。何をもって区切りがつくのかということである。
   
   
   第2節 この論文での区分
   
  「基礎」はその上に何をたてるかで様々に決まってくる。そう考えると台湾における日本語教育の基礎とはどうであったのか考え直していく必要があるのではと考えた。
  台湾における植民地教育の創成期を明治28年5月〜明治34年3月までとし、さらに三つの区分で考えたい。
  明治34年3月は台湾教育会が発足し、台湾での教育について教師自身が研究していく場として成立した。台湾における植民地教育の地歩がこの日から固められた日である。台湾教育会が発足するためにはそれまでに発足に至る状況があり、その状況はどのようになっていたのか、特に伊沢がかかわっていたっていた時期を中心にこの論文で考察を試みた。
     @明治28年(1895年)5月〜明治30年(1897 年)6月8日
     A明治30年(1897年)7月〜明治31年(1898 年)7月
     B明治31年(1898年)7月〜明治34年(1901 年)2月
     C明治34年3月以降
     これらは学務行政の面での区分である。
   @伊沢修二が学務部長であった時期
   A伊沢修二が非職となり後藤新平が民政長官に就任し改革が断行されるまでの過渡期。
   BC後藤新平が民政長官となり「無方針政策」なるもの以後。
     これを実際の現場サイドで見ると
   @では直轄国語傳習所・国語学校が設置されるが、すぐ官制台湾国語伝習所・国語学校に制     度変更される。
   Aでは伊沢の構想が中断され、非職前に決まっていたことだけが実施。
   Bでは七月に台湾公学校令が施行され、国語伝習所が廃止、公学校が始動。その中で「國語     教授研究会」が発足、これが台湾教育会の前身となる。
   Cの明治34年3月に台湾教育会が発足し、雑誌『臺灣ヘ育會雑誌』が刊行され、国語教育の      研究会は台湾での教育全般に広げられていく。
  伊沢中心に見ていくと
   @の期間は伊沢修二が学務部長として強力に彼の構想中心に始動していた時期である。
   Aの時期には伊沢は非職を命じられ、その後、顧問にはなるが実質的には台湾から身を引くこ     とになる。ここに台湾植民地教育の創成期の中断があると考える。 
   Bになって後藤新平の学制改革が断行され伊沢の台湾教育は断絶させられる。
   @を基礎とした学校づくりと、Bを基礎とした学校づくりは性格も方向も違う。Aでは@に基づい     た現場での問題が噴出していた時期である。
   Cに至ってBを基礎とした学校づくりに対処するために@との断絶が現場で行われた時期であ     る。国語伝習所が断絶させられたのである。
  この論文では特に@の時期に伊沢が作り上げた「国語伝習所」に着目し、これがどのように扱われていったか考察したい。
   

     第2章 学務部創設の動き

   第1節 台湾占領まで
   
    第1項 清国内の占領地行政

  檜山幸夫氏は『日清戦争−秘蔵写真が明かす真実−』の中で割地準備と占領地行政の中で日清戦争の中で清国への占領地拡大とともに占領地での占領地行政について記述されている(6)
  それによると明治27年11月1日に安東に民政庁(後に民政本庁)を設置し、小村寿太郎を長官に任命。4日には鳳凰城、7日、金州に行政部、14日には岫厳、海城に善後公署、12月3日には旅順口に行政庁、3月20日には蓋平に民政署、27日には復州、28日には貔子窩に民政署、4月10日には大狐山に民政事務所、14日には営口に理事官庁を設置し民政による統治を模索していた。
  この時、政府は明治28年3月30日付で「占領地総督部条例 (7)」を公布施行している。
  民生部はあるもののすべて軍人によって構成されるようになっている。
占領地での統治体制は軍政であった。
   
    第2項 日本の動き

  1895年、日清講和条約の締結交渉の中で遼東半島と臺灣割譲を盛り込んでいき、4月17日、日本側の意向に添った講和となった。しかし同月23日、独仏露からの三国干渉を受け、遼東半島は手放すことになったが臺灣と二億テールの賠償金は日本は手にした。
 臺灣を領有することになった日本は、5月10日、臺灣総督に時の海軍中将樺山資紀を、民政長官に水野遵を任命した。さらに臺灣授受のために出発する5月24日までに文官官吏が選出された。 
 5月24日、臺灣総督の樺山資紀、民政長官となるべき水野遵ら他武官は「横浜丸」に上船し、一路沖縄の中城湾に向かった。ここで大連、旅順から台湾に向かっていた近衛師団、常備艦隊と合流し台湾授受のため台湾沖へ向かった。

   第3項 台湾での動き

 台湾では日清講和条約によって清国から割譲されることになったが、清国と日本の間で台湾割譲についての交渉が行われていたにも関わらず、台湾には清朝より割譲についての最初の通報があったのは4月19日であった(8)。 それまでは洋行ルート(9)で割譲のことが伝わってきていたのみでそれまでは詳しいことが分からなかったようである。4月23日、三国干渉は台湾上層階級に割譲に干渉することについても期待させたが、結果は遼東半島の還付だけに終わり、台湾割譲はそのままであった。イギリスに期待をかけたが無視され「天に向かって叫ぶに答えなく、助けを求めるに人なし(10)」という絶望的状況に追い込まれ、台湾独立しか方法がなかったようだ。
 5月19日、フランスの巡洋艦が一隻、台湾を訪れたとき、フランスは台湾が独立し、自主権を持たねば台湾人民の保護ができぬ旨
伝えたという。こうして5月23日、台湾独立宣言を発し、25日を期して独立する事となった。そして日本軍を迎え撃つ体制を敷いた。
       


   第2節 伊沢修二の動き
   
    第1項 概 略

  明治28年6月7日、伊沢修二は「京都丸」に上船した。このとき伊沢と一緒に上船したのは、後に学務部員となる国家教育社で活動していた安積五郎ほか井原順之介、楫取道明、山田耕造、関口長太郎、三宅恒徳らもいた。この「京都丸」は台湾占領後に民政を施行するための文官が乗り込み、台湾派遣軍属の渡台船第三回目であった。一行は6月12日基隆に到着11。14日、先に到着していた横浜丸の文武官と一緒に基隆を出発。汽車で台北に向かった。伊沢は汽車に乗らず、轎に乗って台北へ向かったために、途中、水辺脚で一泊、翌15日台北着。17日始政式を行う。伊沢修二はこの時、英国領事の祝辞を通訳している12。
  6月18日、李春生の家13に学務部の看板を掲げ事務開始。といっても伊沢にとっての事務開始は、まず学校を開設する事にあったため、城内において開設するも、まずどこに開設するか、適当な場所を探すことになった。当時の台北は城内のほか大稲・、・・、大龍・などからなっていた。(図A)
  6月26日、八芝林(現士林)に学務部を移し、八芝蘭の進士の子弟らを集めて7月16日、授業開始となった14。この日が台湾における日本語教育の始めとされ、さらに近代植民地教育の最初の日ともなった。その後8月に正式募集、9月には21名に達した。10月19日に第1期生の7名の修了式を行い、同時に台湾語講師の資格を与えた。10月25日には樺山総督と一緒に台南に向かい、バークレーと会う。その後「西京丸」にて帰京。東京にて最初の日本語の教科書ともいわれる『日本語教授書』を印刷し台湾に送る。また明治29年1月1日の学務部員遭難<芝山巖事件>について悲報を聞く。3月には樺山の上京に伴って上京した李春生と、台湾からの最初の留学生となった李春生の子弟ら7人と再度渡台するまで、めまぐるしく行動している15。
  さらに伊沢の上京目的であった第1回日本語伝習講習生を募集し、明治29年4月11日、日本語伝習講習生とともに台北に戻る。この伝習講習生の台湾語の講師に伊沢らが台湾で最初に日本語を教えた生徒たちがなっている。
  明治29年4月に直轄国語伝習所官制、直轄国語学校官制が施行され、さらに5月には国語学校と国語伝習所が定めら、それに基づいて講習生が配置される。7月に講習生は卒業。その後各地に散っていく。配置されても直ちに授業開始というわけにはいかず、授業開始までは各地紆余曲折であった。こうして国語伝習所の設置と教員の配置によって「国語」を広めていく体制が整っていく。
  一方で伊沢の構想でもある国語学校の設立も進み、芝山巖学堂は国語学校の付属として位置づけられ教員養成も第1回、第2回とここでなされている。
  伊沢の在任中、国語学校本校及び付属学校3校、国語伝習所16ヶ所(分教場18ヶ所)に拡大。さらに伊沢は公学模範校と公学の設置を考えていた。公学模範校は国語学校の付属をあて国語伝習所の乙科を公学に改める。これを各地に公学として必要に応じて広めようとしていた。しかしながら教育費の大幅削減にて伊沢の構想は挫折を余儀なくされ、民政局長水野遵と衝突し、当時の総督であった乃木總督に具申書を提出、その折り進退も委ねている。明治30年6月8日16、非職が決まった。
  その後学務部は児玉喜八が事務取扱のトップとなり、水野遵民政局長の後、曽根静夫が一時局長になるが、明治31年3月2日、後藤新平が民政長官になり、学務部長の意向が強く働く学務部は学務課となり、民政局の組織の中に飲み込まれていく。学務は民政長官の意向が強く働くこととなる。
  後藤新平が着任すると学制は大幅に変えられ、伊沢が起草させた公学校令は廃案となり新たな学制が模索されたが、伊沢の公学校令に大幅な修正が加えられて日程に登り、公布となった。
   
    第2項 伊沢修二の占領地に対する考え

   明治27年11月23日、国家教育社第4回大集会が行われた。この集会の席上、伊沢修二は社長として開会の辞を述べている。この時はまだ日清戦争の最中であり、日本軍が清国領内に入り各地を占領し始めている時であった。演説は戦争に対して国家教育社の立場や戦時誓約についての運動についての報告であった。そして今後の考えとして

  「今日の日清間の戦争と云うものは、日本が世界に向って一個の一大強國たるの位置を占むる初段に過ぎない。故にこれから何回の戦争があるか知れぬと云う事は今日より期せねばならぬ、さればこれより益々尚武主義のヘ育を起こさねばならぬ、益々尚武のヘ育を施さねばならぬと思う。また一方には凡そ戦争と云うものは一国の財力の上に大なる変動を起こす所のものでござりますから、此の戦争があると共に、國を富ます所の実業的ヘ育を益々励まさねばならぬと思う。(中略)向来益々御同様に尚武と実業と云ふ二方のきょういくに重きを置いて汲々と勤めて行き、一日も早く実効を奏したいものと考えます。(後略)17」

  この演説からは占領地でのヘ育についての方針は全く聞かれず、むしろ富国強兵の教育方針として尚武と実業が国内の教育に必要という認識を示している。
  『国家ヘ育33号』では「明治二八年ノヘ育社会」として伊沢修二の口述筆記記事が載せられている。この中で伊沢は特に新領地の行政についての意見を述べている。その新領地というのは「盛京省ノ全部ヲ得ル者ト假定センニ18」という前提での意見である。

  「戰後ニ於テ之ニ配置スヘキ行政官ニハ最モ其人ヲ撰擇セサルヘカラス此任ニ當ルヘキ者ハ内地ニ於テ多少行政上ノ經驗アリ民政ノ要務テラ理解シタル者タルヘキハ言ヲ待タス然レトモ單ニ行政上ノ經驗アルノミニテハ尚甚不十分ナリ」

  伊沢はこの演説の中で盛京省に配置する官吏は国内の官吏では不十分とし、そういう官吏を供給する高等教育の必要性を説いている。司法官、技師についても同様である。教育については

 「兵ヲ置テ反乱ヲ鎮圧スルハ是外形上ヨリ民心ヲ威服セシムル者ニテ新領土ノ秩序ヲ維持スルニハ実ニ必要ノコトナレトモ唯威服セシムルノミニテ之ヲ懐カシムル道ヲ謀ラサレハ不可ナリ故ニ威力ヲ以テ其外形ヲ征服スルト同時二別ニ其精神ヲ征服シ旧国ノ夢ヲ去テ新国民ノ精神ヲ発揮セサルベカラス即チ之ヲ日本化セシメサルヘカラス彼等ノ思想界ヲ改造シテ日本人ノ思想ト同化セシメ全ク同一ノ国民トナラサシメサルヘカラス而シテ此ノ如ク彼等ノ精神ヲ征服スルハ即チ普通ヘ育ノ任務ナリ故ニ果シテ新領土ヲ得ル事アラハ普通ヘ育ヲ施スノ必用ハ同時二我国ノ政治家ニヨリテ感悟セラルヘシ而シテ精神ノ征服ハ威力ノ征圧ニ比スレハ其事一層複雑ナルヲ以テ其施設ノ方案ニ至リテハ実ニ深キ思想ヲ要セサルハカラス決シテ尋常一様ノヘ育政務官ノ堪ヘ得ヘキ所ニアラス(中略)19」

と述べている。ここでも伊沢にとっての占領、新領土となる地は台湾ではなく盛京省を念頭に置いての発言であることが見て取れる。
 伊沢修二は精神の征服は普通教育でしなければならぬという。伊沢はこのほかに占領地での民政を行うには人材が必要で、現時点では不足しているから内地にて高等教育機関を整備し其の人材を養成すべく制度をも整備すべき点をも指摘している。これらは27年の国家教育社第4回大集会での伊沢の尚武と実業の教育推進の考え方の延長にあると見てよいだろう。ただ伊沢の発言の中ですでに占領地にて普通教育を施す事が必要という考えがでている。しかもその教育の任に当たるのは教育家としての任務でもあるとしている。
 次に2月11日に国家教育社第5回定会において伊沢修二は次のような演説を行っている。

