今から約二百七十年昔のことです。享保四年(1719)三月三日、牛山の天神社の東隣で覚明さんは、
農業丹羽清兵衛と千代の間に生まれました。源助と命名され、八歳の時に尾張新川町土器野新田の
農家へ養子に行きました。それから、いろいろと苦労をつみ、三十歳になった頃でした。源助の家と
隣り合った阿弥陀寺にとう賊が入って、お金がぬすまれ、和尚さんが殺されてしまいました。真犯人が
なかなか見つからないので、近くの人たちは「源助があやしい」とうわさし合うようになりました。
全く身に覚えがなく何の証拠もないのに、仕事を断られてしまいました。その上に、近くの人たちは
誰も相手にしてくれなくなりました。そこで、いろいろとなやみ、考えた後に、ぼだい寺である清音寺
へ修行僧として入門しました。「道生」と名のって約四年間修行に励んでいましたが、ある日雲水として
修行の旅に出ることを決意しました。宝歴二年(1752)春で、道生が三十四歳の時でした。
美濃・尾張から京都・奈良へと三年の月日をかけて、巡拝修行を続けていた道生は、高野山で弘法大師 の偉大さに心を打たれてしまいました。しばらくの間、真言密教を学んでいましたが、大師が開かれた 四国八十八個所巡拝の旅に出かけました。断食・荒修行などきびしい密教修験者としての巡拝の旅は 、休むことなく暑さや寒さにも屈せず続けられました。四国巡拝は、第一回の宝歴五年(17755)以後、 七回も行われました。 ![]() 第2回 宝歴 8年(1758) 第3回 宝歴 9年(1759) 第4回 宝歴11年(1761) 第5回 宝歴13年(1763) 第6回 明和 1年(1764) 第7回 明和 3年(1766) 第七回の時、三十八番札所蹉陀山金剛福寺での修行巡拝を終わって、次の札所への道中、大木の 下で眠っていたときでした。かすかに夢か幻のような声がして、 「われは白川権現なり。今日までの修行まことに立派である。覚明の名を与えるから名のりりなさい。 守り石を授けるから、これを持って木曽御嶽山を民衆のために開いてあげなさい。」 はっと目覚めた道生は、目の前に守り石を見つけると、神のお告げを確信しました。その石を 聖ご石と名づけ覚明と改名して木曽御嶽山を目ざしました。時に明和三年(1766)四月十八日で、覚明 四十八歳でした。 途中、清音寺・土器野新田そして生まれ故郷の牛山村へ立ち寄り、市内桃山町あたりまで来たときでした。 立ち止まって遥かに牛山町の方角を振り返って見ました。この地は、「覚明塚」と呼ばれて国道155号線 沿いに現存しています。 内津峠から多治見・土岐を通って翌年の春、恵那山を拓り開き、山上で十七日間の断食修行をしました。 弱った身体でふもとの槙坂まできた覚明は、そこの茶屋の厚意で久しぶりにぐっすりと眠りました。翌朝、 店の主人から加子母村庄屋の一人娘が目を病んでいるから、診てやってほしいと頼まれました。そこで まだ至らぬ者だが、やってみましょうと、快く引き受け、娘を呼んで熱心に祈祷すると、七日目くらいから 娘の目が、ぼんやり見えるようになってきました。この話は、口から口へ伝わって大勢の病人が、 やってくるようになりました。覚明は、その一人ひとりを熱心に祈祷して直してあげました。いつしか三年 の月日が過ぎて御嶽山行者覚明の名は、中津川から木曽方面にかけて広く知れ渡っていきました。 木曽御嶽山は、三千六十三メートルの高い山で、木曽川の源でもあります。大昔から山頂に神様が 祭られている霊山として多くの人々に信仰されていました。しかし、登拝する者は、百日あるいは 七十五日間の重潔斎をしなければなりませんでした。それは、山麓の行場小屋にこもって、肉食を 断ち、水垢離(神を念ずるため、水を浴びてからだのよごれを取り去ること)をすることなどが課せられて います。このために、一部の人しか登拝ができませんでした。江戸時代になって、白山・立山など 各地の霊山が、一日あるいは三日の軽潔斎で登拝できるようになりました。しかし、御嶽山だけが、 尾張藩の掟で重潔斎を守っていました。木曽御嶽山を民衆のために開いてあげなさい、という神託を 実現するために茶店を出た覚明は、小坂村・王滝村・三岳村・開田村などへ出かけて行きました。そして、 きびしい修行に励むと共に、進んだ米・麦のつくり方、薬草の利用法を教えたり、病人の全治祈祷などを し、人々を助けました。小坂村では、大字大垣内の今井源右衛門宅と、大字落合の片岡吉蔵宅を宿にして 山岳仏教の将来のあり方を指導しました。開田村では、二千余アールの荒地を住民と共に開拓しました。 王滝村では、覚明膏・別の名をヒーローユと言い、油薬が大正時代まで利用されていました。 また一方では、山道の開発にも努力しました。民衆が登り易い経路をさがして雑木を切り、道づくりに 励みました。このような毎日の繰り返しで、いつしか十数年が過ぎていました。 ある日突然に掟をやぶって覚明が登拝したため捕らわれ福島番所へ二十一日も入れられました。すると、 日ごろ登拝に同行をしぶっていた人々が、かけつけて保証人になってくれ許されたことが、覚明だけで なくかけつけてくれた人々を勇気づけました。翌年七人の信仰者が同行して黒沢口から登拝しました。 天明六年(1786)六月八日のことでした。その年は二回目30人・三回目80人と登拝同行者がふえて、 ようやく覚明の真意が認められ、村人の協力も得ることができて、御嶽山の開闢に成功しました。翌年 七月二十三日登拝者数が数百人にも達しているのを見つつ御嶽山二の池ほとりで静かに大往生をとげました。 覚明六十九歳のときでした。 その後寛政四年(1792)王滝口より普寛が関東の信仰者と共に登拝しました。約二百年後の現在、 信仰者約五十万人、行者約一万二千人で、日本有数の全国的山岳宗教となってきました。年間登拝者 は、約二十万という盛況です。
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