【 地租改正と農民騒動 】

地租改正条例公布

 徳川幕府に代わって、近代国家への第一歩を踏み出した明治政府が、差し当たり解決 しなければならない問題に地租改正がありました。明治維新後も古来からの米納制度に従って、石高に応じ て規定の率を納租させ、貢納は米に限られていました。しかし、江戸時代には、各藩毎に年貢の取り方が 異なり、全国的に不統一で公平を欠き、且つ現物納であったため作柄によって年々の収入が 不安定でした。そこで、古来の米納制度を金納制度に改めることになりました。これが地租改正です。
 まず、これまで農民をしばっていた田畑永代売買の禁止、分地制限、作物制限などの封建的制約を 廃止し、土地の所有者に土地の私有を認定する地券を発行して、近代的な土地所有を確立する準備を 始め、明治6年7月に地租改正法が公布されました。愛知県では、明治8年8月に村役人を地券取調係に任命し地券の発行を開始しました。

地租改正実施に際しての上諭

上 諭
 朕惟フニ租税ハ國ノ大事人民体戚ノ係ル所ナリ、従前其法一ナラズ、實苛軽重率ネ其平ヲ得ス、 仍テ之ヲ改正セント欲シ、乃チ所司ノ群議ヲ採リ、地方官ノ衆諭ヲ盡シ、更ニ内閣諸臣ト辨論裁定 シ、之ヲ公平畫一ニ帰セシメ、地租改正法ヲ頒布ス、庶幾クハ賦ニ厚薄ノ弊ナク、民ニ勞逸ノ偏 ナカラシメン、主者奉公セヨ。
 明治六年七月二十八日

地租改正に伴う太政官布告
 今般地租改正ニ付、舊來田畑貢納ノ法ハ悉皆相發シ、更ニ地券調査相濟次第土地ノ代価ニ随ヒ、 百分ノ三ヲ以テ地租ト可ニ相定旨被仰出候絛、改正ノ旨趣別紙絛例之通可相心得、且従前官廳並 郡村入費等地所ニ課シ取立來候分ハ、總テ地価ニ賦課可致、尤其金高ハ本税金ノ三ケ一ヨリ超過 スベカラズ候、此旨布告候事。
 明治六年七月二十八日 太政大臣 三條實美

 ※以下「地租改正条例」七章添付

地租改正条例の要点は
@土地は一筆毎に地価を定め、地租は地価の百分の三(のちに2.5)とする。
A土地所有者に土地一筆毎の地券を交付し、地租は地主から金納すること。
でした。
 愛知県においても明治7年3月、当時の愛知県令鷲尾隆聚は、「愛知県告諭」に続いて「地租改正に 付心得書」を公布し、村役人を中心に反別の調査や絵図の作成を進めました。しかし、地価の算定は容易 に進まず、鷲尾に代わって福島県から熊本県士族の安場保和が着任し、明治9年 3月新たに告諭書を出して地租改正の手順を反別丈量と地価査定の二段階とすることに決めました。
 そのころ、政府は地価算定の基準となる収穫量、種肥料、農産物価格、利子率について、できるだけ 画一的に単純化する方針を指示していました。そこで、愛知県でも尾張管内の米価 を統一することになり、小牧村を含む13ケ所5カ年の平均をとって一律に定めました。つまり、 地価は収穫量の査定に集約されることになり、地域的条件は全く無視されることになたのです。
 収穫量の査定を行うにも、尾張管内230万筆の田畑宅地の査定は容易なこ とではありません。そこで考え出されたのが地位等級方式で、愛知県では明治8年6月に「地位等級 銓評順序」を公布しました。これは、村→小区→郡→國の四段階に分けて、一筆毎の村内等級、ついで 村位、郡位をきめ、これに定められた収穫量を順次当てはめてゆくやり方です。等級の査定は、 それぞれ下から選ばれた村・小区・郡・県の議員が当たることになっていました。ところが、実際には この規定がその儘実施されたわけではありませんでした。地租改正をめぐる農民騒動の中で、全国的にも有名な春日井郡43カ村の農民騒動は、地位等級の銓評をめぐる官民の対立から激しさを増してゆきました。