 「大会を開きし時は、恰も旅順占領の報道到達せし日に当り、今日の定会は、又方さに威海衞陥落して、敵艦全滅の報道到達すべき日に当たれり。(中略)惟ふに、我が国家ヘ育社の主義は、最早全国に普及して、亦余す所なしと云うべし。今日は、当に一歩を進めて、海外に、その主義を拡張すべき時に非ずや。彼れ暴清の秕政伸したに、多年呻呻吟せし無辜の民は、箪食壺漿して至る処に皇師を迎へ、皇化に浴せんことを待つこと久。余輩、今紀元の佳節に会し、本社第5回の定会に当たり、我が允文允武なる天皇陛下の聖徳を、海外に光被し、異域の民を徳化するの端緒を開くも、亦妙なりと云うべし。余輩は、之を以て本社員の、目下須らく力を致すべき所なりと信ずるを以て、謹でヘ育勅語の漢訳文を、清音にて朗読し、以て冥冥の中に、彼れ民族を徳化するの使徒たらんことを期す。(直後漢訳朗読)余輩は、将来、日本語を以て、亜細亜大陸の普通語たらしめんことを期するものなれども、今此ヘ育勅語をかんやくし、以て彼も土に広布せんとするものは、所謂一視同仁、有一徳の聖旨を、一日も、速かに彼等に拝戴さしめんとの微意なり。諸君請ふ之を諒せよ。20」

  この演説の中で、教育勅語を占領地に広めて行こうとすること、日本語を亜細亜の普通語にしたいという希望など、伊沢の目が国内から国外へ、明らかに向かっていることが伺える。
 近衛篤麿日記によると明治二十八年三月五日、伊沢修二が訪ねてきて面会21。その折り学制研究会の件、教育大会の件のほか、新領地に出張する件などについて話し合われている。この出張が総督府の一員としての派遣なのか、当時活動していた国家教育社の社長として当地に乗り込むつもりでいたのか、真意のほどはわからない。3月の時点では占領地は遼東半島だけであったことから、伊沢の占領地への出張はこの時点では遼東半島のどこかを予定していたのではなかろうか。
 4月13日には国家教育社の在京委員会が開かれた。出席したのは伊沢修二、町田則文、加部巌夫、鳥居忱、逸見幸太郎、浅夷六郎、並木善道、安積五郎。新領地教育方針等の事項に関して研究とのこと22。
 この時点ではすでに新領地が遼東、台湾になる事について、講和条約の内容の情報はあったと思われる。『国家教育第37号』には新領地の面積人口として紹介文が載っている。

 「新領地の面積と人口を推測せしものあり其話を聞くに盛京省の南部はは平均一方里内に二千人の割合位にして其面積は二千五百六十六方里位なれは大陸に於ける全人口は五百十三万二千人くらいなるべし此概算に依れば今度の戦勝にて大陸に於て九州と殆んど面積人口を同ふする新領土を増加したるなり又台湾澎湖両島に於いては三千三百八十方里位の面積と三百万人位の人口あるべければ其面積より比すれば四国と山陽道とを合せたる程なりされば平和条約が批准せられたる後は総面積凡そ六千方里総人口凡そ八百万を増加せる訳にして現在我が国の領土の四分の一を増し人口の五分一を加へたるものにして現代帝国民の一大名誉と云ふべきなり23」

 この時点では台湾も清国の一部としての見方であったと思われる。
 三国干渉の件はまだない時期である。しかし4月23日には三国の干渉が始まり5月4日に一応の決着を見る。そして台湾を領有する方向で固まった。

    第3項 伊沢の「天機奉伺」
   
  伊沢修二の「天機奉伺」は、明治28年5月。5月の7日前後と思われる。
  伊沢が京都に行った理由がなんであるのか、本当に国家教育社を代表しての「天機奉伺」であったのか。社を代表していったのであるなら『国家教育』にその件が出ていてもおかしくない。
   国家教育社を代表して芳野世経氏が第1回の天機奉伺を行ったとされる24。その日は明治27年9月30日である25。この時の天機奉伺は戦勝を祝う事を伝えるものであった26。
  この時の「天機奉伺」は『国家教育』でも取り上げた。
  二度目とされる伊沢修二の時には何も掲載されていない。伊沢修二は国家教育社の社長である。その社の代表が「天機奉伺」するのであるから『国家教育』が記事として取り上げないという事はどういうことであろうか。
  その日伊沢修二は占領地での教育について意見を述べたところ台湾に行ってやってみないかと言われて行くことになったとのこと27。しかし其の最中に三国干渉の受け入れが決定され、遼東半島の放棄が決定される。台湾については領有の決定が確実となった。そんな中で京都の大本営に出向いていった伊沢修二は新領地となる地での教育に対する意見を述べようとしていた。
  五月八日、日清講和条約批准書交換がなされた日に伊沢修二は陸軍省の雇員に命じられ、ここに総督府の一員として学務に関与することになる。伊沢が誰よりも早く、しかも民政についてまだ具体的なものがない時期に、学務担当として赴任が決まったというのは、たまたま大本営に天機奉伺に行った折りの偶然だけからか。 清国占領地での民政は軍人が完全に掌握していた軍政であった。伊沢も初めは陸軍省の雇員である。伊藤博文が樺山に訓令を発するのは5月10日である。総督府条例草案が11日に出され、正式に出されるのは21日になってからである。伊沢も含めこの間、どのように人事が決定していくのか疑問である28。早く決まったというだけ期待感が大きいことのあらわれであろうか。
  5月21日、総督府の武官と文官もほぼ決まり総督府の組織が一応なりとも発表され、伊沢修二は総督府学務部長心得に任命される。        

 第3節  台湾出発前の学務部
    
  日清講和条約締結以後、台湾占領後の民政について触れている最初と思われるのは、樺山資紀が臺灣總督になった時、伊藤博文から受けた訓令29の中に見いだせる。

  この訓令の中で
「引渡手續ノ強制ニ出タルト協議二因ルトニ論ナク既ニ我版圖ニ歸シタル以上ハ専ラ人民ノ撫育ヲ圖リ全島ノ治安ヲ保持シテ各其堵ニ安セシムルヲ要ス然レトモ亦須ク軍令ノ下ニ諸般ノ政治ヲ施シ所在人民ヲシテ狎侮ノ心ヲ生セシムヘカラス恩威行能ク其事情ヲ詳悉シ以テ其行政組織ヲ実施スヘシ

今其要項ヲ左二列挙ス          総督府
  秘書官参事官之ニ属ス
   総督府中部門ヲ分ツコト左ノ如シ
    一  治民部 一切ノ行政ヲ施行シ教育技芸等ヲ掌ル
    二  財政部 租税関税及會計事務ヲ掌ル
                …                         」
  
  その他外務部、殖産部、軍事部、交通部、司法部、からなっている。
  これが5月11日に内定の「臺灣總督府條例草按」では第2条に民政長官がおかれ、第17条で官房、会計、外務部、殖産部、財務部、学務部、通信部、司法部の各部が置かれることが具体化された。そして第23条で「學務部ハヘ育ニ関スル事務ヲ掌ル」とされた30。これが21日の「臺灣總督府假條例」では19条になっている。
  辨理公使水野遵が民政長官に任命され、台湾総督府に係わる総ての準備を担当することになった31。学務部は実際に台湾占領前に民政組織の中に組み込まれたことになってはいたが具体化はされていない。
  5月21日の東京読売新聞には総督府の台湾派遣人名簿が発表されている。この名簿は5月22日、23日と続く。このうち後の学務部に関連する人物をあげてみると、21日には伊沢修二を筆頭に楫取道明、安積五郎、相良長綱、22日には三宅恒徳、23日には井原順之助、山田耕造の名がある。
  24日には民政局の部署別の名簿が掲載されている。伊沢修二は「丙の部部長」となっており、部員には相良長綱、松本重為、檜山鐵三郎、小川将登、松山國彦、森修、明智萬次、立花司馬、北村貞幹、小川増三郎、山田耕造、的場喜忠の名があった。部長が伊沢修二であることから学務関係の部といえよう。
  5月24日「横浜丸」、6月7日「京都丸」その後、数度の御用船で文官が台湾に渡っている。総督府の「横浜丸」が出発するまでには総督府の陣容も決まり、特に第3回となる「京都丸」には民政局の主立った文官がほとんど乗船していた。
   


第3章 伊沢の構想 
   
   第1節 伊沢の台湾に対する考え
   
    第1項 渡台前の伊沢
  伊沢修二は台湾に赴任する前後、台湾に対する考えが変化している。
  それは伊沢が台湾に行ったことがないままのイメージからの考えと、台湾に実際に足を踏み入れてからの違いというべきものであろう。
  明治28年5月10日の『読売新聞』には伊沢の発言と思われる記事が載っている。

  「臺灣に總督府を置き軍事並びに行政を実施するに至らバ直ちに日本語學校を設置する筈にて既に之れが計畫中なり同島をして我本州と言語を同う風俗一日も早く日本化せしむるには此の學校設置の計畫最も必要なりと同島行政官となるべき某氏は語れり」

   5月25日に付『廣島新聞』に掲載された伊沢修二の談、
  「固と臺灣の地たる支那本部に接近し居るを以て支那的ヘ育は古來より行われ敢えて無文字の蠻族にあらずと雖も今日のヘ育より見るときは蠢愚たる一同物の境界に沈み居るものなり皇天何の惠する所ありてか此憐むべき蠻民を驅りて我大帝國の治下に投じたる彼等が高等なる人生の幸福を享受すること能はずして動物界に近き生計を爲しつつあるものはヘ育なきの人類として正に受くべき所の因業なり偉なる哉我聖天子の御稜威は八紘に光被し臺灣五百萬の蠻族も將に天日を拜するの時近きにあらんとするなり若夫れ聖化の庇蔭に立ち臺灣のヘ育を計らんとするは帝國臣民たるものの當然の義務にして開拓事業中益々其先登に居らん今ヘ育施行の上より臺灣を見るときは東部臺灣と西部臺灣とに分ちて觀察することを要す西部臺灣は多くは福建州よりの移住民にして如し其中に多少の土民あるにせよ福建の風習に感化せられ言語の如きも福州語即ち支那南邊語にして西部臺灣は殆ど福建州移住民の爲めに占有せられたるものゝ如し故に到る處 晤の聲を聞かざるにあらざるも千字文、文選、四書、五經の暗讀に過ぎざるを以て廿歳尚ほ一の書簡認め得るものなし彼等のヘ育は唯一の儀式即ち装飾に止まりて實用に遠ざかること甚し豈天授の才能を啓發し以て人性の品位をして高尚ならしむることを得んや東部臺灣即生蕃地方はヘ化上に於ては却て西部に優るものあるなりかれらは先に一たび和蘭の治下に立ちしことありしが彼等の鈍き腦裡にも夙に文明風のヘ育を受くることを得て現に彼等の日用文字は羅馬字を用ゆるものあるなり是れ全く耶蘇新ヘ派の宣ヘ師の椏ゥに出でたるものにして今日も猶彼等のヘ育者は依然宣ヘ師にてありつるなり是の故に臺灣のヘ育を扶植せんとするものは先づ第一に日本語を輸入し繁雑なる漢文學に代ふるに片假名を以てし成る丈早く言語の通ずることに力を盡し而して後漸次彼等の腦裡の開拓に取り懸るの外なしとす其他ヘ育施行の瑣事に至りては固より語るの必要なしと雖も臺灣をヘ育せんと欲するものは非常なる勇氣と堪忍とを要せざるべからず忠勇なる帝國の軍人は既に基本分を全うし以て國威を發揚したりき國家百年の大計を扶植せんとするヘ育者焉んぞ勵精事に・に從はずして可ならんや」

   伊沢の教育談はまだ見たことのない台湾の地を、誰からか聞いた情報によるのか、相当の偏見である。その偏見に基づいて教育構想を立てていることがうかがえる。

   明治28年6月16日『読売新聞』には

  「臺灣學務部長伊澤氏のヘ育意見
臺灣総督府の學務部長たる伊澤修二氏ハ此程要路の某貴顯の許へ臺灣人民のヘ育に關する意見を申送りたる由某大要ハ左の如子
  當地生蕃と稱去る東部地方にハ數百年前より和蘭人を始め其他の西洋人も入り込み貿易工業等に從事し居たるを以て多少ヘ育も發達し稍々文明の域に向って進歩しつつあるも熟蕃即ち北部地方ハ清國福建省より移民にして目に一丁字なきもの其大部分を占め頗る野蠻の民なり故に予ハ此の野蠻なる地方に向いてヘ育の普及を計り我王化に浴くせしむる希望なり尤も頑迷固陋の徒一片の勧誘若師ハ諭達に応ずるとも思はれざれば飽くまで武断的ヘ育を爲す決心なり云々」

  この記事は記事の日付から基隆に到着する前後ではないかと思われる。ここまでの記事からは、伊沢が台湾に対してはかなり固定観念があったことを広島新聞の記事と共にうかがえる。6月16日の記事では台湾民主国の黒旗軍との戦闘が繰り広げられていて、その戦闘状況を船上で得て、それを受けての発言になったと思われる。自身を奮い立たせている感さえある。
   
