織田信長は永禄3年(1560)今川義元を桶狭間に破ると、天下統一のため上洛の準備を始めました。まず彼は、三河岡崎城主の徳川家康と同盟を結んで、後方の脅威ををなくし、上洛の第一歩として、美濃の有力大名斎藤龍興を攻めることにしました。そのためには、近江の北部を支配する浅井氏と組んで斎藤氏を牽制することが必要でした。 ![]() 永禄10年(1567)、信長は予定通り斎藤龍興を滅ぼすと、北方の邪魔物であった朝倉義景に攻撃の鉾先を向けてきました。しかし、浅井と朝倉の盟約は父祖以来のものであり、信長と義理の兄弟であった長政としても、そう簡単に反古に出来る問題ではありませんでした。こうして、長政は朝倉と組んで義兄信長と刃を交えることになりました。 両者の戦いは一進一退を続けましたが、元亀元年(1570)、浅井・朝倉の同盟軍と織田・徳川の連合軍が、姉川で衝突し、浅井軍が敗北するにいたり、浅井氏の劣勢は明らかとなりました。そして、3年後の天正元年(1573)、長政の小谷城は、信長の大兵に包囲され、陥落しました。 長政と父久政は炎に包まれた城を枕に自刃しました。お市も夫と共に死のうとしましたが、長政はこれをとどめ、お茶々(後の豊臣秀吉の側室淀殿)、お初(後の京極高次正室)、お江(後の徳川秀忠御台所)の3人の娘と共に信長の陣に送りとどけました。また、長男万福丸とこの年に生れた万寿丸(幾丸、お市の本当の子か?)も落城の前日、ひそかに城をおちのびました。 この時、落城を前に、多くの女子供が城からおちのびて行きましたが、その中に長政の側室八重の方とその子七郎も雑じっていました。八重の方は、七郎君を連れて美濃に遁れましたが、元禄元年(1592)七郎君20才のときこの地牛山村に移り住み、慶安3年(1650)穏やかに世を去りました。爾来子孫はこの地に居住し庄屋の家として幕末まで続きましたが、9代新七は大正2年(1913)故あって神奈川県藤沢市に転居し今日に至っています。 浅井家の屋敷跡は、名鉄上飯田線間内駅の東側にあり、現在は、浅井長政の銅像が建てられています。
[牛山浅井家系譜]
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