春日井原の開拓と地名

「春日井風土記」より

江戸時代の初め頃の春日井市の西半分ほどは、春日井原と呼ばれる人の住めない広い荒野になっていました。
 そのころの春日井原のようすについて「林金兵衛翁伝」には次のように書かれています。 「春日井は西は豊場、東は上条、南は勝川、北は下原上郷にて、そのうち一里半(約6キロメートル)ほどには人家はもちろん、竹木一本も無い原にて・・略・・」
春日井原のおおよその範囲と(牛山町の範囲)を示すと右の図のようになります。
 春日井原の地形は図の点線のように、段丘によって南北二段に分かれています。
 上段は上原といい、東は南下原、北は小牧原へと続く小牧面と呼ばれる平地です。これに対して、下段は下タ原と呼ばれ、如意申、稲口から味鋺原に連なる鳥居松面と呼ばれる平地です。鳥居松面と小牧面との落差は約5メートルの崖になっています。
 ここでは、もとの春日井村(春日井原新田、如意申新田、長斎新田、稲口新田)を中心に、今も残っている地名の由来を紹介しながら、その開拓の跡をたどってみましょう。
 春日井原に最も早く人が住みついたのは、朝宮というところです。ここは昔から和爾清水(かにしみず)と呼ばれる大きな泉がありました。人々はこの湧き水を利用して水田を開きました。慶長13年(1608)の検地の時に、下田5.3町(約5.3ヘクタール)があったと記録されています。
 これが春日井原開墾の始まりであるといわれ、朝宮の田は上条村のものとされていました。
 元和9年(1623)に名古屋・小牧・犬山を結ぶ稲置街道(上街道)が、春日井原の西に開通して交通の便に恵まれるようになりました。
 翌、寛永元年(1624)、街道沿いの下屋敷の地へ如意村(現在の名古屋市北区如意)から安藤、小川の両家が移り(如意越し)、春日井原の下段の下タ原の湿地を開墾しました。
 そして、寛永10年(1633)、入鹿用水完成の頃春日井原上段の四ツ家(現在の四ツ家町)の地へ田楽から河村、梶田、長岡、長江の四家が入植(田楽越え)しました。入鹿用水の通水が本格的になると各地から人々が集まり、開拓が進められました。
 寛永17年(1640)、開拓農民から米三石(450キログラム)を上納した時、尾張藩主徳川義直候から春日井新田という村名を与えられたといいます。新田としての検地が行われたのは、寛文2年(1662)です。この時の村の田畑の合計は百町一反七畝六歩(約99.2ヘクタール)で戸数は56戸、人口は408人となっていました。
 「尾張徇行記」(1822)には、春日井原入鹿新田、上条入鹿新田の名がみられます。これは入鹿用水によって開拓が進められたところから付けられたものでしょう。
 春日井原の開墾が進み耕地が増加すると、水が不足するようになりました。そこで、慶安3年(1650)に木津用水が開かれましたが、まだ水不足の解消にはなりませんでした。
 この地方の新田開発が急速に進展したのは、寛文4年(1664)に新木津用水が開通してからです。寛文元年(1661)春日井原新田の南どなりの土地へ、新木津用水の完成を目当てに、如意村の人々が移住して開拓を始めました。そして、元禄の頃(1700年前後)には戸数が23戸になりました。この内訳は、如意村出身12戸をはじめとして、名古屋市小田井・比良、小牧市小牧・外山・南外山・大気・坂場、一宮市杉山、西春日井郡清洲、春日井市牛山町・稲口新田などの出身者11戸で構成されていました。享保元年(1716)の申年に検地が行われ「如意越し」の人々が中心であったところから、如意申新田と呼ばれるようになりました。
 如意申新田より少し早い万治年間(1658-60)の検地が行われ、文化年間(1804-16)の頃には、戸数22戸、人口96人となっています。
 その後、安永年間(1772-80)の頃、新木津用水の脇に味鋺の丹羽家、勝川の川瀬家の2軒が移住して開墾を始めたことから「二軒家」と呼ばれました。
 また、この地域では、干害をはじめ、病虫害、風水害などの記録が度々みられます。そして、米飯を主食とする者なく、ひえを常食としていました。凶作の年にはこれも不足し、麦の収穫も待てず、青穂を食べることもあったそうです。
 こうして開墾はされたものの、新田の農民の大部分は貧しく、小百姓は行商を行う者、農閑期に瀬戸へ薪割や土こねに行く者もあったといいます。
【注記】
 春日井原の開墾については「春日井市史」の近世・新田開発の項にも詳しく記述されています。

1998/08/15
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