飢 饉 〜鎌止め令〜

 地租改正をめぐる農民騒動は激しく、地位等級の銓評をめぐる対立を強行打開するために出された「鎌止め令(稲の刈取りの中止)」の結果、関係各村は飢饉に陥り、発足したばかりの学校も休校せざるを得ない状況に追い込まれた。牛山学校も明治10年から12年までの3年間休校されていました。
林金兵衛はその惨状を
「今般ノ改租ニ付キ村民ノ極難ニ陥リ候程ノ事見ルニ不忍」「斯ノ如キ惨状ハ旧領主ノ時代ニヲイ テモ未ダ曽テ見分セサル所ナリ」
と日記に記しています。
 地租改正は村毎に戸長、改租係が村人を動員して地引帳を作成する仕事から始まりました。地引帳を作成する上で、官民有地の区分その他種々な問題はありましたが、それよりも監督に当たる県官の態度に問題がありました。 春日井郡改租係は、荒木利定で、夜中に松明をつけて調査を強行し「無二無三の取計」をしました。そのため、第三大区長であった林金兵衛は腹を立て辞職してしまいました。林金兵衛は、この荒木利定について 「是ハ生国肥後ノ國熊本ノ元足軽ノ由、珍ラシキ愚仁ニシテ県令安場保和ノ近親ノモノニ而、御用ノ 順序モ知ラサル程ノ者ニ而村々ニ而田畑宅地丈量ノ時無二無三ノ取計致シ夜中松明ニ而為取調候程ノ 事ナリ、実ニ理不尽ノ馬鹿ナリ。」と書いています。
 この後、県は大小区制を改正し、湯地丈雄(県令の娘婿、熊本県人)を第三区長に任命しました。土地 測量は明治9年9月に終了し、10月からいよいよ地位銓評に着手しました。選出された郡議員36名が 勝川に集まり、議長に林金兵衛を選出しました。ところが、その席上荒木はとつぜん村位等級の銓評を 迫り、規定をたてに一村内の先議を主張する議長・議員との間に激しい対立を生じました。ついに荒木は 湯地地区長と謀って「鎌止め令」をだし、収穫期を控えた農民を窮地に追い込み、県官の査定した 村位予定書の受諾をせまりました。

収穫禁止の命
 改租の儀に付、地位銓評収穫相定候迄、田方刈入一切不相成鎌止め可致旨、改租係より沙汰有之 候に付、刈取の儀固く差止候間若背き候者有之候はゞ、至急可申出候事。
 明治九年十一月六日 第三大区会所 印
 村々用係中


 この時のことを林金兵衛は、次のように記しています。
「全村ノ稲田方ニ熟シタルモノヲ押ヘテ其ノ収納ヲ妨ク、恰モ人民終歳ノ辛苦ヲ抵当シテ官ノ意志ヲ 達セントスルカ如キ無情刻薄ノ挙動ハ百千年來地方ノ口碑ニモ聞カサル処ナリ」
「鎌止め令」を見た村民の驚きはたいへんなものでした。せめて、自分達の食べる米だけでも と申出たが、それも許されませんでした。稲の刈取りも出来ず、麦蒔きも出来ずに30日が過ぎました。 一部の村では県の方針に従うより他はないと、請書提出を申出たましたが、全村一斉でないことを理由に 請書提出を申出た村についてのみ二分の一の刈入れが許されました。時は11月29日でした。
 議長林金兵衛の並々ならぬ努力によって12月18日に「鎌止め令」は解除されました。しかし、収穫時期を58日近くも過ぎた米は、鳥に食べられたり、霜や雪に打たれ腐敗しかけていました。また、50日余も 泥中にあった米は品質が悪く売ることもできませんでした。その上、季節が後れ、麦蒔も出来ず、農民の 当惑困難は察するに余りあるものでした。翌年の苗代では、苗田に種を蒔いても、苗が生え たのは6割しかありませんでした。尚、この「鎌止め令」が出されたのは、全国でも春日井郡のみでした。
 地位等級の銓評に従えば、江戸時代より50%も増税になるわけであり、とても承服できるものでは ありませんでした。愛知県における地租改正は田畑宅地については、明治10年5月に三河国が完了し、 尾張国もあくまで反対する春日井郡の4カ村(和尓良村、田楽村、牛山村、上条新田)を 除いて、同9月、一応終結しました。しかし、農民騒動はむしろこれから拡大していったのでした。

