天正10年(1582)、織田信長が、明智光秀の謀反により、長男信忠と共にその生涯を閉じた本能寺の変の後、羽柴筑前守秀吉は、直ちに明智光秀を討ち、信長の後継者としての地位を固めてゆきました。信長亡き後次男の右近衛権中将北畠信雄が清洲城主となり尾張を領有しましたが、織田家をないがしろにする秀吉の振舞いを快しとせず三河の徳川家康に助けを求め、同盟を組んで秀吉と対抗したのが小牧・長久手の合戦でした。
信雄が、背いて秀吉に接近した苅安賀城主以下の三家老(岡田重孝、津川義冬、浅井長時)を長島城内において暗殺したため、秀吉は直ちに伊勢に出兵しました。これに対し、信雄配下の篠木・柏井領主であった上条城主小坂孫九郎雄吉は長島へ、犬山城主中川定成は伊勢にそれぞれの軍勢を引き連れて出陣しました。天正12年3月13日、家康は清洲で信雄と会見し、機先を制して小牧山に陣を敷きました。一方、秀吉は3月21日に大阪を発ち、27日に犬山へ到着、ついで楽田に移り、小牧山に対陣、両先陣の小競り合いとにらみ合い

が続きました。これが
小牧山の合戦です。
牛山は予てより織田家の領地であり、牛山の住人
丹羽作左衛門は家康に随い参戦しました。戦国時代の農村では、名主とかおとなとよばれた土着武士の支配下に独立自営農民としての本百姓層、さらには家内奴隷としての下人層等の階層がありました。土着武士は、平時には農耕にも従事しますが、村落の治安防衛に当たっていて、戦の時には、上級支配者によって戦力として編成徴用されることもありました。また、土着武士は武力を持っているだけに、悪質化すると野盗となることもありました。丹羽作左衛門も、このような土着武士の一人で牛山村を支配していた名主であったと思われます。「合戦記」に、家康・信雄に随う重立つ人々の一人として記載されていることから、牛山村だけではなく他村にも及ぶ広い範囲を支配していた人物であったのかもしれません。
[牛山周辺の布陣] 「合戦記」より
神君ニハ田楽村ニ砦被仰付、又此所ヨリ小牧山ノ方へ新道出来、何レ小牧ヨリ蟹清水・北外山・宇田津・田楽へ往来ノ道ナクテ不叶故ナリ、出来ノ上番兵ヲ御指置カル、其時長良平左衛門ト云フ地士有リ、此者モ此所ヲ守ル、山口半左衛門ハ星崎ノ城ニ居タリシカ、出奔シテ後ニ信雄ニ随ヒ此所ヲ守ルト云フ、又宇田津、田楽ノ西、砦ハ田楽ト北外山トノ真中程也、敵方ノ二重堀ノ陣ノ真向ヒ、スレバ田楽ノ砦ハ至極ノ場ト聞ユ、故ニ新道被仰付、掛合ノ為メ又ハ往来ニ為メ也、此ノ新道ヲ今ハ大縄手ト云フ、、箇様ニ所々ニ砦被仰付、偖村々ニ於テ神君ノ御手先ニ随フ人々ニハ和泉・明知・神屋・内津等ノ地士也、神君・信雄ノ方ヘ兼テ随フ重立ツ人々ニハ長谷川伴右衛門・同六右衛門二重掘ノ住人・丹羽作左衛門牛山の住人等ナリ、又秀吉ノ方ヘ随フ重立ツ者九人アリ、其人々ニハ落合将濫上末ノ住人・其子庄九郎・前野源内源右衛門トモ田中村ノ住人・梅村五右衛門田楽村ノ住人・金地治右衛門外窪ノ住人、此者ノ子孫今ニアリ・今井田平蔵内外窪ノ住人・松浦総左衛門・同喜七郎本庄村ノ住人・柑子孫左衛門池ノ内ノ住人、皆地士也、此面々初メハ信雄方ニ心ヲ通ズト雖トモ、秀吉ノ大人数ニ恐レテ志ヲ変ジ秀吉ニ随フ、ドウシテ箇様ニ信雄ノ領分ニ居乍ガラ秀吉ニ随フカナレバ、秀吉ニ随ハネバ撫切リニスベシ、何レモ御目見ノ帳ニ付クベシトノ高札ヲ所々ニ立ツル故、軽シキ人々ナレバ是ニオジ恐レテ随フト也、箇様ノ将故ニ長久手ノ方ヘ人数ヲ向ケケルモ、此面々カ案内スル故ナリ
【注記】
「合戦記」は尾張藩の軍学者で成瀬隼人正の同心をつとめた神谷存心(1616-1729)の口述を門人が筆記したものです。