    第2項 渡台後の伊沢

  上陸後6月18日に学務部を開設し、台湾で活動を始めると様相が変わってくる。学務部を開設した頃、伊沢は国家ヘ育社に通信を送っている。内容から、学校を設置する場所を探している頃であろう。学務部をまだ芝山巖に移す前と思われる。

   「一 當地(臺北)の風景の美なることさすがにフォルモサ(美麗の女神の名)の名に背かず淡水河畔に在りて遠近の山々を眺望すれば恰も京都の風景に似て其規模の大なるは凡京都に十倍すべき歟と思われ候一日寓所を見付くるため十丁ばかり淡水河を下り鷄籠河に至りそれより二三十丁距てゝ古寺を尋ね歸途小舟に棹してはからず臺灣の新月を蓬窓より望み土人の舟歌を聞きパン一切をかぢりて愉快に歸邊り來れりその雅味(?)忘る可らず腰折一首よみ出でたれば左に
   臺灣は鬼のすみかと思ひしに
       みやび遊びの船もありけり
     一 當地邊は稻は年に二回収穫あり此節は既に第一回の稻を刈り始めし所ありそれを直にすきかへして第二回の稻を植付くるなり目下一方に穗をたれたる稻あれば一方は苗代田に々と萠出たる早稻あり春秋の一度に來れる如き風景勸驚くべし耕作には牛馬を用ひずたゞ水牛を用ふるのみ此動物も中々の横着物にて暑熱の時には水中に入り午眠をなすその氣樂さ加減當地の人民にも似たり目下共和黨の兵士等は南行して一人もなし先ず平安の姿なり近衛兵は目下新竹邊に在り他の一隊も不日南進すべし戰爭の報道は一向分らず

  一 我輩の戰爭即ち人心制服の一事は將に着手せんとする場合にて土言會話編の編輯を始として漸漸師範學校及模範學校等の事にも及ぼすべき見込なり目下の大困難は彼我の言語不通にして恰も唖子の應對のごとき有様なるに在り官話を學びたる通譯官は土民に對しては殆ど何の用をも爲さず依て學務部に英語を能する舊支那人と外一名を雇入れ會話篇の編輯に着手せり日ならずして一般の利便を達すべき目的なり安積氏は一時救急の爲相良氏に從ひ臺南の極なる恒春支廳に赴任することゝなれり不日再び來りて學務部に入り共にヘ育に從事する筈なり一兩日前當地の秀才(進士及第者)數名小生寓所を訪ね來り將來のヘ育其他の問題に付面白き應答をなしたりこれ小生が本土學士に交はるの始めとす」 
  
上陸前後のものに比べるとかなり落ち着いてゆとりが生じていることが伺える。むしろのどかな風景を感じさせる所さえある。この通信では台湾に来て、初めて官話ではなく台湾語が現地で使われており、官話の通訳が役に立たないことが認識されている。通信の内容から、剣潭寺へ向かい、さらに士林を視察したときのことであろう。もう一つは芝山巖を紹介され、二人の通訳と二人の台湾人を通して教授用図書の編纂に取りかかった頃と思われる。
  第2回目の通信は7月の16日を過ぎて幾日かたった頃と思われる。

  「一當地は臺北より一里半程隔りたる八芝林と申處に有之候芝山岩と云へる舊寺に寄寓致し日々新領地人民の子弟を集め日本語をヘ授し又其近邊の學者進士などと交際し傍新領地用の會話篇を編輯し將來日本ヘ育を此地に布くの豫備致し居り候(中略)當地方にて有力の學士I進士等は小生を學政大人と稱し其子弟を日々寓所へ送り我がヘ授を受けさせ居り候(中略)此寺は有名な勝地にして山の山腹に在り二階建にして景色の美なると空氣のC凉なるは内地にも無比と存候此一兩日は階上より眺望すれば彼賊徒の巣窟たる三角湧32、二甲九33、暗抗等の諸村落皇軍に燒撃せらるゝの現況は一目下の在りに又時々殷々たる砲聲相聞え中々愉快に相感じ候此中に在りても授業は一日も不休生徒等も續々慕ひ來候は随分面白き業と存候」
  二甲九の激戦は7月13日34、三角湧付近は7月21日から23日にかけて激戦35。この通信は前後がはっきりしないが、7月16日の授業開始後にかかれたものと思われる。
  6月19日に南進を開始した日本軍は臺北の中心から20キロも進まぬうちに激しい抵抗を受け、抗日勢力と激戦を繰り返している。大きな街は押さえはしても、そこに至る庄街では抗日勢力が抵抗を続けている。そんな最中の通信である。
   
   
   第2節 伊沢の構想
   
    第1項 学務部の芝山巖設置の経緯

  明治28年6月18日、伊沢は李春生の家に学務部の看板を掲げたといわれる。伊沢は18日から22日の間に台湾教育に関する最初の構想となる意見書「目下急要のヘ育關係事項・永遠のヘ育事業」を作成。樺山総督に提出。一方で部員を任命し、台湾語と英語で話が出きる二人を捜し出した。たぶんこれも李春生のはからいではないかと思われる。そうして学堂と生徒集めに動き出すことになる。
   ・連徳の正式採用が22日申請、26日任命、芝山巖移転が26日であるとするなら、士林への視察は23日か24日頃となる。
  伊沢は、士林街の子弟を募り剣潭寺に学堂を開いてはどうかという李春生の勧めもあって士林を視察する。国家教育社への最初の通信はこの視察の日のことと、芝山巖に移転する前に地元の進士と話し合ったことについて送られた。
  伊沢は剣潭寺ではなく、その寺より更に奥にある小高い丘にある惠濟宮に案内されてそこに学堂を設置することになった。
  実証はできないが潘光楷の回想によれば

  「先生が芝山巖に最初に来られた時のことを覚えている。私の祖父は擧人として名もあった人であるから、先生は學堂創設の土地を探るため剣潭寺にこられ、その途次私の家を訪問された。(中略)祖父は先生を廟へ案内し、廟の借り上げにも盡力し、又子弟を登校させることも約束した36。」

  伊沢は潘清成と陳登元の尽力で芝山巖を借りることになった37。
  『臺灣ヘ育沿革史』によれば7月16日に先立つ7月5日に柯秋潔、朱俊英の二人を日本語講習候補生にし、総督府官房へ通牒。それに対し早速照会が来たという。それでも授業を開始したことが記載されている。ただしこの時点では芝山巖学堂がまだ開設の許可を受けていない事が明瞭だと記されている38。もしこの経緯がほんとうであるなら、7月16日の芝山巖学堂の授業開始は總督府の許可をもって始まったことになる。
  台湾教育について書かれた文献や日本語教育史の方面の研究ではそのことについては触れていない。7月16日に授業が開始された事から始まる。つまり伊沢修二の事後報告をもって既成事実となったような印象になる。
  学堂を確保し、生徒も確保でき、いよいよ台湾教育の始動となった。こうして7月16日授業開始の運びとなり、6人の生徒が日本語を学び始めた。

   
    第2項 学務部の陣容

  6月18日、学務部の看板を掲げた伊沢は当日、井原順之助、三宅恒徳、関口長太郎、楫取道明、安積五郎が最初の学務部員になったようである。6月21日、正式任命になった。しかし24日には安積五郎が恒春、25日には関口長太郎が鳳山支庁に任命されたが、南部はまだ平定されていない為、関口は基隆で待機後再び學務部に戻っている。
  6月26日には22日に申請していた・連徳・林瑞庭が任命され、7月11日には井原が学務部に復帰、15日には中島長吉が任命された。しかし29日には三宅が内務部へ転出。8月に安積五郎、桂金太郎、平井数馬、山田耕造らが入ってくるまでは、転入出の多い、めまぐるしく変わる職場であった。これは総督府自体の立ち上げ期で他の部署も同じ様であり人材不足からくる人員確保の争奪があったのではと考えてしまう。
  混乱の中で芝山巖學堂は学務部とはいえ、先ずは語学教育機関として出発した。
  9月20日には受講生21名となった。
  9月20日現在では平井数馬は舎監をしていたようだ。そのほか山田耕造、井原順之助、井上大策、・連徳がいた。6月18日から職務分担があっても、すべき仕事は、居るもの全員でこなしていた感がある。(図B)
   

    第3項 伊沢の学制構想

  伊沢は6月18日から22日の間に樺山総督への意見書。7月14日付で「臺北縣立日本語學校」創設に関する稟請に関する意見書を民政局に提出。7月20日に「學務部施設事業意見書」を民政局長宛に提出。8月29日に『日本語教授書』印刷許可39を願い出ている。
  6月18日の文書とその後の樺山総督への意見書から構想について見ていきたい。
  土語講習所設置に関する上申書中に、

  「言語不通の為文武官吏の不便を感ずる事以外に・く、百數十名の陸軍通譯ありと雖も、臺北地方の土民を尋問するに、譯を重ねて而して尚不通の語を聞くこと間々有之、況や憲兵警察官の如き、少數相離れて職務に從事する者にありては、一々通譯を附する能はず、假令之を附するも、官話を談ずる土民を其の中間に使用する不便あり、從つて危険も亦、其の間に生ぜざるを期し難し。」

  当時の状況から警察統治の手法がとられたとしてもおかしくはない。百数十人の通訳が現地で役に立たない現実に、日本人に台湾語を学ばせて実務に役だたせなければという思いと、台湾人に日本語を理解させ意志疎通をはかっていかなければ、危険であるという兆しを感じ取っている。
  ここからは、牧歌的な臺灣の風景は浮かんでこない。むしろ言葉が通じ合わないことは危険であることの危機感がる。
  その後、すぐ樺山総督に出された意見書では学制の形を見えるように提案している。

  「新領地臺灣ヘ育ノ方針ハ、大體分テ二途トス。第一目ハ、目下急要ノヘ育關係事項
     第二永遠ノヘ育事業是レナリ。
   目下急要ノヘ育關係事項
  一、彼我思想交通ノ途ヲ開クベキ事
     (甲)新領地人民ヲシテ速ニ日本語ヲ習ハシムル方法ヲ設クベシ
     (乙)本土ヨリ移住セル者ヲシテ、日常須要ナル彼方言ヲ習ハシムル方法ヲ設クベシ右
        ニ項ノ目的を達スルタメ
     (一)近易適切ナル會話書ヲ編輯スルヲ要ス。之ニ要スル人員ハ、彼方言ニ通ズル者、
         支那南邊語ニ通ズル者、英佛又ハ獨語ニ通ズル者、和漢文學ニ通ズル者トス。
     (二)日本語及彼方言傳習ノ途ヲ開クヲ要ス。之ニ關スル設備ハ、官衙等不用ニ屬スル
        モノヲ以テ傳習所ニ充ツベシ、通譯官ヲ以テ其ヘ員ニ充ツベシ、日本語傳習生ハ
        主トシテ新領地人民中ノ官吏志願者又ハ中等以上ノ地位アル者ノ子弟、彼方言傳
        習生ハ、主トシテ總督府ノ所屬員又ハ總督府ノ許可ヲ受ケタル者、傳習所外ニ於
          テモ日本語傳習ノ途ヲ開クベシ。
  二、文ヘヲ尊ブノ主意ヲ一般人民ニシラシムベキ事
     (甲)新領地ノ秩序稍ヤ立ツヲ待テ文ヘヲ尊ブ主意ヲ告諭ヲ發スベシ
     (乙)文廟等ヲ~聖ニ保チ且之ヲ尊崇スルコトニ注意スベシ
     (丙)支那朝ニテ取用セル科擧考試ノ法ヲ破壊セズ、郤テ之ヲ利用スベシ。例ヘバ新領
        地人民下等官吏ニ採用スルニモ、試驗科目中ニ日本語ノ端緒ヲ加ウルノ類ナリ。
  三、宗教トヘ育トノ關係ニ重キヲ置クベキ事
     (甲)耶蘇ヘノ宣ヘ師等ヲ待遇スルノ方法ヲ誤ラザルヲ要ス
     (乙)本土ヨリ派出セル各宗ノ布ヘ師ヲシテ、適當ノ範圍ニ於テ布ヘセシムルヲ要ス
        右二項ノ目的ヲ達スルタメ、宣ヘ師トノ交際ニ注意シ、且時々ヘ會ヘ院等ヲ巡問ス
        ベシ。之ニ要スル人員ハ、英語ニ通ズル者、佛語ニ通ズル者~佛二ヘニ關スル知
        識アルモノトス
  四、人情及風俗ヲ視察スベキコト
   ヘ育ハ人心ヲ根底ヨリ醇化スベキモノナレバ各種ノ會ニ渉リ深ク人情風俗ヲ察シ、之ニ適應
   スベキヘ育法ヲ設クルヲ要ス。故ニ當初ニ在テハ、當局者特二此般ノ視察ニ注意セザルベ
   カラズ。

     永遠のヘ育事業
  一、臺灣總督府所在地ニ師範學校ヲ設ケ、之ニ模範小學校ヲ附属セシムベキコト。
        之二關スル設備ハ
     (甲)師範學校ノ分、校舎校地ハ官衙等ノ不用ニ屬セルモノヲ以テ之ニ充ツ。學校長ハ
        本土ニ於テヘ育上ノ經驗アルヘ育家ヲ以テ之二任ス。ヘ員ハ日本語學ニ通ズル
        者、高等師範學校又ハ東京師範學校ヲ卒業セシモノ、其他適當ノ資格アルモノ
        生徒ハ内地人ニシテ尋常師範學校ヲ卒業セシ以上ノ者、新領地人民ニシテ從前縣
        試ヲ經タル以上ノ者。
     (乙)模範小學校ノ分、校舎校地ハ前ニ同ジ、ヘ員ハ師範學校ノ上級生又ハ其卒業生ヲ
        以テ之ニ充ツ。但最初ハ極テ速成ノ者ヲ用フ。生徒ハ最初ハ中等以上ノ人民ノ子弟
        ヲ入レ、漸次下級ノ人民ニ及ボス。
  二、師範學校用及小學校用ノヘ科書ヲ編輯スベキ事。編輯ヲ要スル圖書ハ日本語學書
        、讀本、修身、地理及・史、之ニ要スル人員ハ、師範學校ヘ員、編輯事務ノ者