農民代表上京

 地租改正に対する農民の不満は治まらず、和尓良・田楽・牛山の三ケ村は、東京の地租改正 事務局へ直接嘆願することにし、林金兵衛を代表とする八名が上京の途についたのは明治11年 1月23日のことでした。牛山からは牛山村議員 惣代稲垣治平と同長谷川平左エ門の二名が加わりました。当時、東京へ行くということは大変なことであり、現在のヨーロッパ旅行にも匹敵するものでした。三村から四十名もの見送りが宮の渡しまで出掛け、牛山村からは、長谷川武平、長谷川熊蔵、稲垣長十郎、長谷川増右衛門の四名が参加していました。

当時の東京までの旅がどのようなものであったか、林金兵衛の日記より抜粋を紹介しましょう。

明治十一年十二月
二十八日早朝旅行届三区会所江差出、同日聞届済相成
 和尓良村 林金兵衛、小原弥平治、林磯右衛門
 田楽村 梶田喜左衛門、河田友三郎、鈴木信比古
 牛山村 長谷川平左エ門、稲垣治平
〆八人出京ス
一月二十八日夜十時より林金兵衛、梶田喜左衛門両名名古屋出立宮宿紀ノ国屋易右衛門方泊リ
一月二十九日早朝紀国屋に而八名相揃ヒ、是ヨリ桑名ヘ乗船、四日市ヨリ汽船ニ而東京ヘ行筈、出立 ノ節村議員二十三名宮宿ヘ見立トシテ罷出目出度盃ヲシテ出立ス
三十日チラチラ雪、午前九時宮ヨリ舟ニ而桑名ヘ乗リ、船チン壱人分増共雪フリニ付十壱銭五里
三十日午後三時桑名着、あつたやニ而小休
一月三十一日晴、桑名ヨリ四日市湊富岡屋仙二郎方迄人力車一人分ヅツニ而乗リ、午前第十一時着・・・ 今日三十一日午後六時乗リ込八時出船、
○社寮丸 長六十五間 巾五間
 (欄外)異人船人四人是ハ惣而差図ヲ為スコト親切ナコト十分、中等壱人前四円 五十銭ヅツ・・・下等壱人前三円ヅツ 風都合ニ而一日延引、二月一日午後六時乗込ニ相成
寅二月一日晴、今日午後一時汽船ヘ乗込ノ筈、小船壱船買切八人ニ而十銭、早ク船ヘ這入日ノ入乗込 同夜午前五時ニ乗リ出シ六時師崎湊ヘ着、御日出拝ム、同所ニ二日五時迄かけ五時出ぱん同夜之内遠江 ナダ五十里順風ニ而三日明方ニ伊豆ノ国大嶋江着、此嶋ハ海岸ヨリ十里ノハナレ嶋也、是ハ源ノヨリトモ 公ノ流サレ給フ嶋ニ而、此大嶋ニ而ヨリトモ公初而軍ヲ上ケ給フ所也、随分大キナ嶋也、湯泉有之 ケムリ昼夜トナク出ル嶋也、是ヨリ横浜ヘ三十里也
○三日午後横浜湊ヘ無難ニ着船相成、実ニ此ノ度海上ハ昨十年夏巳来ヨリ初メテノ静カニ而壱人モ船酔 候者無之、和尓良・田楽村・牛山村都合八人ハ不及申ニ、鎮台兵隊百名乗リ合、都合弐百五十六名程ノ 乗合ニ候、桑名船ヨリ楽ニ而十一年二月三日旧正月二日横浜湊ヘ着船、夫ヨリ直ニ  一時ヨリ小雨降る
○横浜弁天通二丁目西村新七方ニ而一泊、四日横浜見物、汽船三十船余湊ニかけ居其内軍船三艘是ハイ キリス船ト申コト、船付キノ躰裁実ニ見事其他異人カン初メ家作リ何レモ西洋造リニ而家作ハ不及申ニ、 庭木類等沢山植込立派ナ事ハ申迄モ無之実ニ咄シヨリ大造ナ事、町数ハ壱里四方程ト申事ニ而其町 々江カラス灯壱軒毎ニ建有之、異人ノ居ル事多分也
二月四日美晴、出立清助浅吉案内ニ而横浜見物、咄シヨリ大キナ事、実ニ肝ヲ潰シ夫ヨリ神奈川宿 迄歩行、神奈川ニ而汽車ニ乗込午後一時十五分(壱人分二十五銭ヅツ)、是迄両人送リ呉候、途中ニ 而新助ニ出逢弐拾銭申遣ス、清助浅吉ヘ両人江弍分ヅツ遣ス
東京新橋江午後二時十五分ニ着車
夫ヨリ馬喰町二丁目武蔵屋仁兵衛方ヘ三時着