池田恒興・森長可等の進言を受け、4月6日夜、秀吉軍は楽田を出発、家康の本拠三河を襲うべく、篠木、柏井などを経て進撃しました。一方、家康は秀吉軍を追撃し、豊場村、如意村、勝川村を経て、4月9日、長久手に戦い、大勝を収めました。大敗を知らされた秀吉は2万余の軍勢を引き連れ、春日井原、関田、下津尾を経て長久手に到着しましたが、家康はすでに小幡城へ引き返していました。秀吉はすぐ竜泉寺城に入り、決戦を挑もうとしましたが、家康は早くも小牧山城に帰った後でした。残念がった秀吉は竜泉寺城に火を放ち、庄内川を渡り、関田から楽田へと引き返しました。この折、多くの神社・寺院が焼かれてしまいました。これが長久手の合戦でした。
[家康長久手出陣後の守り] 「合戦記」より
神君、信雄小牧山ヲ御発シニ付テハ、前後ノ御手配ナケレバナラズ、子細ハ、悉ク小牧山ヲ引払フテハ、秀吉楽田ニ控ユルニヨリ、イツ取掛カルモ不知、又御発シニ付テ御人数ヲ御率ナクテナラズ、スレバ前後ノ御手配入ル事也、先ツ小牧山ノ御留守居ニハ酒井左衛門尉忠次、其組ニハ松平与市家次・松平三郎二郎康親・松平又八郎家忠・松平与次郎家員・菅沼新八郎家盈・牧野新次郎貞成・鵜殿八郎三郎康忠等其勢三千、石川伯耆守数政オモ御残シ、其組松平源次郎親乗・松平左馬允忠頼・松平三蔵忠就・島田平蔵□□・酒井与四郎重忠・酒井与七郎忠利・内藤喜一郎家長・鈴木喜三郎重時等、共ニ其勢千五百、本多平八郎忠勝、其組松平勘四郎信一・奥平九八郎信昌・本多彦次郎広孝等也、是等ヲ一ノ手トシテ其勢六百、都テ五千余、小牧山・外山・牛山辺ヲ守ラセラル、信雄ノ軍勢爰彼処ニ残シテ余リ四千計リ、此内千五百御留守居ノ人数ニ加ハル、右ノ通リ段々小牧山御留守居ヲ指置カレ、然後同夜亥刻、神君、信雄ヒソカニ小牧山御発シ
長久手の合戦の後、再び両軍は小牧山と楽田に本陣を置き、対峙することになりました。二重掘の軍(いくさ)などの小合戦はありましたが、11月7日、信雄と秀吉の講和が成立、家康も秀吉と和を結び、同月21日に各砦も壊され、両軍は引き上げて完全に戦乱は終結しました。
牛山村の丹羽作左衛門・田楽村町柄平左衛門・長谷川伴右衛門・関田村千熊源右衛門等4人は戦が終わった後、小牧山城において家康より褒美として大判一枚を頂いたが、4人で一枚であったため、鉈で四つに切って分けたと云うことです。
[二重掘の軍] 「合戦記」より
四月二十二日子の刻ニ信雄人数を率シテ二重掘ニ趣キ、敵ノ陣営ヲ可討トノコト也、是亦如何ニト云フニ、二重掘ヘ出ルハ昼ノ内ハ彼方ヨリ掛カリテモ勝負モセサレバ、小牧山ヲ敵ガ恐ルルト信雄察シテ夜討ノ積リ也、此節二重掘ハ木村常陸介・神子田半左衛門・小寺官兵衛孝高播州姫路城主・明石与四郎之ヲ守リシ所ニ、存寄ラズ攻掛ケテ矢玉ヲ放チ掛クル故、信雄一人トハ不知シテ、神君ニモ御指向ヒト心得テ周章シ、大ニ騒キ立ツ、最夜半ノ頃ナレバ左モ可有、信雄出馬ニヨリ小牧山ヨリモ介ケノ為メトテ御人数指向フ、敵方ハ二重掘ヨリシテ段々人数指続キシニ依テ助ケナクテ叶ヌコトナリ、然ル処ニ神君ヘ兼テ随ヒシ地士白山村三宅仁右衛門是ハ出抜ノ頭也・田楽村長柄平左衛門・同六右衛門・牛山村丹羽作左衛門・関田村千熊源右衛門、是等之面々相図ノ鉄砲ヲ打チ或ハ篝ヲ焼ク其焼キシ場ハ田楽村ノ西北ノ田面去ルニヨリ人数引取リノ際殊ノ外都合ヨシ、是レ火ノ焼キ場能キ故ナリ、時ニ信雄人数大ニ働キ首数級ヲ得タリ、此時細川忠興二重掘ノ陣ノ騒動ヲ聞テ是ニ参リ、大ニ下知シテ働キアリ、此細川ノ働キニ依テ御味方ノ御人数段々引退ク、二重掘ニテノ働キハ細川ノ手計リ振合ヒ宜シ、此節細川参ラレズバ二重掘ノ軍サハ危カルベキトナリ
(中略)
右ニ申ス長柄・長谷川・丹羽・千熊ノ四人、信雄ヘ地形ノ案内ヲシタル故小牧山ヘ参リケル時、神君御褒美トシテ大判一枚被下ル、四人ニ一枚ナレバ、鉈ヲ以テ四ツニ割リテ頂戴ストナリ