  三、各縣所在地二漸次師範學校支校ヲ置キ附属セシム。之二關スル設備ハ、
     (甲)師範學校ノ分ハ校舎校地ハ前ニ同ジ。
        ヘ員ハ本部師範學校卒業生、其他適當ノ資格アル者
     (乙)模範小學校ノ分ハ校舎校地ヘ員生徒皆前ニ同ジ
  四、總督府所在地又ハ各縣設置ノ模範小學校整備スル二至レバ漸次各地ニ小學校ヲ
        設置スベシ。本文小學校設備ノ方法ハ大體前ニ記スルガ如シ。尤其校舎校地ニ就
        テハ、現用ト否トヲ問ハズ、以テ官衙及官地ノ不用ニ歸スルモノアル毎ニ努メテ之
        ヲ保存シ置キ、將來之ニ充用スルノ注意ヲ怠ラザルベシ。
  五、師範學校ノ學科整備スルトキハ、之ニ併シテ農業、工業、等ノ實業科ヲ設クルヲ要
        ス。是レ臺灣ハ將來殖産興業ノ要地トナルベキ所ナレバ、其ヘ育方針モ實業ヲ主ト
        スベキヲ以テナリ。
     右ハ當初數年間ニ施設スベキヘ育事業ノ概要ヲ示スニ過ギズ。進デ學制ヲ布キ、學區
     ヲ設ケ學齡就學ノ法ヲ行フガ如キ、中等以上ノ學校及各種專門ノ學校ヲ興スガ如キハ、
     尚幾年ノ後ヲ期セザルベカラズニヨリ、今此ニ之ヲ述ベズ要スルニヘ育ノ事業タル素ト精
     ~上ニ屬スルモノナレバ、其法規明文ノ燦然光輝ヲ放タンヨリ、寧ロ不言不文ノ間ニ其實
     功ヲ收メンコトヲ望ムモノナリ」

  目下の急要という意見は台湾人には日本語、日本人は台湾語を学べるように教科書と学堂を開くことを提案。永遠の事業では師範学校を作ることと付属の小学校の設置を提案している。ソフト面だけではなくハード面にも提案が及び伊沢の文部官僚時代の経験が如何なく発揮されている。
  この方針に基づいて学制整備を始動させた。
  学堂設置と教科書編纂ということを同時に始めたといえるだろう。
  日置かずして「學務部施設事業意見書」を作成して民政局長に提出。この中で先の意見書をより具体化し、募集要項が出来上がっている。
  この意見書では「一ヘ育に關する事」として師範学校中学校の予備として日本語学校を設立し、将来教員たるべき者、官吏に採用すべき本島生徒に教授すべしとしている。
  そのほか師範学校と模範小学校を設け、漸次一般の小学校を設置するための基礎と位置づけている。さらに中学校及び女学校も漸次設立すべしとし、本島各地の學士進士を集めて彼等を優遇する方法を設けて、将来官員に採用すべき人物の資格検定に関する科目を定めるよう述べている。
  次に図書編輯として新領地用の会話篇を編集し、本島人に日本語、内地人に土語を伝えて彼我の思想を交通すべしとしている。
  次に国語傳習所設立要項。目的には師範学校の生徒、中学校の生徒、官吏となる者を養成するために設立。15歳以上25歳以下としている。教授科目は倫道、国語、数学
  期間は一年、毎日5時間以上毎週28時間、生徒一人につき三円五十銭を給費、寄宿制としている。
  次に教員講習所の設立要項。これは(一)各地の小学校長、もしくは教員(二)国語伝習所の所長もしくは教員の養成を目的。
  内地において小学校の教員資格を有していること、五年以上本島の教育に従事することが求められている。講習の学科として「土人教育の方案」「本島普通の言語及び文章」「国語伝習法案」の三種。
  そして模範小学校設立要項となっている。
  生徒は男女問わず良民の子弟にして中等以上の生活を営み満六歳以上十四年以下となっている。
  樺山総督への意見書は大まかであるのに対し、民政局に提出した意見書では要項化されてかなり具体的である。一貫していることは日本語を教える施設の設立、師範学校の設立、付属の模範小学校の設立を同時に行って、その後漸次小学校を設立という方針である。
   
    第4項 編輯事業

      4−1 編輯事業

  学務部の構想の中に編纂事業もあり、これは伊沢修二が渡台前から、渡台後に学務部員になる予定の関口長太郎らに調査方依頼をしている40。これらの成果があったかどうかは分からないが、8月の末には『日本語教授書』が脱稿。この書は教科書として、臺北で印刷予定していたが、遅れに遅れ、結局東京での印刷となった。
  伊沢は臺灣で日本語を教える時の教科書として、なぜ自身が文部省に関わっていたときの国定教科書にしなかった。これは伊沢が渡台前にすでに語学教材用の書を構想していて、部員になるだろう人員に、そのために会話篇作成のための調査を依頼したのではなかろうか。
  ただし国語伝習所が開設されるにあたっての使用教科書には文部省編纂の小学校用の図書が併用されている。
  伊沢は7月5日、柯秋潔、朱俊英を日本語伝習候補生として採用し、・連徳を介して、教科書を作る作業をしていったようである41。
  国家教育社への第一回通信の中で「學務部に英語を能する舊支那人と外一名を雇入れ會話篇の編輯に着手せり日ならずして一般の利便を達すべき目的なり」と記しているのは教科書
  編纂にあったていることを語ったと思われる。
  こうして出来上がったのが台湾で最初の日本語教科書となる『日本語教授書』である。
   
      4−2  教科用図書

  『日本語教授書』は国語伝習所規則(明治29年6月)の中に「第二十條 ヘ科用及參考用ニハ當分左ノ圖書ヲ用フベシ」として八種類の教科用図書42のひとつとして記されている。他の図書は(資料1)
  「小學よみかき教授書」「小學讀方作文教授掛図」「小學讀本」(以上文部省編集局著)「小學讀書教授指針」「小學讀方作文掛図教授指針」「日本語教授書」「新日本語言集」「臺灣十五音及び字母附八聲附號」(以上総督府民政局學務部著)
  この教科用図書の使い方は『日本語教授書』を柱に教授するようになっている43。(資料2)これらの内容を見ていくと多分に語学教育の様相であり、日本語を身につけることが重視されている。伊沢修二が国家教育主義であれ、かかる台湾の現状に対しては、言語の疎通を優先した。
  直轄国語伝習所規則が公布される明治29年6月までには、すでに8種類の教科書が用意されていたことになる。伊沢の台湾教育はこれらの図書と芝山巖學堂に凝縮されたもので、台湾全土に拡大されていくことになる。
   

     第4章 伊沢の台湾教育の展開
   
   第1節 学務部と芝山巖學堂
   
    第1項 台湾総督府民政局学務部
   芝山巖は芝山巖学堂の授業が全てであったわけではない。学堂は学務部の教育事業としての性格を有しており、学務部員が事務及び教授を同時に受け持っていたことを示す。明治29年1月1日の「学務官僚遭難事件」が「芝山巖事件」となって、「六氏遭難」が「六氏先生」となってきたのは単に国家主義的な観点からではなく、この立ち上げ期が、教務、事務の未分化の状態で生じた事件だからである。
   当時の学務部は伊沢修二の強力な掌握があったこともあって、立案、図書編纂、教授の
     全てに伊沢が関与していたために、伊沢の頭の中では分担されていても、現場では境界線があまりはっきりしなかったかといってよいだろう。
   芝山巖に学務部を移転し、7月16日正式に授業が始められた。この時は6名が生徒となっている。最初のこの6名は学務部もしくは伊沢にとって、どういう存在であったか。
   伊沢の学制設立にあったての意見書や、時期ではこの後になるが、公学に関する意見書も、必ず模範校を作り、実験校にし、その後広めていく手法が取られている。 
   伊沢にとって芝山巖は学務部の事務取り扱いもするが同時に学堂は模範校でもあったといえるだろう。この状態が、教師も事務もする混沌状態を生み出していたといえよう。
   明治28年9月20日には生徒が21名になり、9月末時点の分担として『臺灣ヘ育沿革誌』には次のように記されている44。
     「甲組 井原順之助擔當
       柯秋潔 潘光・ 潘光楷 潘光明 潘廼文 陳兆鸞
   乙組 中島長吉擔當
       潘濟堂 郭廷獻 葉壽松 李逸濤 邱龍圖 張柏堂 劉銘臣 張維潘         朱俊英 頼仰懐 呉明徳 張 經
   丙組 桂金太郎擔當
       施錫文 呉文明 柯秋金 柯秋江 林隆壽 余克譲 施錫輝 施錫爲          柯秋澄
   監督 平井數馬 井上大策                           」
   当時 井原順之助、中島長吉、桂金太郎、平井数馬、井上大策の外には楫取道明、山田耕造、・連徳がいた。
   甲組と乙組は入学時期の差でレベル別編成とし、丙組については伊沢は自伝で「これらの生徒は年齡も少なく随って漢文の學力も少かつたからして、將來一般の學校、即ち小學校の如き學校に任用して、日本語を教授せしめようという目的でヘ育を施した。45」
   すでにレベル別、年齢をそろえてクラスを運営している。これは伊沢の構想にある次年度に設立予定の国語伝習所と国語学校及び付属模範学校に配置するための準備段階としてすでに始動させていることがうかがえる。
   この時に伊沢の頭には一般の小学校如きの学校の構想があったのではと思われる。
   
    第2項 日本語伝習講習生
   伊沢の事業は単に日本語を教えることだけではなかった。芝山巖學堂で伊沢の構想のひとつ、教員養成についても着々と進めていた。
     その構想を実現させるべく教員講習所設立のために上京し、日本語伝習講習生の募集を始めた。教員養成所といっても先ずは芝山巖をあてた。
   伊沢は上京中12月18日、台湾事務局総裁に日本語伝習所(講習員養成所)開設についての稟申書を提出。予算を請求。
     その中で伊沢は稟申理由として
     「現今本島内の土匪すでに鎮定に歸し漸く行政の歩みを進めんとするの時機に立至り候處彼我言語相通ぜざるより文武の施政進行上支障を生ずるもの甚鮮しとせず依て此際日本語ヘ員たるべきもの三十七名を内地より募集し本府に於て數箇月間適當の訓練を施し卒業の上は支部及び出張所所在地に派出し廣く本島人に日本語を傳習するの途を開き候様致度先以て別紙日本語傳習所豫算を具し此段稟議候也」
   ここでは当然日本語教員になる人員の確保が目的であるから、台湾人に日本語を教える教員の講習に予算を充ててほしいと願い出ている。これは認められたので、その結果第一回講習員が募集された。二回目以降は国語伝習講習員とり、明治33年まで7回の募集をした。明治明治29年年6月に国語学校師範部が開設されはしたものの、教員の需要が急を要するということで続いた46
   講習員の募集は『學務部施設事業意見』の「一ヘ員講習所設立要項」に基づいて東京で行われた。資格としては、内地において小学校の教員たる資格をすべて有し、身体強壮、言語明瞭にて訛なく、国語をよく教えられ、家事係累なくして五年以上台湾で教育に従事する契約が出来る者となっている。こうして講習員36名、国語学校入学予定者9名が選ばれて渡台する事になった。
   第1回目の講習員の講習状況については学務部長の報告として『臺灣ヘ育沿革誌』に記載されている47。
     「講習員の授業の状況は四月十五日臨時雇柯秋潔、朱俊英、陳兆鸞、張柏堂の五名を土語ヘ師とし、大久保幸之助、須田小五郎を體操ヘ師とし授業を開始す。土語には往々五十音以外の發音及八聲等の區別あり、之が爲には講習員一同苦心せしが、其進歩著しく、四月末の試驗に於ては頗る良好の成績を得たり。五月一日より日本語ヘ授書の講義の進むに從い、講習員をして各自ヘ案を作らしめ、一々點檢是正し、不良なるものは改作せしむ。猶講習員ヘ授の際は、土人學生は練習の爲、一切日本語を用ふるを許さゞりしが、講習員は大部分能く土語に熟し、大抵のヘ授用語に差支等なかりき。六月十二日日本語教授書は講了せり。二十三日より吉島俊明ををヘ師として、臺灣公文尺牘文の講義を始む。」
   この報告では台湾語の習得と日本語教授法に当たる講義が主となっていることが伺える。
   第一回講習員の卒業式での報告の中でこの二ヶ月の講習學科は第一臺灣土語、第二日本語ヘ授法、第三支那公用文、第四体操、第五唱歌、第六博物学及衛生法と報告している。
   この報告でも第一に台湾語、第二に日本語教授法がきている。これらからしても伊沢が国語伝習所の教師に何を求めていたか伺い知ることが出来よう。体操、唱歌は伊沢が文部官僚時代に手がけてきたことでもある。博物学に至っては、進化論を翻訳出版も手がけたこともあり自然への憧憬が感じられる。
   この講習では同時に教育実習を学堂の生徒に対して行っている。伊沢にとっては師範科と模範学校の原型をここに作っていたのではないだろうか。
   この日本語伝習講習員は(後の国語伝習講習員は)国語学校の師範部の元となっていく。
   国語学校師範部が開設されても、人員不足の為、しばらくは募集されていた。
   
