昭和20年7月17日から8月2日にかけベルリン郊外ポツダムにおいて、アメリカのトルーマン、
イギリスのチャーチル(途中からアトリー)、ソ連のスターリンが出席し、ヨーロッパにおける第二
次世界大戦の戦後処理について協定(ポツダム協定)を結びました。
また日本に対しては、昭和20年 7月26日、米・英・中(後にソ連も参加)の連合国が太平洋戦争の降伏を勧告するとともに、 戦後の対日処理方針(日本の領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国に よる占領などを規定)を明らかにし、13項目の対日共同宣言(ポツダム宣言)を発表しました。 一、 吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート、ブリテン」国総理大 臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ 機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ 二、 合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍 及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘ タリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ルマデ同国ニ対シ戦争ヲ遂行スル ノ一切ノ聯合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ 三、 蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナ ル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本 国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ 於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタ ル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾 等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ 四、 無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的 助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ム ベキカヲ日本国ガケッテイスベキ時期ハ到来セリ 五、 吾等ノ条件ハ左ノ如シ 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延 ヲ認ムルヲ得ズ 六、 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、安全 及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞 シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久 ニ除去セラレザルベカラズ 七、 右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコ トノ確証アルニ至ル迄ハ聯合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲 ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ 八、 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、 九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ 九、 日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且 生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ 十、 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメント スルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争 犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ 於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教 及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ 十一、 日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムル ガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為 スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支 配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サ ルベシ 十二、 前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和 的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日 本国ヨリ撤収セラルベシ 十三、 吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ 於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対 シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス 日本に対する連合国の最後通牒であった対日共同宣言(ポツダム宣言)を日本国政府は直ちには受諾せず、制海空権を失った日本の上空へ連日連夜爆撃機の大編隊が飛来し、 大都市のみならず地方の小都市までが焦土化してゆきました。 8月6日 広島に原子爆弾投下 8月9日 長崎に原子爆弾投下 同月同日 ソ連対日宣戦を布告 と、日本の敗戦は誰の目にも明らかでした。 昭和20年8月15日正午、ラジオで重大放送が行われ、大人から子供まで殆どの日本国民がラジオの前に集まりました。正午きっかりに放送は始り、天皇陛下の肉声で終戦(ポツダム宣言受諾)の詔勅が 流されました。難しい言葉ばかりの上に、雑音交じりの聞きにくい声でしたが、放送が何を告げて いるのかはよく分かりました。敗戦が近いことは、暗黙裏に了解されていたことであり、 放送を聞いていた人達には、戦に負けたのだという悲壮感は全く無く、むしろ、満州事変以来 15年に亘って犠牲を強いられてきた戦が終わり、これで全てが終わったのだという安堵感が漂っていました。 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル 爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ 排シ領土ヲ侵カス如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰巳ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戰 朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ 大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ 測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ 人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セム ヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ 朕ハ帝國ト共ニ終始東亜ノ開放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ 戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ 蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難 ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キオ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ大平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激 スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排儕互ニ時局ヲ亂リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム宣シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力 ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコ トヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ 御 名 御 璽 昭和二十年八月十四日 各国務大臣副署 終戦当時、牛山町には、後日西部中学校が開校された場所に在った陸軍航空隊兵舎の他に、 陸軍部隊が数箇所に駐屯していました。牛山小学校前の松林には 三角兵舎(陸軍の簡易兵舎)が建ち、麟慶寺、天神社、瑞臨寺、郷中の公会堂にはそれぞれ小隊 規模の兵士が駐屯し、牛山小学校には航空隊の通信班、郷中の「筵次郎屋敷」跡には軍馬が繋がれて いました。天神社に駐屯していた部隊は毎日計器を付けた気球を飛ばしていました。 終戦の日以降軍隊の対応は実に速やかでした。本隊が近くにあり引き上げて行った部隊もありましたが、殆どの部隊は駐屯地で武器を処分し帰還してゆきました。武器と言っても重火器は全く無く、小銃、機関銃、銃剣、それに弾薬程度でした。燃えるものは山積みにして燃やし、燃えないものは穴を掘って埋められました。弾薬も相当量埋められました。数日で町内の兵達は一人も居なくなってしまいました。 町内の人たちの生活は、終戦の前も後も然程変わることはありませんでした。農作業はいつものように 続けられていたし、学校も休むこと無く続けられていました。強いて変わったと言えば、毎日のように上空を 通過していったB29爆撃機の編隊や艦載機の飛来が無くなり、米軍の監視飛行が頻繁になったこと、 軍隊の姿が見えなくなったこと、軍に招集されていた人たちが帰ってき始めたことくらいでした。 しかし、終戦後の物不足や食糧難は甚だしく、食べることの出来るものは何でも食べた困窮の時代で した。 昭和20年9月26日、いよいよ愛知県にも占領軍が進駐してくることになりました。進駐軍がどのように進駐して来るのか、進駐 軍とはどのような連中なのか、全く分からず、新聞紙上には米兵による暴行事件や強奪事件なども 報道され、デマや噂が乱れ飛び、陸軍航空隊小牧基地に隣接する牛山町民の不安は、進駐前夜極限に達していました。然るべき 指示のあるまで待てとの町内会連絡はあったものの、各家庭では身の回り品を風呂敷きに包み、 占領軍を避けて逃げるための準備が始まりました。自害をするための剃刀を用意した人さえありました。 心配はないからとの連絡を受け家に留まったものの人々は眠れぬ夜を過ごしたのでした。 翌日、進駐軍はやってきました。名犬国道(旧国道41号線)を轟々と地響きを立てて北上する上陸用舟艇、 トラック、ジープの列を町民達は大山川の堤防から眺めていました。進駐軍は、噂とは違い、親切で陽気な 連中でした。それでも、進駐直後には米兵達は小銃を携帯していて、時々電柱の碍子や川原に転がってい る流木を標的に実弾を発射し、安心できる相手ではありませんでした。 牛山町は小牧基地(米第五空軍が駐留)の正門に面していたためか、米兵達はよく遊びに来ました。 また、町内の空き部屋を借りてオンリーさんと呼んでいた米兵の愛人達が住み始めました。この頃には、 もうジープで巡回してくるMP(憲兵)以外の米兵達は丸腰で町内へやってくるようになっていました。 敗戦の日以降、明治維新以来の日本国大改造が行われ、世の中の仕組みは大きく変わってゆくことになりました。
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