地主から土地を借りて耕作をしている農民のことを小作といい、その農家のことを小作農家といいました。小作農家では、地主に年貢米を出していました。肥料などの費用を払うと、収入として残る米はほんのわずかでした。そのため、食べる米を節約して売るしかしかたがありませんでした。当時の農家の食事は、米と麦の割合は半々か、4対6でした。おかずは、大根づけか青菜のつけものでした。みそ汁や野菜の煮付けがはいってくるようになったのは、昭和になり生活が少しずつよくなってきてからでした。
自分の土地を自分で耕作している自作農家では、自分で食べる米、肥料代などの費用を引いた残りの米は全部売ることができました。このように農家のなかでも、土地を持つか持たないかによって、貧富の差が大きく分かれていました。 今のように兼業農家は多くなく、ほとんどが専業農家ばかりでした。ほかの仕事につきたいと考えても、働く工場はありませんでした。一戸あたりの耕地面積は広く、鳥居松地区では1町歩以上耕作している農家が多くありました。しかし、このことは豊かさを証明しているのではなく、小作地が多く、多くの土地を耕作しないと生活ができなかったのが実情のようです。 ある集落100戸の農家では、地主階級(2町歩以上の土地)20戸、自作農(8反〜1町)25戸、自小作(1反〜5反)30戸、小作35戸に分かれていました。 当時の農家では機械化が進んでいないので、もみすりがかたづくのは12月下旬でした。寒い1月の寒(かん)のころが、地主との年貢米の交渉です。年貢米をおさめて、旧暦の正月を迎えるのです。 この集落では年貢米の基準は、1反(10アール)について、上田(2毛作田)で3俵、水田2俵半、畑2俵から2俵半でした。台風や病虫害による不作の年は、決められた年貢米を収めることは小作農家にとり死活問題でした。地主は、日露戦争の戦費のために地租が低くなっていないことを理由に多くとろうとします。小作の方は、少しでもまけてもらおうとします。ここに団体交渉による話し合いが行われることになります。 相談の場として地主らは寺の書院座敷を利用しました。地主の人たちの服装は、絹の着物の上に丹前という綿入れの防寒具を身に付けていました。小作の人たちの中で、地主らの相談を盗み聞きするため縁の下にもぐった人もあったようです。 小作の人たちは、こんももひきに仕事はんてん、子守胴着を着て、土間で交渉するのが普通でした。ある不作の年に、 「年貢米をへらしてもらえないのなら、小作地をかえす。」 と地主に言うと、地主は、 「11月にまいた麦を土をつけずに一粒残さず、拾い取って土地をかえせ。」 と難題をつけました。小作の人は困って、男泣きに泣いたということもありました。このように小作料引き下げの交渉は、大正から昭和の初めにかけて毎年行われてきました。 鷹来村大字牛山では、大正11年、小作人が共同して収穫前に全耕地の返還を申し出て、名古屋市に労動隊を組織してでかせぎに出る気勢を示しました。この時には地主側が折れて、小作の人たちの要求を認めたうえ小作地50町歩に対して。1,000円を出しました。 勝川町大字柏井上条新田では、大正11年、小作人45名が小作料の永久2割減額を要求して、耕地全部を地主に返還しました。これに対し地主側は、一時の対策として自作化の方法をとりました。柏井の地主会である愛農会が人夫をやとって耕作を始めました。このことがきっかけとなり、こうした、地主側の対抗策が全県に広がりました。 昭和3年に、全国的な農民組合の結成をみました。昭和4年、東海農民組合を中心に全日本農民組合同盟愛知県連合会が結成されました。組合員は東春日井・西春日井・丹羽3群の小作と自作1,084名でした。春日井地域では、大字春日井223名を中心に、牛山・松河戸・篠木・八田など3,000名近くが参加しました。 これまで集団で地主の家に押しかけ、投石などの乱暴な行動にでることもありましたが、組合成立後は代表による団体交渉にかわりました。地主側の切り崩しもあって、大字春日井では組合員が一時70名近くに減少しました。それでも、おおむね地主側の譲歩をかちとることができました。 大字春日井地区では、小作人が延米(のりつき)の廃止を要求して、地主と対立しました。米を1俵たわらにつめても目方をはかると不足したりするので、その手数料として、年貢米の1割を余分に納めたのが延米です。1町耕作していれば、一人分の1年中の飯米にあたる量の延米をだしていました。長い間の対立も、組合ができた昭和3年に要求が通り、春日井地区では延米が廃止されました。 松河戸地区でも延米の廃止をめぐって、昭和3年から12年まで小作争議が続きました。地主と小作がほぼ同数であったため、話し合いがなかなかつかず長引きました。調停のため裁判に持ち込まれましたが、最後には地主側が折れて解決しました。 どこの集落でも、地主中心で区の行政は行われていました。自作農が参加するようになったのは、大正時代になってからでした。小作人がなくなり、すべて平等な行政になるまでには、戦後の農地改革をまたなければなりません。地主と小作の制度は、戦前の日本の農業に大きな影響をあたえていました。
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