   
   第2節 国語伝習所の展開とその意義
   
    第1項 国語伝習所の設立意義
   第1回の日本語傳習講習生が芝山巖で講義を受けている間の5月21日、国語伝習所の位置と名称が決まり、6月22日には国語伝習所規則が公布された。そして7月1日卒業と同時に赴任先に散った。(資料3)
   国語傳習所規則は明治29年6月22日に公布されているが、伊沢の構想の具体化のために相当熟慮を要したであろう。
   国語伝習所の性格は規則の第一条に見られる。(資料4)
   「第一條 國語傳習所は本島人ニ國語をヘ授シテ其日常ノ生活ニ資シ且日本國的精~ ヲ養成スルヲ以テ本旨トス」
     としている。
   日本語を身につけさせると同時に日本国的精神をも養成することを目的としている
   この日本国的精神が日本人に従うようなことを意味するのであろうか。伊沢の構想からは日本人と意志疎通が出来ることが最大の目的であったろう。
   さらに甲科と乙科と分け甲科は年齢15歳以上30歳以下、乙科は8歳以上15歳以下の者としている。さらに年齢と学力に応じてクラス分けを行っている。学期の作りにしても普通学校とはまるで作りが違う。
     「第4條 甲科ノ生徒ニハ現行國語ヲ專習セシメ傍ラ讀書作文ノ初歩二及シ其期限ヲ凡 半箇年トス乙科ノ生徒ニハ現行國語ノ外讀書作文習字算術ヲ修シメ其期限ヲ凡四箇年 トス土地ノ情況ニ依リ乙科ノ生徒ニハ地理M史唱歌體操ノ一科目若ハ數科目ヲ加ヘ女 児ノ爲ニハ裁縫ヲ加フルコトヲ得
     第五條 學級ハ甲科乙科トモ各一學級トシ生徒ノ年齢及學力ニ依リ更ニ之ヲ數組ニト區 別スヘシ
     第六條 學年ハ甲科ハ四月一日ニ始リ翌年三月三一日ニ終ル甲科ハ之ヲ前後ノ二期ニ分 チ乙科ハ之ヲ三學期ニ分ツ
     第七條 甲科ハ四月一日ヨリ十月三十一日ニ至ルマテヲ前期トシ十一月一日ヨリ翌年三 月三十一日ニ至ルマテヲ後期トス
   乙科ハ四月一日ヨリ七月十日ニ至ルマテヲ第一學期九月一日ヨリ十二月二十八日至ルマテヲ第二學期トシ翌年一月四日ヨリ三月三十一日至ルマテヲ第三學期トス」
   この学期構成を見ても普通学校ではなく語学習得が目的の構成になっていることが分かる。
     甲科は前期第一課程、後期第二課程でそれぞれ10週づつ20週で課程が修了する。
     乙科は第1課程から第4課程まで4年で課程が終わり、一課程を三学期に分けている。この体裁は普通学校的な課程ではあるが、語学習得が目的である以上、年生という区別は出来ない。これは国語学校が学年制を取っていることを考えれば、国語伝習所が学年制ではないことから普通学校としての位置付けは始めからしていなかったことになる。国語伝習所は規則の性格上、普通教育施設ではなく語学教育機関の作りである。
    明治29年8月5日、民政局長より地方長官宛に内達があった48。
     「俗を移し風を改め言語を普及せしめ彼我相互の事情を疎通し以て本島の經營を全くするは目下の急務にして各所へ國語傳習所をせられたるも此の主旨を貫徹するに他ならずる義に有之候處今般國語傳習所に甲科乙科兩種の生徒を募集し來九月一日より授業開始の筈に有之候就ては甲科生は卒業の上は下級の行政機關となしもしくは語學のヘ師に任ずる等本島經營上至大の關係を有するものなれば各廳便宜の方法を以て此際管下一般より廣く募集する事に致すべく此旨及内達候也」
   水野民政局長がどこまで国語伝習所の性格を心得ていたかは分からないが、内達を見る限り国語伝習所の意義を認めていたといえるだろう。これはやはり水野自身、最初に台湾に乗り込んできて、言語が通じないことに様々な障害があることを知っていたことにもよろう。それだけではなく最初に台湾に入ってきた官吏と軍人は、言語不通の中での統治に、軍事力だけでは出来ないことを思い知っていたからではないか。遼東半島では官話の通訳は活躍できたかもしれないが、台湾では百数十人いる通訳が役に立たないことから、伊沢の事業に期待は大きかったといえるだろう。
   こうして明治29年6月30日まで全員の赴任先が決定した。
   
    第2項 設置の現実49
   明治29年7月1日、卒業式と29年の1月1日に芝山巖で抗日勢力に襲撃された6人の學務部員の「學務官僚遭難建碑式」がおこなわれた。この日改めて「芝山巖精神」が強調された。その後各地に講習員が赴任する。
   明治28年11月18日に樺山は全島平定を宣言するが、その後も抗日勢力は各地で抵抗を続けていた。明治29年1月1日には學務部員が襲撃され、「芝山巖事件」として後にいわれるが、一斉蜂起が臺北地方の北部であった。その後中部の南投、雲林、臺中などでも蜂起が相次ぎ平定と入っても、まだ戦闘状態の所もあった。
     国語伝習所は、
   臺北、基隆、宜蘭、淡水、新竹、苗栗、
   臺中(位置彰化)、鹿港、雲林、嘉義、
   臺南、鳳山、恒春、
   澎湖島(位置媽宮城)の14ヶ所に設置されことになった。これらの場所は5月21日の府令で決められたが、臺中は彰化から臺中に移転してほしいという上申があり、雲林については治安状況から北港で開校したい上申があった。それぞれ認められ、始動。
   伝習所の設置場所であるが、廟、若しくは書院の建物を借り上げたり併設させたりしている。民間の建物も借り上げているが、廟や書院に設置している。
   淡水(東隅義應宮)新竹(明志書院)苗栗(・寮崗褒忠亭、鹿港は彰化に移転して(地蔵王廟)臺南(仮事務所を奎樓書院におきその後孔子廟に移転)嘉義(三山國王廟を期限付きで借用)鳳山(照忠廟)恒春(城隍廟)澎湖島(程朱祠)においた。これらは伊沢が学務部を芝山巖惠濟宮に置いたことを考えれば、伊沢の意向が働いていたものと思われる。
     学堂の設置が芝山巖であることからこれを模範としてもおかしくない。土着信仰の厚い廟と学を結びつけても、いくら伊沢が芝山巖を廟をして学問所として台湾人に日本語を提供する場に利用したとしても、芝山巖はそれでよかったであろう。しかし信仰の対象となる場に異質なものが居座ることを台湾人は心由としたであろうか。
   
    第3項 設置経緯の性格
   各地に設置された国語伝習所は、設置のされ方から見て、芝山巖に学務部を設置していったときの経緯を模範していたであろうか。
   芝山巖に学務部を設置するときは、伊沢自身が地元の進士、擧人などの協力を取り付けて、彼等とも因縁のある由緒ある廟を借り受けている。
   明治29年7月以降に伝習所設置のための現地での活動が開始されたが、その先導は各伝習所の所長に任命された官吏であった。
   当時はすでに台湾平定が宣言されて、半年以上も立つので民政支庁も各地で開始していた。そのこともあって、生徒募集については伊沢の時とは違って役人を使っての募集が主であった。
   苗栗国語伝習所は地元に篤志家がおり彼等が率先して協力、教場も清朝の学問所であったこともあって修繕して開所とのこと。結果的に芝山巖を模範とした様相である。臺中、臺南を除いては相当の紆余曲折を経ている。
   この設置展開は協力が得られた苗栗、臺中、台南にしても、最初は役所の通達や街庄の長を通して、いわば総督府の機構を通した形態で募集が行われている。
   基隆、鹿港、雲林、嘉義、澎湖島などは協力者を得られず最初の募集では生徒は極めて少ない。募集に応じるかどうかは日本語を身につけることが損得のどちらになるか天秤に掛けたことにもよろう。一方で澎湖島の場合のように清朝時代から貧困の子を教育する学校があり、伝習所をそういうものであるとみなしていた上流の子弟は面子にこだわっていたことも伺える。
   伊沢の構想の基礎となる語学教育機関の全島への拡大構想はこうして始められたが、設置のされ方、及びその機能したことを考えると、芝山巖での模範の一般化に対して、相当の抵抗を受けたといえるだろう。このことは伊沢の考えていることとは裏腹に、台湾人にとっては、教育といっても、日本語が真っ先に強制された思いを持ったのではないだろうか。しかしながら、国語伝習で日本語を身につけることが、立志や生活向上に繋がると見た時、募集に応じたであろう。台南では乙科生に台南5区より一日5銭の補助を行ったがそれを廃止すると、生徒が3分の一に激減したという50。
   この時期の伝習所は、語学教育機関であったことが、台湾人に対しては、まだ選択の余地をもっており、「書房」に対する圧力にはなっていなっかたといってよいだろう。
     (図C)(資料5)
   
   

     第5章 伊沢の台湾教育の挫折
   
   第1節 伊沢の構想の挫折の経緯
   
  明治30年3月1日木下邦昌、高木平太郎、前田猛雄、芝山豊平、浅井政次郎を公学模範学校規則取調委員にし公学模範校の準備に取りかかった。4月26日、伊沢は上京を命じられ上京。上京中、公学模範校と公学設置のための予算獲得に奔走する。しかし在京中に出てきた答えは直轄学制の廃止,学制改正という名の人員削減と大幅な教育予算の削減であった。水野民政局長にしてみれば教育予算の削減受け入れは職務上致し方ないにしても、現場を指揮する伊沢にとっては構想推進の大きな痛手となった。伊沢は5月10日に、乃木総督に諸学校官制改正案に対する具申書を作成。その中で改正についての案を痛烈に批判、乃木批判とも受け取れかねない事も述べ、進退についても決断している。
  明治30年5月22日51、帝国教育会においての演説「台湾教育の現在及将来」について講演し、その中で彼の公学設置に関する意見が披露された。この中で伊沢の台湾教育の構想の実現について述べ、台湾における教育状況について述べている。伊沢は書房をも一つの出来上がった教育制度と考えていたことから、即これにとってかわることは難しいと考えていた。従って書房をすぐ処分するのではなく、それを利用しながら、組み込んで、公学にとって変えていこうとしていた。そうして公学模範校と公学の構想について述べている。公学模範校についてはカリキュラムと学習科目の内容についても詳しく述べている。最後に体罰についても述べている。
  6月8日、7月29日の非職が決まった。
  その後6月19日には帝国教育会での講演内容を『臺灣公學校設置に關する意見』としてパンフレットにしている。
  伊沢なき学務については、その後児玉喜八が事務取扱となっていくが、明治31年の3月に後藤新平新民政長官が着任するまで空白の日々であった。伊沢在任中に決まっていたことはそのまま処理されていったようである。しかし後藤長官が着任すると学制は大きな転機を迎える。それは伊沢修二が構想して諮問し一応なりとも出来上がっていた「台湾公学校令」は後藤の同意を得られずに廃案となり、新たな公学校令が模索されたが伊沢主導の公学校令に大幅修正を加えて日程に上ってきた52。               
  伊沢修二については台湾教育の基礎を築いたといわれている。その後、公学校が出来、臺灣全土に広められ「國語教育」が発展する。
  そうであろうか。
  後藤新平が民政長官なった時、民政局の大幅な組織替えが行われ、学務部は学務課となり民政長官の意向が強く反映する組織になっていった。

  鶴見祐輔は『後藤新平伝』で
  伯曰く「臺灣のヘ育の方針は無方針であります。どうしても一つのゼネレーションを、二十五年とすれば、七十五年、三十年とすれば九十年經たなければ、本當に民心を理解し得ることはできません。年限の經つたところで方針を立てなければならん。今はまだ日本語をヘへて行く時代で、日本語で一定方針をヘへるといふ時代ではない。日本語をヘへる。日本人は臺灣語を學んで臺灣の事情を知ることを努めなければならん時代である」と。

