牛山町を取り巻くように南外山砦、北外山砦、宇田津砦の3つの城砦址があります。いずれも豊臣秀吉と徳川家康が対峙した
![]() 宇田津(歌津と書かれている場合もあります)の地名の由来について、不発橋(うたずばし)の脇に立てられている説明書きに、 「此地の由来は、往時宇田津という鞍作りの名工が、名古屋城築城の際、彼地へ移り住むにあたり祖霊を祀り宇田津明神と崇めた」 とあり、古くからこの地に宇田津という鞍作りの一族が住み着いていて、それが地名となったと思われます。 小牧長久手の合戦の折には、この宇田津一族の屋敷が砦として利用されたのではないでしょうか。 この当時の砦には、豪族の屋敷を利用して構築されたものが多く、 田楽城は、郷士長江平衛門の屋敷に、 南外山砦は、郷士堀尾孫助の屋敷に築かれました。 豪族の屋敷とは言え、そのまま砦に使えるわけではありませんので、牛山や近辺の村々から多くの人々が砦の構築に動員されたことでしょう。 本陣小牧山城は、天正12年(1584)3月22日に完成、宇田津砦、蟹清水砦、北外山砦は、翌23日完成しました。そして、27日夕刻家康が、29日に織田信雄が小牧山城に入り秀吉と対決するための体勢が整いました。しかし、秀吉に犬山城を奪われた 軍兵が田楽の伊多波刀神社に逃げ込み集まっていることを聞いた家康は、急遽篠木・柏井の村人2000人を動員し突貫工事で田楽砦を築かせ、 ![]() また、合戦記に、 神君ニハ田楽村ニ砦被仰付、又此所ヨリ小牧山ノ方へ新道出来、何レ小牧ヨリ蟹清水・北外山・宇田津・田楽へ往来ノ道ナクテ不叶故ナリ とあり、家康は、田楽砦と宇田津砦を繋ぎ小牧城に通じる軍道を作らせました。これが大縄手道です。 左の写真は、大正時代以前に撮られたものと思われますが、不発橋から宇田津砦跡を望んだものです。この宇田津砦跡は地元の人から地神の森と呼ばれ、大樹が生い茂るで森でした。現在は東海ゴム工業の敷地内になり、地神を祀る祠が残されています(下右写真)。この写真に見える道路は、家康が作った軍道の名残ではないかと思います。この道路は田楽と小牧を繋ぐ主要道路として牛山の人達にとって今日まで重要な役割を果たしてきました。 田楽、宇田津、北外山、小牧山を繋ぐラインは、秀吉軍と対峙した家康軍の最前線であり、背後にある牛山は戦略的にも重要な役割を果たしていたように思います。 宇田津砦の将は松平親乗が任ぜられ、家康が秀吉を追撃して小幡城に向かった後も牛山、外山を守備するために残ることになりました。 「合戦記」によれば、 先ツ小牧山ノ御留守居ニハ酒井左衛門尉忠次、其組ニハ ![]() とあり、松平親乗配下の1500人の軍兵が牛山周辺の守備に当りました。この軍兵の数から察すると、宇田津砦の規模は相当大きなもので、陣営は牛山に深く入り込んだものであった思われます。南外山砦と宇田津砦を繋ぐ重要連絡道は、牛山の北部を縦断しており、この合戦で焼かれたと言い伝えられている片山神社はその道路沿いにありました。おそらく、牛山を多くの軍兵が往来し、片山神社にも軍兵が駐留していたのではないでしょうか。また、昭和初期まで片山神社近辺の土地から多くの鉄鏃が見つかっていることから、町内でも弓矢による小競り合いが度々起きたことも事実でしょう。 言うまでも無く、「合戦記」に「神君・信雄ノ方ヘ兼テ随フ重立ツ人々」の一人として紹介されている丹羽作左衛門の屋敷も、後方陣地として何らかの役割を果たしたのではないでしょうか。
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