木曾街道と牛山村

 牛山町の西側をかすめるように、上飯田から小牧を経て犬山へ県道27号線が走っています。この県道は、現在の国道41号線が完成するまでは国道41号線(木曾街道)として、国道19号線(善光寺街道)と並び、春日井市内を通過する重要幹線道路であり、牛山の人々と深い関わりをもってきました。
 江戸時代初期の慶長17年(1612)、幕府から木曾山を拝領した尾張藩は、木曾方面にかなりの藩領と山林を領有することになり、名古屋と木曾を結ぶ街道の整備が必要となりました。
 元和9年(1623)、藩主徳川義直は、永禄6年(1563)に織田信長の小牧山城築城の折に小牧山南麓にできた町場を東麓の原へ移転させ、中山道へ抜ける街道と宿駅を開くよう御付家老成瀬隼人正を通して、小牧村の江崎善左衛門に命じました。この街道は、名古屋の清水から北へ進み、庄内川を味鋺で越え、春日井原、小牧宿を通り、途中、楽田追分で犬山へ行く稲置街道と分岐して善師野、土田の宿を経て中山道伏見宿に至り中山道に合流するものでした。小牧から北は、清洲城が藩の居城であった頃からの街道であり、道路幅を広げるなどの整備が中心でしたが、新設部分の味鋺原から春日井原一帯は無人の荒野を開く大変な工事でした。
 寛永11年(1634)、人馬継立てに必要な宿駅もほぼ整い、寛永13年には初めて中山道を通っての江戸参勤交代が行われました。この街道がいわゆる上街道(うわかいどう)であり、木曾街道とも名古屋往還とも呼ばれていました。
 この上街道は、尾張藩の「御自分往還」、つまり藩独自で私設した街道でしたが、道の両脇には松並木が植えられ、一里ごとに一里塚が両側に一対づつ築かれるなど、幕府の管轄する公道に劣らずよく整備されていました。街道の修復や、松並木を植え替え作業は近在の村々からの農民の労力によって行われていました。当然、牛山村の人々もこの作業に加わっていたことでしょう。小牧宿の機能は次第に整い本陣が設けられ、天明2年(1782)には小牧御殿の一角に小牧代官所が設けられました。また、無人の荒野であった味鋺原、春日井原一帯も藩の農民移住の奨励、用水や新田開発によって沿道の開発が積極的に進められてゆきました。
 小牧御殿は、藩主徳川義直が江崎家の所有地にお忍び御殿として建てたもので、自然の地形をを利用した土地に、素朴な造で、庭には「蟹清水」と呼ばれる小池があり、清水か湧き出ていたとのことで、現在は小牧市の指定定有形民俗文化財になっていいます。「尾張徇行記」によれば、御殿について「御座間ナト、至テ賃キトル様、突然トシテアリ。此ノ地南ニ金城ヲ望ミ、犬山城府へノ方角モヨシト也。庭中に蟹清水アリ」とあり、藩主の入鹿池巡視、小牧山巡視、鷹狩などの折、泊所として利用していました。
 宿には、一定の人足と馬を常備する必要がありました。これらの人足(伝馬人足)や馬は、宿およびその近在の村々から税の一種として徴発されていました。そのような義務を「寄付」と称し、五街道・脇街道の「助郷」に相当するものでした。小牧宿の寄付村は、寛文年間(1661-72)には23ヵ村、天和2年(1682)頃には24ヵ村に増え、さらに幕末のには51ヵ村なっていました。寛文頃の寄付23ヵ村には、大気(多気)村、青山村、如意村、豊場村、小木村、船津村、小針村、一ノ久田村、西之島村、間々村、三ッ淵村、二重掘村、村中村、北外山村、南外山村、牛山村、上末村、下末村、田中村、大手村、田楽村、文津村がありました。

木曾街道(小牧市史より)
 多くの人足や馬を必要とする大規模な通行があるときには、上記寄付23ヵ村の他に、加入馬村(可寄村)である坂場、大山、下原の3ヵ村からも人馬を出しました。馬継ぎは、こうした宿や寄付村の負担する人馬によって行われていたのでした。馬継ぎの荷物は、木曾からの桧皮・木具・畳表・あるいは中山道の宿で必要になった諸道具のうち、名古屋で調達されたものなど多様でした。
 宿継ぎは、次ぎの宿へ、小牧の場合は善師野宿、あるいは名古屋へ馬継ぎするのが原則でしたが、時としては中山道の御獄宿、鵜沼宿、美濃路清洲宿へ馬継ぎすることもありました。
 特に文久元年(1861)の和宮降嫁の際には、遠く中津川宿や大井宿あたりまで人馬を出しました。またこの時は、人馬ばかりではなく人馬小屋の建築用材、さらには寝具、食器類までが徴発されました。これらの大通りの場合はもとより、通常の馬継ぎでも小牧宿から善師野宿へ3里半、鵜沼宿へ4里、犬山へ3里、清洲へ3里、名古屋へは行き先によっては4里もあり、また寄付村から小牧宿までも遠い村では1里半もあり、時によっては二日がかりとなり寄付村にとってはたいへんな負担でした。
 これらの馬継ぎの人足や馬の使用は、証文のある公用の場合は一定数まで無量で運び、これを越えた場合は御定賃銭(おさだめちんせん)が支払われました。これは幕府が定めたものを基準にして尾張藩が定めた運賃です。一般の旅人や商人の荷物は相対賃銭(あいたいちんせん)という自由契約の高い運賃でした。つまり、問屋は相対賃銭による輸送で儲けた分で公用武士の無料分をまかなうという仕組みになっていました。しかし、上街道は、五街道の脇道であったため、尾張藩以外の諸大名の通行はほとんどありませんでした。主な利用者は尾張藩主、犬山城の家老成瀬氏を初めとする尾張藩士が主であり、また、尾張藩主の参勤交代は東海道が指定路でしたが、実際には上街道から中山道を通って江戸へ行くことが多かったようです。この経路は東海道より遠回りになりますが、尾張藩領を多く通行できるので好んで利用しました。このように、上街道の通行者は、問屋の収入にならない通行が主でした。
 これに比べ、名古屋より勝川、内津、池田を経て、中山道大井宿に至る下街道(善光寺参りによく利用されたことから善光寺街道とも呼ばれていた)は、名古屋から中山道へ抜けるのに上街道より距離が短く、善光寺参りの旅人はもとより、商人や公用役人までも利用するようになり、上街道を通る者がかなり減少し、上街道の宿はさびれかけてしまいました。そこで、藩は寛永7年(1667)に、藩士の公用旅行には下街道を利用することを禁じ、さらに元禄2年(1689)商人が下街道を利用して商品荷物を運送することも禁じました。藩は積極的に「御自分往還」の上街道を支援したようです。

2000/09/08
Revised 2000/09/09
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