  さらに鶴見は後藤以前のヘ育について
  「この實利的なる新附の民を、日本に同化せしめんと欲せば、まづ國語ヘ育に全力を集中し、その心性の變化を待たねばならぬのに、かかる同化主義のヘ育は、勢い實學に疎からざるを得ず、從ってヘ育を以て衣食の道とする彼等の思想と、衝突しなければならなかったからである。
  わが臺灣領有のはじめ、新領土學制の目標としたのは、所謂同化主義のヘ育であった。故に明治二十九年、民政の起こると共に、總督府は國語ヘ習所を台北、淡水、基隆、新竹、臺中、鹿港、苗栗、雲林、嘉義、臺南、鳳山、恒春、澎湖島、埔里社、臺東の15市に開設し、単に日本語を土人にヘ習せしむるを主とし、土人にして學科を終わりしものは、政府の通譯、その他の雜役に雇使した。
  しかるに伯が民政長官に就くや、直ちに學制の大改革に着手した。53」
  鶴見祐輔は伊沢の学制を同化主義と批判している。この同化主義批判は後藤の無方針といいながらも、日本語を教え日本人は台湾語を学ぶという方針に基づいた批判である。
  しかし鶴見は伊沢の台湾教育についてどれだけの理解あってのことであろうか。
  植民地支配を考えていくと国語伝習所を初等教育機関であるという規定からは、確かに改革しなければならない対象になるだろう。
  普通の学校を作らずなぜ国語だけ学校なのかという思いが強く出るであろう。すべての台湾人に普通教育をという考えは納得しやすい。しかしそれは語学教育機関をばっさり切り捨て、従来からある書房での教育を否定し普通教育機関を強制することに他ならない。
  伊沢の学校構想は現地の状況に鑑みて練られていったものである。当然の事ながら国家教育主義者の伊沢には依然変わりはない。しかし台湾教育に関しては伊沢は現地の状況を重んじながら進めていたことは事実である。
  むしろそういう伊沢を台湾から切り捨てることが必要であり、植民地経営していく上には台湾人をしてあまり要職に就かせないことが必要になってきたのではないだろうか。伊沢が公学についての構想を立てているとき、台湾統治は、武断統治をすすめ、その財政負担が時の国家財政の危機54にまでなっていたことを考えると、伊沢の要求になど応えている場合ではないということであろう。だからこそ、国語伝習所で学んで「国語」を専門に身につけ、要職に就ける道をばっさり切る必要があったものと思われる。
  
  第2節 伊沢の構想の中断と挫折
   
  台湾教育について、伊沢修二が立ち上げ「植民地教育の基礎」となったといわれるが、「日本化」するための教育に国家主義を導入したとしても、内地でも国家教育社を通じて盛んに活動していたことを考えれば、内地延長主義的なものさえ感じられる。ただ、台湾が新領地となってそこにいる住民の教育を、強制ではなく、混和55でしようとしたともいわれるが、伊沢の混和は即ち同化を意味しているのではないだろうか。混和主義の前提には一視同仁の思想が脈々としている。
  伊沢の構想は、最初は日本人に台湾語を教える台湾人の教師と通訳の養成から始まり、ついで台湾の各地に日本語と台湾語が分かる者を増やすための日本人教師を養成し、ついで台湾住民から日本が制度化する体制に適用できる者を養成し、その後、一般でも受けられる教育をしていくというものであった。
  伊沢は台湾に来る以前に描いていたことは、台湾で実際に台湾人と寝食共にする中で、イメージが変えられ、むしろ言語の不通についてその状況を打開しようとしたと思われる。ただしこのことによって彼の国家教育主義が変わったということではない。
  彼の語学教育観がここでいかんなく発揮され、国語伝習所は普通教育機関としてではなく最初から語学教育機関として出発させたのである。それは国語伝習所規則からしても明らかである。
  伊沢はこの官立(公立)の語学教育機関の乙科を普通教育に改編し、また書房にも日本語の時間を設けさせ書房を利用しながら台湾教育を考えていた。
  問題は乃木総督やその後に赴任してきた後藤新平が、そのことをどこまで理解していたかである。また多くの教員が養成され台湾教育に関与していくことになるが、公學校に改編された後に、国語教育研究会が発足していくが、その中でも伊沢時代を語学教育として理解していたかである。
  明治29年に乃木希典が総督になるが、彼は伊沢のこの語学教育機関の役割をどこまで理解していたであろうか。武断統治を続ける乃木にとって伊沢はかなり台湾人を養護する立場に見えただろう。ここにはどうしても寝食を共にして数年であっても苦労して学校を設立し、多くの修了生が総督府で働き、総督府に寄与してきたという思いからすると武断を続ける乃木に対し教育予算をばっさり削ってきた事への怒りは収まるはずもない。台湾人に國語を教授し身につけさせ、日本に協力的な「良民」を輩出させる事こそ国家のためになると信じていた伊沢のことは、樺山資紀や水野遵は心情では伊沢のことを理解していたであろう。しかし水野は教育予算の配分に対しては従わざるを得ず、伊沢が水野の説得に応ずる訳もなく、乃木への具申書となったと考えられる。
   
  
   第6章  まとめ−伊沢の台湾教育の性格−
   
  伊沢の台湾教育は常に語学教育が基礎にあり、その上に普通教育も師範教育も成り立つと考えていたことでなかったか。その実現のために国語伝習所、国語学校、師範学校、公学、その下に書房を置くことを構想していたものと思われる。しかるに乃木總督の教育予算のカットは、伊沢が語学教育の上にすべてを考えていることなど全く関係なく、教育にややこしいものばかり作っているというものでしかなかったのではと考えてしまう。そしてこのカットは伊沢の構想を足下から崩すことになる。ここに伊沢の構想は中断させられ、非職命令によって断絶させられ事になる。
  伊沢が去った後に一旦は通るかに見えた伊沢の公学校令は、後藤新平は認めず、廃案にしている。
  後藤の登場は台湾教育について、日本人は台湾語を、台湾人は日本語を学ばねばならないといいながら、彼の回答は普通教育としての公学校の設置であった。この公学校設置は、伊沢が考えていた、模範校を先行設置しその後に漸次広めることは考慮されず、いきなり設置し、台湾人を収容するものであった。そのため語学教育は考慮されず、伊沢時代の国語伝習所甲科の生徒が宙に浮いてしまうことになり、彼等の措置を別途に考えなければならなかった56。
  従って、後藤が行った学制改革は伊沢時代のように語学のレベルで学校を作ることではなく、年齢で区切っていく体制に台湾人を押し込めることであった。語学教育としての「国語」の教授研究は語学としての日本語教授研究から公学校内での年齢別の「国語習得」のための「教授法」として転換を余儀なくされたのである。
  伊沢のいた時代は語学教育時代、後藤が着任するまでは中断期、後藤が着任してからは、伊沢時代と次の学制との過渡期、そして公学校令施行以降台湾教育会の創設までは、まだ語学教育としての内容を引きずっている期間であったが、台湾教育会の創設は年齢で輪切りにされた公学校の中で「国語」をどうするか、その模索と本格的な研究が必要になってきた結果「國語研究会」から「臺灣教育会」への転換ではなかったか。
  伊沢の語学教育機関を基礎とした学校づくりは否定され、後藤が新たに敷いた年齢別の全日制の学制がとってかわった。それは伊沢が学習者中心に台湾教育を構想していたのに対し、後藤以後は台湾人をいかに制度に合わせるかの教育であった。これは言語不通の中で、日本語と台湾語が相互疎通図れるよう苦労して制度を作り、それを大事にしようとする者と、すでに疎通が出来るようになった後に制度を考える者の違いでもあろう。ここに台湾人は公学校、日本人は小学校へという道が設定され改編が加えられ、1945年の敗戦まで続くのである。(図D)
   
  
   <おわりに>
   当初、この論文では国語伝習所だけではなく伊沢修二、国家教育、芝山巖事件、芝山巖精神、国語学校、さらに公学校と台湾教育会についても論じるつもりでいた。しかし、この論文を作成していく課程で、全部に触れるにはあまりにも厖大すぎた。台湾の植民地教育について語られるとき、国語伝習所の存在が直線的に語られがちだが何か異質なものを感じていたこともあったので、国語伝習所に比重をかけた。そのため、国語伝習所以外についてはあまり触れることができなかった。
  論文の引用文献について、当時の学務部の動きを知る手がかりとなる、一級資料の「台湾総督府文書」の直接の閲覧は一般には極めて困難である。この論文で引用した文献類は口述筆記を基にしたものや、後に活字化されたもので、原資料と活字化の間に「編集」の介在の可能性が多い。回想録などにしても、往時については記憶が曖昧だったりすることもあって、必ずしも信頼できるものでもない。当論文で当時のものを使用しているのは『日本語教授書』ただ1点のみである。しかしこれとて「完成品」の為、『日本語教授書』の成立過程だけでも、一つの大きな論文にはなってしまうであろう。また時間が許せば現地に行って新たな観点で調査をすべきであるし、様々にインタビューもして行かねばと思う。今回触れられなかった事項については今後の課題として取り組んでいく所存である。
  さらに、この論文に関連して時代としては前後になるが台湾取得過程、人事の決定過程などについても重要な要素でもあるのでこれも課題としていきたい。
   

  〔付記〕

  この論文に先立つ「報告書」は大阪府立中之島図書館に所蔵されている蔵書、及びマイクロフイルムを利用して、作成された。『日本語教授書』に伴う調査については、天理大学付属図書館、上伊那郷土館、高遠郷土館、東京大学付属図書館、東京書籍の教科書博物館東書文庫、国立国会図書館、国立教育研究所図書館、国立国語研究所図書館、などに足を運んだ。また在台中は国立中央図書館台北分館、李春生記念館、芝山巖、及び休日はよく士林の夜市を楽しみ、台北の市内史蹟巡りバスや迪化街(旧大稻・)保存会の説明会に出て、往時を偲んだ。
  この論文作成に当たっては、新たに日本近代音楽館奏楽堂分室、日台交流センター、台湾協会図書室を利用した。しかし時間の関係もあって、国立公文書館、外交史料センター、芝山巖事件関係者との面会などに足を運べなかったことが残念である。
  最後に、厳しくも暖かく卒論指導をして下さった上山和雄先生、台北での生活に便宜をはかってくださった台湾東呉大学の蔡茂豊先生、二年で最初に演習指導して下さった馬場明先生、論文の書き方や参考文献などに様々に助言して下さった柴田紳一先生、台湾教育會雑誌の便宜をはかって下さった柿沼秀雄先生、上京するたびに激励して下さった花園大学の小野信爾先生、そして私のわがままと多大な迷惑を受忍して下さった多くの方々に感謝し、厚く御礼申し上げたい。
                                        以上
はじめに戻る
     〔脚注〕
(1)
   中村忠一『日本語教育の領域』66頁〜68頁
     山口喜一郎が大正3年遼陽公学校での講習会の講演から「国語の授業にあったての注意」
     1)発音授業は最初から最後まで
     2)教室では満語(満州語)を用ひず訳文に触れるな
     3)文字や単語に全力をそゝぐな
     4)読本の丸暗記では役にたたぬ
     5)問答をたえずおこなって話し方を練習せよ
     6)個別的取扱いに注意して劣等生をつくるな
     7)応用に力をもちひ活用の機会を多くせよ
     その他〔10〕項目を授業に関しての方法をあげている
     1)授業は読本を中心とせよ
     2)話し方より読み方にすすめよ
     3)語法は帰納的に教授せよ
     4)発音は正確を期して練習せよ
     5)教授を実生活に連結して日常会話をもちひよ
     6)授業の初期には直感的に教授し対訳の方法をとらないこと
     7)全課程を通じて日本語を使用することにつとめよ
     8)個条ごとに会話の練習をおこたってはならない
     9)個別ヘ授により個性的指導をせよ
     10)風土文物を授業の材料として教室を日本的にせよ

(2)
   「日本語教員検定制度について」(日本語教員検定制度に関する調査研究会報告、昭和62年    4月10日)


(3)
  関正昭『日本語教育史研究序説』(1997)「まえがき」より
  「戦後の日本語教育史の中で特筆されることのひとつに1980年代の半ばごろから日本語教員の養成を目的とした学科や課程が全国各地の大学に次々に新設された事が挙げられる。これらの学科・課程では言語学・日本語学・日本語教育学・日本語教授法などの授業科目がカリキュラムに組み込まれ、そのためのテキスト・参考書の類も続々と出版された。しかし、日本語教育史に関してはこの分野の研究者が極端に少ないこともあって、今日に至ってもなお日本語教育史全般を一冊の本にまとめたものは皆無に近い状態である。一冊の本と言うにはおこがましいが、筆者が1991年に出した『日本語教育史』(「文部省の大学教育方法等改善経費」によって刊行した試行テキスト)があるのみである。(後略)


(4)
  国立国語研究所『日本語教育沿革年表T』昭和54年3月。この年表は研究所の図書室にあることを知って閲覧。

(5)
 伊沢の天機奉伺の月日が二月にしているものと五月のものとある。奉伺先が二月ならば広島、五月ならば京都であるがこれも二月と五月の関係で「五月、広島大本営に天機奉伺」という記述が目立つ。
  伊沢の渡台の時、広島出発が6月6日としているのは伊沢修二選集の年表によるものと思われる。
  「六月六日、樺山総督及び学務関係者多数と共に、第三回台湾行西京丸にて宇品を出帆。」
  「六月一七日、死屍累々たる基隆港到着。(中略)結局汽車より先に台北着。」
  これらについて、実証されていない段階での記述をそのまま論文に引用しているものがあった。ちなみに「横浜丸」(2305頓)「西京丸」(2912頓)共に日本郵船所属の御用船。「横浜丸」は陸軍の借り上げ「西京丸」は海軍の借り上げであった。伊沢が上船した「京都丸」は原名ドライフェスデール英国製造2670頓、船主は大阪の廣海二三郎。5月26日、28日の二回大阪毎日新聞に借り上げ願いの広告を掲載。陸軍がいつ借り上げたかは未調査。後藤松吉郎が6月3日に京都丸の輸送指揮官になったことから、5月28日から6月3日の間であることが予想される。そして6月7日、第三回目の渡台船として使われた。京都丸の基隆入港は6月12日。
(6)  檜山幸夫『日清戦争−秘蔵写真が明かす真実−』「第6章台湾統治と台湾戦線−1割譲地     準備と占領地行政」236頁〜239頁
(7)
   朕占領地總督部条例ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム
   御 名    御  璽
     明治二十八年三月三十日
                           陸軍大臣伯爵山縣有朋
     勅令第三十八號(官報四月四日)
    占領地總督部條例

