日本における近代的な学校教育制度は、明治5年の学制発布から始まりました。この時の明治政府
の布告には「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」とあり、その内容としては
一、立身出世の基礎は学問にある。 二、教育は徳育・智育・芸育に分けられる。 三、教育は国民全般に施されるものである。 四、実用の学を身につける。 五、学費その他の費用は各自が負担する。 などがその柱として盛り込まれていました。この学制は、近代国家建設を目指す明治政府の教育方針が明示されたものでした。 全国を8大学区に分け、これをさらに人口13万人を標準に中学区に分け、1中学区はさらに 人口600人を標準に小学区に分けられました。学費は、貧富に応じて9等級に分けられ、各戸 から徴収されました。 学制発布を受けて、愛知県では、さしあたり県内に600の小学校を置くことに決め、明治7年5月までに全数開校を目指して準備を始めましたが、その多くは、お寺や神社をそのまま校舎に使うことになりました。春日井市内では、一先ず次の14の小学校が明治6年に開設されました。 竜源学校(勝川村) 興進学校(味鋺原新田) 知新学校(田楽村) 耕餘学校(牛山村) 一党学校(上条村) 三明学校(神領村) 時習学校(下原村) 文明学校(上条新田) 隆旺学校(春日井原新田) 正道学校(久木村) 貫道学校(関田村) 瑞現学校(西尾村) 正賢学校(一色村) 三省学校(玉野村) 当時は、農民の子に教育は必要無いという観念が強く、就学率はまだ半分にも満たなかったのが実状でした。その後、校名はすべて村名を称するようになり、授業料は大部分が無料となりましたが、校舎の建設はほとんど進まず、生徒数は逆に減少してしまいました。とくに、地租改正をめぐる農民騒動をきっかけにその後の深刻な窮乏と あいまって、明治14年の調査では春日井地区で16校中なお9校が閉鎖していました。牛山学校も明治10年から12年までの3年間休校となっていました。 やがて、明治19年に小学校令が公布され、この年に第一高等小学校が上条新田に設立されました。 また明治23年に新小学校令が公布され学校教育制度の基礎が確立されるとともに、教育勅語 によって教育の大方針が樹立され、施設もしだいに整備されてゆきました。この間、小学校の 就学率も次第に増加し、明治末には98%に達しました。 爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ヲ遵ヒ一旦緩急 アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミ ナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ 明治二十三年十月三十日 御名御璽 牛山村では、明治6年9月24日に瑞林寺にあった寺子屋が校名を耕餘学校と改め、牛山・大手・大手田酉新田・田楽新田の4村を学区として瑞
明治22年10月1日には、町村制の施行により牛山・大手・大手田酉新田・田楽新田の4村が 合併されて片山村になると共に、学校名も片山学校となって再び上記 4村を学区とすることになりました。その後も、校名は、片山尋常小学校(明治25年 、学区は牛山一村)、鷹来尋常小学校 (明治42年)、牛山国民学校(昭和16年)、牛山小学校(昭和22年) と変えられてきました。 明治26年の校地移転と校舎の新築は記憶すべき事業でした。耕餘学校開校以来20年間に亘って瑞林寺内にあった小学校は、牛山町1920番地(平成10年現在小児プールとして活用されて いる)に建坪58坪3教室の校舎を新築し、明治26年4月1日の新学期から新校舎での授業が 開始されました。その後、明治43年に1教室(22坪)と運動場拡張が行われ、明治33年8月には
大正4年に忠君愛国の思想浸透の為に、天皇陛下と皇后陛下の写真(御真影と言った) が奉られた奉安殿が各学校に建てられました。鷹来尋常小学校にも大正4 年11月18日に奉安殿(3坪)が建立されました。大正8年頃撮影された学校の写真の中央左寄り木立の 中の小さな建物が奉安殿です。生徒は毎朝通学団毎に隊列を組んで登校すると、先ず最初に奉安殿の前に整列し 通学団長の号令で最敬礼をしてから教室に向かいました。 太平洋戦争も終りに近づいた昭和18年頃から学校の様相も大きく変わってゆきました。学校 前の松林には三角兵舎と呼ばれる陸軍の簡易兵舎が立ち並び、職員室横の宿直室には航空隊の通信小隊 が無線機器を持ち込んで常駐、運動場は芋畑になってしまいました。町内の寺、神社、公会堂等 には陸軍の騎兵隊が馬を連れて駐留していました。米軍機の来襲爆撃も日増しに激しくなり、都会の戦禍 を逃れて疎開してくる家族の増加により、牛山国民学校の学童数は昭和18年の127名が、 終戦の年の昭和20年には206名と大幅に増加しました。
|