 (以上原文通り)

 その後、中切・下津尾・下原新田の各村代表が上京合流、さらに同調する村落は次第にその数を増し、 総数43ケ村に達しました。上京した金兵衛らは、当時自由民権論者として名の高かった福沢諭吉に 援護を頼み、もっぱら地租改正事務局に対する合法的な嘆願運動に終始しました。しかし、3月の初願 も5月の再願も却下されてしまい、ようやく3度目の嘆願に対して、「村々協議の上公平の分賦」ができれば再調査もありうるとの指令がありました。半年間に及ぶ在京を終え、一行が四日市港に帰着した のは7月23日でした。四日市港では牛山村の長谷川武兵衛他3名が出迎えました。また、 熱田の港に帰着した代表一行を迎えた村民は、およそ二万人に上がったということです。しかし、一度決定した新租の変更は減租村の再協議反対に会いそう簡単にはできませんでした。
 こうして、運動が再び暗礁に乗り上げた明治11年10月、明治天皇の名古屋巡幸がありました。村民たちはここに直訴をはかり、4〜5千人が三階橋に押寄せました。この時は金兵衛らの必死の説得によって かろうじて事なきをえましたが、同時に彼等は一段と重い責任を負って再度代表として上京することに なりました。しかし、通算7度に及ぶ嘆願も空しく却下されてしまいました。国元ではたまりかねた村議四百余名が、大挙して上京を企てる騒ぎが起こり、また、村々で俄かに早鐘をつき、家ごとに竹槍を用意するなど不穏な動きさえも伝えられました。
 こうして、在京代表が、最後の瀬戸際に立って裁判所への訴訟による打開の道を苦慮していたとき、 新たに第三区長となった土器野新田の天野佐兵衛と第一区長吉田禄在の両名がひそかに上京し、金兵衛 の説得に当たりました。しばしば応接を重ねたすえ、最終的には旧藩主徳川慶勝より救済金3万5千円を 下賜すること、14年度からの地租改定の確約書を県から出すことの二つの条件で、反対運動を打ち切る ことに妥協が成立しました。明治12年2月4日のことでした。ここに世間の注目を集め、1年3カ月に及んだ農民騒動も事実上その幕を閉じることになりました。

1998/04/07
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