     第一條 占領地總督部ハ占領地ヲ管轄セシムル爲メ其本部ヲ金州ニ置ク
     第二條 占領地總督ハ大將若クハ中將以上ヲ以テ之二補シ直ニ大本營ニ隸シ占領地内ニ           屯在スル陸軍各部隊ヲ統率シ軍事二關スル諸件及占領地人民二係ル一般民政            ヲ總理ス
     第三條 占領地總督ハ占領地ノ警備及防禦ノコトヲ掌リ其管轄内ノ靜謐ヲ維持シ衞戍条例           ニ準據シ衞戍勤務ヲ統轄ス占領地ノ管轄區域ハ大本營ノ命令ヲ以テ之ヲ定ム
     第四條 占領地總督ハ其管轄區域内二在ル陸軍各部隊ノ給養衞生、其他風紀ヲ維持スル           コトニ就テハ職務權限軍司令官ニ同シ
     第五條 占領地總督ハ軍政ト民政ニ拘ハラス一ニ大本営ノ區處ヲ受ク其人事ニ就テハ陸             軍武官進級令及陸軍豫備後備武官進級令ニ據ルヘシト雖トモ陸軍武官進級令大           十六條及陸軍豫備後備武官進級令第九條ニ準シ特ニ進級補除ノ權ヲ假スコトア             ルヘシ
     第六條  占領地總督ハ民政上ノ必要ニ應シ民政支部ヲ置き其民政區域ヲ定ム留事ヲ得
     第七條  占領地總督部ノ編制ハ別表ノ通
     第八條  參謀長ハ部務ヲ整理シ參謀及副官ハ參謀長ノ監視ヲ受ケ各自擔任ノ事務ニ服シ            其責ニ任ス
     第九條  砲兵部長以下各部長ハ總督ニ具申スヘキ事二就テハ先ツ參謀長ノ承認ヲ得ヘ             キモノトス
(8)  黄昭堂『臺灣民主国の研究』50頁
(9)            同掲書  49頁
(10)            同掲書  56頁
(11) 『臺灣總督府陸軍幕僚歴史草案(上)』37頁
(12) 6月24日付『読売新聞』
(13)  学務部の看板を李春生の家に掲げたという言い伝えはあるが確証はない。
(14)
  『臺灣總督府事務成績提要』「第九章ヘ育事務(一)國語傳習ノ經過」43頁
     「明治二十八年七月十六日ヨリ八芝林街ク紳ノ子弟十餘名ヲ芝山岩ニ集メ我國語ノ傳習ヲ始メ其後國語傳習志願者ノ爲ニ數回試驗ヲ行ヒ入學ヲ許可セシ者更ニ十餘名アリ同年九月ニ至リ傳習生ノ現在數二十一名ノ多キニ達セシ故ニ之ヲ甲乙丙ニ類別シテ傳習ヲ繼續セリ甲組ハ最初ニ傳習ヲ許可セシ者ニシテ既ニ粗々國語ヲ解シ得ルニ至レルヲ以テ臨時雇トシテ若干ノ日給ヲ給シ乙組ハ第二回ニ入學ヲ許可セシ者ト第一回ノ者若干トヲ合セタル者ニシテ年齡既ニ長シ且相當ノ學力アリ其一人タル朱俊英ト云フ者能ク官用文ヲ作リ得ルヲ以テ既ニ臨時雇トシテ使用セリ丙組ハ第三回ニ入學ヲ許可シタル者ニシテ年齡猶幼ナリ同年十月十九日甲組柯秋潔外六名ニ修業證書ヲ授與セリ明治二十九年一月一日土匪蜂起シ芝山岩ヲ襲ヘリ部員楫取道明外五名之ニ死ス故ニ已ムコトヲ得ス一時傳習事業ヲ中止セリ」

(15)
『大阪朝日新聞』明治29年3月1日付第3面
   総督の上京という記事の中に台湾からの視察員と留学生の記事が載っている。この時視察員として上京したのは、デビットソン、李春生、張柏堂、葉壽松、など9名、李春生の子弟李延齡、李延昆、李延禧、親友の子、李解紛、李源頭、陳培炳、林仁通の7名が名を連ねている。この上京については李春生が『東遊六十四日随筆』の中で詳しく記録している。
   これは台湾日日新報で連載された。

(16) 『臺灣總督府文書目録』265頁
(17) 『国家教育 第32号』32頁
(18) 『国家教育 第33号』8頁
(19) 『国家教育 第33号』「明治二八年ノヘ育社会」7頁〜12頁
(20) 『国家教育 第35号』7頁〜8頁
(21) 『近衛篤麿日記第一巻』13頁 
  「 五日 火曜日 晴れ
   一 面会 伊沢修二 学制研究会の事教育大会のこと同人占領地に出張する事等」
   この近衛篤麿日記刊行会からの『近衛篤麿日記』は明治28年5月7日以降明治29年8  月3日まで欠落している。

(22)     22『国家教育 第37号』−国家教育社記事 34頁
     23『国家教育 第37号』−内外雑纂−27頁
     24 伊沢修二『楽石自伝教回周遊前記』204頁
     25『国家教育 第30号』とびら
     「特別社告              
     本社は九月三十日客員芳野世經ヲ本社員總代トシ廣島大本營ニ於テ天機ヲ伺ヒ奉リ併セテ陸海軍ノ戦戰勝を祝シ奉レリ
     右謹テ報告ス
     明治二十七年十月     國家教育社」
     26『国家教育 第34号』「国家教育社第四回大集会速記録(続)−天機奉伺の報道
     客員芳野世経君−39頁
     27 伊沢修二『樂石自傳ヘ界周遊前記』204頁〜206頁
     28「今回臺灣總督部内の民政部の官吏ハ百二十名にして軍事部の官吏ハ五十名有りとき  く」読売新聞 明治28年5月13日(十二日午前十時京ト發)
     29『臺灣總督府陸軍幕僚・史草案(上)』7頁〜14頁
     30『秘書類纂 臺灣資料』450頁。『台湾総督府陸軍幕僚・史草案(上)』には5月11日 に内定の条例草案が記載されている。その中では学務部は23条で規定。
     31『台湾総督府陸軍幕僚・史草案(上)』 18頁
     32 現在の地名は三峡鎮 
   安部明義『臺灣地名研究』136頁「三峡(三峡街)大正9年までは三角湧街と稱した。」
     33『臺灣市街庄名の讀み方』22頁 鶯歌庄二甲九(現在の鶯歌鎮二甲)
     34揚碧川『臺灣歴史年表』96頁
   黄昭堂『臺灣民主国の研究』79頁
     「日本軍は増援部隊で南進支隊を結成し、すでに新竹に到達した先遣部隊の後方の掃蕩にあたらしめた。だが緒戦から、輸送隊約三十五名が三角湧、大・・間でほとんど殲滅され、その他の各部隊も民軍の邀撃を受けて苦戦した。ことに奥地の大・・に沿って前進することを命ぜられた歩兵第三聯隊第二大隊はひときわ激しい抵抗を受け、二甲九庄・烏泥堀庄・福徳坑庄・尾重橋などにおいて激戦を交えた。このいくつかの寒村で日本軍が七月十三日の一日間の戦闘で費やした弾丸数は一万八千発で、実に北部最大の激戦地基隆攻防戦のそれを上まわり、瑞芳戦の三倍に当たる。」
   
     35『臺灣史料綱文上巻』19頁〜21頁
     「(7月)
     十三日 我水路輸送隊三角湧ニ於テ全滅ス
      〔近衛師團軍醫部征臺衞生彙報〕
     二十一日 三角湧附近ノ匪徒掃討ヲ始ム
      〔陸軍幕僚歴史草案〕第一巻
      〔近衛師團軍醫部征臺衞生彙報〕
     二十三日 近衛師團三角湧附近ノ匪徒掃討ヲ了ス
      〔陸軍幕僚歴史草案〕第一巻
      〔近衛師團軍醫部征臺衞生彙報〕                   」
   黄昭堂『臺灣民主国の研究』77頁〜80頁
     36『伊澤修二先生と臺灣ヘ育』19頁
     37 芝山巖廟借上契約書
    竊以八芝蘭堡圓山頂芝山岩自昔選民鳩資廟宇其上崇祀開潭聖王音觀佛祖文昌帝君諸~挙僧住持朝夕焚香多歴年所以慶中元或迎聖蹟或~誕演戯三四次此固為閣堡順良民聚宴集之公地也今者學務部駕臨芝山借作學堂文理ヘ化匪民歛跡而良民楽業免受驚恐一方沽恩不淺實大榮光焉然自今議借以後所有芝山巖内房屋器物件除後進右畔二間連過水兩横廊先為禪室及ク民駐足外總由學務部裁製無拘日月任從使用自由民寺莫敢異言以此合應支約式紙分執為照了謹将立約各款條開列于左
     一 諸~佛座位香案懇勿遷移應准随俗照常供奉演戯焚香
     一 沿山樹木茂密大石巉巖原為壯觀瞻固廟宇應請禁止碩伐開琢以重地理
     一 除芝山巖後進右畔二間連過水兩横廊先為禪室及ク民駐足外無論修理何処再拡充構造或學堂應用之屋任學務部尊意之便但此項一切需費亦由學務部發給
     一 學務部毎月喜施金伍圓給與住持僧取去為供佛之費但巖内僧於廟内務必厳肅酒掃潔浄毋容解怠
     一 芝山巖上原有果園荒埔及菓子什物准舊交與住持僧掌理耕種湊用食
     明治二十八年七月
   學務部   伊沢修二
   芝蘭諸   陳 登 元    林 有 仁
   董 事   潘 成 清    頼 廉 才
         楊 廷 斡    陳 景 南
     (蔡茂豐『中国人に対する日本語教育の史的研究(台湾を中心に)』より)
     38『臺灣ヘ育沿革誌』155頁
     39『臺灣總督府 案中譯本 第三輯』391頁
     40見上保『台湾に於ける六士先生の功績』から 93頁 関口長太郎の書簡
     「當地出發の期迫々遷延致居候得共、多分明後日頃發足可致模様に御座候得共、是亦判然不仕、日々無聊に苦しみ居申候、然し本日伊澤君より着臺の上は第一着として、會話書編纂可致心組に附き、日常必要の言語及順序等今日より調査致置度につき、調査に取りかかり置く様との依頼相受候間、爾來少々仕事も可有之と存居候
   明治二十八年六月五日
       廣島市天神町明輝樓にて
                                  關口長太郎
   山田節二様                                」
     41『臺灣ヘ育沿革誌』157頁
     42これら八種類の教科用図書はすべて現存。
   蔡茂豊「『日本語教授書』についての考察」
   1987年3月28日日本語教育学会大会発表レジメ(調査協力:泉史生)
     43『臺灣ヘ育沿革誌』 203頁〜211頁
     44『臺灣ヘ育沿革誌』156頁
     45 伊沢修二『樂石自傳ヘ界周遊前記』211頁
     46『臺灣ヘ育沿革誌』によると
   第1回 45名
      明治29年4月15日入学
      明治29年7月1日卒業
   第2回 甲 49名 乙 22名
      明治29年12月15日入学
      明治30年3月1日卒業
   この第1回と第2回の甲は芝山巖學堂出授業第2回乙は国語學校の事務所として使用の 學海書院にて講習。第3回以降は国語學校本校にて講習。第3回以降については『臺灣 ヘ育沿革誌』570頁
   第3回 30名
      明治31年9月22日入学
      明治32年1月14日卒業
   第4回 37名
      明治32年3月1日入学
      明治32年7月9日卒業
   第5回 25名
      明治32年9月22日入学
      明治33年1月25日卒業
   第6回 26名
      明治33年2月20日入学
      明治33年4月19日卒業
   第7回 30名
      明治33年11月18日入学
      明治34年3月10日卒業
     47『臺灣ヘ育沿革誌』541頁
     48『臺灣ヘ育沿革誌』183頁
     49『台湾総督府文書目録』には各地の国語伝習所の報告がある。しかしこの時点ではその文 書の閲覧等不可能なので、『臺灣教育沿革誌』によった。
   『臺灣教育沿革誌』183頁〜193頁
     50『臺灣ヘ育沿革誌』187頁
     51『近衛篤麿日記第1巻』219頁 
   「5月22日 土曜日 晴
   帝国教育会講談会に出頭、伊沢修二の台湾教育に関する演説あり、至極面白かりし。  5時過帰寓」
     52『台湾総督府文書目録第三巻』「解説 台湾総督府の刷新と統治政策の転換」から
   386頁〜396頁
     53『後藤新平伝 臺灣統治篇下』34頁〜36頁
     54 石井寛治「日清戦後経営」56頁 『岩波講座 日本歴史16近代3』
     55 近藤純子「伊沢修二と「対訳法」−植民地期台湾における初期日本語教育の場合−」
     『日本語教育98号』121頁〜130頁
     56『台湾総督府文書目録第3巻』「解説台湾総督府の刷新と統治政策の転換」394頁
   「甲科生には妻帯者が三分の一もおり、生活保障としての給費もなされていた。この   甲科生を、幼少の子弟に普通教育を行うことを目的とした公学校に転入させることにな ったことから、その調整が問題となり九月二三日の府令第九四号により特例処置が講じ られることになったのである。」
   
    <参考文献>
   
      〔マイクロフイルム〕
     大阪朝日新聞マイクロフィルム(大阪府立中之島図書館所蔵)
     大阪毎日新聞マイクロフイルム(大阪府立中之島図書館所蔵)
     東京朝日新聞マイクロフイルム
     読売新聞マイクロフイルム
     臺灣日日新聞マイクロフイルム
     樺山資紀関係文書マイクロフイルム       
   
      〔法令関係・公文書類〕
     法令全書 明治28年〜大正12年
     官報目次総覧第2巻 文化図書 昭和59年8月30日        
     臺灣省文獻委員會編印『日據時期臺灣總督府公文類纂明治二十八年乙種永久第二至七巻 臺灣總督府O案中譯本』臺灣省文獻委員會            民國八十三年三月(日台交流センター所蔵)
     中京大学社会科学研究所編『台湾総督府文書目録第1巻』1993年12月 ゆまに書房
     中京大学社会科学研究所編『台湾総督府文書目録第2巻』1995年3月 ゆまに書房
     中京大学社会科学研究所編『台湾総督府文書目録第3巻』1996年7月 ゆまに書房
     『現代史資料(21)台湾(一)』みすず書房 1971年3月
     『明治100年叢書 秘書類纂 伊藤博文−臺灣史料−』原書房 昭和45年
     『明治100年叢書 続対支回顧録下』
   
     〔個人文書〕
     『樺山資紀関係文書』(マイクロフイルム)
     近衛篤麿日記刊行会『近衛篤麿日記』鹿島研究所出版会 昭和43年5月
     伊藤博文関係文書研究会『伊藤博文関係文書』塙書房 昭和49年
   
      〔書籍目録・その他〕
     アジア経済研究所『旧植民地関係機関刊行物総目録−台湾編−』アジア経済研究所 1973年
     国立国会図書館『蔵書目録 明治期 著者名索引』平成7年1月
     大東新聞社『明治大正昭和 大官録』昭和五年11月
   
   
      〔統計書類〕
     臺灣學事要覧 大正五年四月版(大阪中之島図書館所蔵)
     臺灣學事第十六年報 大正七年 (大阪府立中之島図書館所蔵)
     台湾総督府第六統計書 明治三十五年(大阪中之島図書館所蔵)
     臺灣総督府『台湾総督府事務成績提要 明治28年版(影印版)』(日台交流センター所蔵)
   
   
      〔年表類〕
     臺灣經世新報・『臺灣大年表』昭和13年12月第四版(復刻版)緑蔭書房 1992年3月
     『日本語教育沿革年表T』国立国語研究所日本語教育教材開発センター 1979年3月
     中京大学社会科学研究所台湾史料研究会校訂『臺灣史料綱文 上巻』中京大学社会科学研究所 社会科学研究叢書1
     臺灣總督府陸軍幕僚編著『臺灣總督府陸軍幕僚歴史草案(上)』捷幼出版社民國八十年三月(日台交流センター所蔵)
     楊碧川『臺灣歴史年表』自立晩報出版部 民国77年
   
      〔雑誌関係・学会誌・紀要・その他〕
     『国家教育』第1号〜第57号(復刻版)ゆまに書房
     『臺灣ヘ育会雑誌』第1号〜第128号(復刻版)ひるぎ社 1994年10月
     日本語教育学会『日本語教育 60号』1986年11月
     日本語教育学会『日本語教育 94号』1997年10月
     日本語教育学会『日本語教育 98号』1998年10月
   
     国際シンポジウム「台湾植民地統治史研究の再検討」
   −1997年国際シンポジウム報告論集−
   
      〔台湾史・台湾研究関係〕
     殷允・著 丸山勝訳『臺灣の歴史』藤原書店 1996年12月
     喜安幸夫『台湾島抗日秘史』原書房 昭和54年11月
     James W.Davidson, The Island of Formosa,Past And Present (New York,1903)            黄昭堂『台湾民主国の研究』東京大学出版会 1970年7月
     伊能嘉矩『臺灣蕃政志』臺灣總督府民政部殖産局 明治37年3月                 林えいだい編『台湾植民地統治史』梓書院 平成7年9月 
   
     臺灣總督府鉄道部『臺灣鉄道史 上』明治43年     
     改造社版『日本地理大系−臺灣篇−』昭和5年
     新光社『日本地理風俗大系 第15巻−臺灣篇−』昭和6年
     日本旅行協會臺灣支部『臺灣鐵道旅行案内』昭和15年版
     日本合同通信社編纂『臺灣大観』(非売品)昭和7年12月     
   
     木村匡『大路公水野遵先生』
     安倍明義『臺灣地名研究』蕃語研究會 昭和13年1月
     矢内原忠雄『帝国主義化の臺灣』岩波書店 1988年6月
   
     劉・玲『台灣的社會動亂−林爽文事件−』久大文化股・有限公司 1989年4月
     李乾朗『台灣近代建築−起源與早期之發展1860〜1945−』 雄獅圖書股・公司 民国69年12月
     王啓宗『臺灣的書院』行政院文化建設委員會 民国73年
     史明『台湾人四百年史(漢文版)上 下』自由時代週刊社 1980年9月
     張炎憲・李筱峯・莊永明編『臺灣近代名人誌 第二册』自立晩報 民國76年元月
     台北市政府『台北市古蹟巡禮』台北市政府民政局 民国78年6月
     黄得時『臺北市沿革志稿』民国50年11月
     臺北市文獻委員會『臺北市志巻八文化志名勝古蹟篇』民国59年
   
      〔台湾教育関係〕
     台湾総督府『日本語教授書』明治28年11月(国立国会図書館所蔵)
     『臺灣ヘ育会雑誌』第1号〜第128号(復刻版)ひるぎ社 1994年10月
     臺灣ヘ育会『臺灣ヘ育沿革史』臺灣ヘ育会 昭和14年12月
     李春生『東遊六十四日随筆』福州美華書局活版 1896年
     蔡茂豐 学位請求論文『中国人に対する日本語教育の史的研究−台湾を中心に−』 1977年
     汪知亭『臺灣ヘ育史料新編』臺灣商務印書館発行 民國六七年四月
     鳥居兼文編『芝山巖史』芝山巖史刊行会 昭和7年(國學院大學図書館所蔵)
     見上保『台湾に於ける六氏先生の功績』自費出版 昭和52年12月
     上沼八郎「特殊研究二臺灣教育史」『世界教育史大系2 日本教育史U』講談社 昭和50年8月
     E.Patricia Tsurumi,Japanese Colonial Education in Taiwan,1895-1945 
            Harvard East Asian Series 88, Harvard University Press, 1977
     臺灣國語研究會『臺灣國語關係文獻目録』昭和16年5月
   
      〔伊沢修二関係〕
     臺灣ヘ育会『伊沢修二先生と臺灣ヘ育』昭和19年12月
     昭和三十年度委員会調査『伊沢修二先生年譜と資料目録』上伊那教育会 昭和30年
     伊沢修二『伊沢修二選集』信濃教育会 1958年7月
     伊沢修二『洋楽事始-音楽取調成績申報書-』東洋文庫188 平凡社 1971年6月
     上沼八郎『伊沢修二』吉川弘文館 人物叢書98 昭和37年10月
     高遠町図書館編集『伊沢修二−その生涯と業績−』高遠町 昭和62年10月
     埋橋徳良『伊沢修二の中国向図書の制作と出版と視話法』高遠町図書館資料叢書15 平成5年5月
   
      〔植民地・植民地教育関係〕
     黒田謙一『日本植民思想史』弘文堂
     『岩波講座近代日本と植民地 1−植民地帝国日本−』岩波書店 1992年11月
     『岩波講座近代日本と植民地 4−統合と支配の論理−』岩波書店 1993年3月
     駒込武『植民地帝国日本の文化統合』岩波書店 1996年3月
     日本植民地教育史研究会『植民地教育史像の再構成−植民地教育史研究年報1998年…01』皓星社 1998年10月
     石黒修『国語の世界進出−海外外地の日本語讀本の世界』厚生閣 昭和15年
   
      〔日本語教育史関係〕
     初等ヘ育研究會第二部『滿鐵沿線に於ける日本語ヘ授法の變変遷』南滿洲鐵道株式會・地方部學務課 昭和八年三月
     木村宗男『日本語教授法−研究と実践−』凡人社 1982年5月   
     関正昭『日本語教育史』私家版 1990年3月
     関正昭『日本語教育史研究序説』スリエーネットワーク 1997年6月
     関正昭・平高史也編『日本語教育史』アルク 1997年4月
     講座『日本語と日本語教育−第15巻日本語教育の歴史−』明治書院 平成3年6月
     朝日新聞社『国語文化講座第六巻 国語進出編』昭和17年1月
     国語文化学会編『外地・大陸・南方 日本語教育実践』昭和18年9月
     山口喜一郎『日本語教授法概説』昭和16年(復刻版)冬至書房 1996年
     山口喜一郎『外国語としての我が国語教授法』新民元社 昭和8年(復刻版)
     山口喜一郎『日本語教授法原論』新民元社 昭和18年(復刻版)冬至書房
     中村忠一『日本語教授の領域』目黒書房 昭和18年
   
     〔論文・その他〕
     岩波講座『日本歴史 15近代2』岩波書店 1976年1月
     岩波講座『日本歴史 16近代3』岩波書店 1976年6月
     近藤純子「戦前台湾における日本語教育」 講座『日本語と日本語教育−第15巻日本語教育の歴史−』     明治書院 平成3年6月
     近藤純子「芝山巖事件」『日本語教育60号』日本語教育学会 1986年11月
     岩本祐生子「伊沢修二と日本語教育」『日本語教育60号』日本語教育学会 1986年11月
     木村宗男「山口喜一郎−人物日本語教育史」『日本語教育60号』日本語教育学会 1986年11月
     上沼八郎「台湾における植民地行政史の一考察…「芝山巖事件」について−」『国立教育研究所紀要』
   1992年3月
     上沼八郎「台湾教育令制定由来(資料)について」−植民教育史研究ノート・その一−
     『高千穂叢書』 
     上沼八郎「台湾教育令制定由来(資料)について」−植民教育史研究ノート・その二−
     『高千穂叢書』
     上沼八郎「台湾における書房「教科書」と日本認識について」−植民教育史研究ノート・その六−
     『高千穂叢書』
     上沼八郎「部務ニ関スル日誌(承前)−植民教育史研究ノート・その七−」『高千穂叢書』
     関正昭「展望1997−日本語教育史−」『日本語教育94号』1997年10月
     鈴木明「初めて日本人が日本語を教えたとき−臺灣總督府芝山巖事件への一試論−」『季刊アステイオン 創刊号』
      1986年夏
   
      〔一般書籍〕
     鶴見祐輔『後藤新平傳−臺灣統治篇−』太平洋協會「出版部」 昭和18年5月
     日本郵船(株)『日本郵船(株)五十年史』昭和10年12月
     戴国輝 『台湾』岩波新書 赤41 1988年10月
     伊藤潔『台湾』中公新書 1144 1993年8月              
     黄昭堂『台湾総督府』教育社 教育社歴史新書<日本史>147 1981年4月
     毛利敏彦『台湾出兵−大日本帝国の開幕劇−』中公新書1313 1996年7月
     又吉盛清『日本植民地化の台湾と沖縄』沖縄あき書房 1990年10月
     又吉盛清『日清戦争100年台湾支配と日本人』同時代社 1994年6月
     又吉盛清『台湾 近い昔の旅−台北編−植民地時代をガイドする
     川村湊『海を渡った日本語-植民地の「国語」の時間−』青土社 1994年10月
     矢野一也『台北車站』新評論 1986年9月
     石井寛治『日本の産業革命−日清・日露戦争から考える−』朝日選書581 朝日新聞社1997年8月
     山住正己『日本教育小史-近・現代-』岩波新書 黄363 1987年1月
   
      〔日清戦争関係〕
     『日清戦争實記』博文館篇 明治27年28年刊
     陸軍参謀本部『明治廿七八年 日清戦史 第1巻〜第8巻』明治29年
     陸奥宗光『新訂 蹇蹇録』岩波文庫 1983年7月
     檜山幸夫『日清戦争-秘蔵写真が明かす事実−』講談社 1997年8月
     藤村道生『日清戦争-東アジアの転換点-』岩波新書 青D127 1973年12月
     大江志乃夫『東アジア史としての日清戦争』立風書房 1998年5月
   
     毎日新聞社『一億人の昭和史 13 昭和の原点 明治 中−富国強兵への道−
   
      〔参考地図〕
     「五十万分一 臺灣蕃地地圖」台湾総督府民政部蕃務本署 大正二年六月
     「臺灣學校分布圖」臺灣學事要覧大正五年
     「臺灣省通用地圖集」經緯文化図書出版社 民国77年
     「台北市街図」昭和15年版(復刻版)兼光社資料部 昭和61年
     「迪化街導覧圖」財団法人樂山文ヘ基金會 1988年8月
     「臺北市沿革志稿添付明治三十年臺北大稻・、・・平面圖」
     「院轄臺北市分區地圖」民国63年版
   
      〔その他〕
     「日本語教員の養成等について」(昭和60年5月13日、日本語教育施設の推進に関する調査研究会報告)「日本語教員検定制度について」(昭和62年4月10日、日本語教員検定制度に関する調査研究会)
     「日本語教育施設の運営に関する基準について」(昭和63年12月23日、日本語学校の標準的基準に関する調査研究協力者会議報告)
     「日本語教育推進施策について−日本語の国際化に向けて−」(平成5年7月14日、日本語教育推進施策に関する調査研究協力者会議