縄文時代の牛山

平成に入るまで牛山を中心とした地域における古代遺跡は、田楽遺跡の石斧と北外山の銅鐸二つだけでした。
牛山町周辺の古代遺跡分布図
これらの発見も、根拠があって調査発掘されたものではなく、全くの偶然から発見されたものでした。
田楽遺跡の石斧は、田楽町権現の道路工事の際偶然発見されたもので、「乳棒状石斧」と呼ばれているものです。この乳棒状石斧は、縄文時代中期以降に多い石器で、木を伐ったり割ったりするのに使われたものであろうと言われています。
また、北外山の銅鐸も、大正4年に北外山神社横の畑から偶然に発見されました。銅鐸としては、本来の吊り下げて鳴らす機能を持つ古い形態で、愛知県から出土した銅鐸の中では鈕の形から最古の段階のものと言われています。
こうした古い出土品が牛山近辺から出ていることや地形の成り立ちから、この地域一帯には古くから人が住んでいたであろうと言うことは以前から予測されていました。
しかし、この地域の古い時代のことについての世間の関心は薄く、歴史上の新しい発見も無く時は過ぎて行きました。
ところが、平成15年に名鉄小牧線と名古屋市地下鉄が連絡、相互乗り入れが実現することになり、
南外山内方前遺跡発掘現場
(小牧市教育委員会説明資料より)
沿線の市街化が急速に進み始めました。同時に、平成初年度頃から小牧南土地区画整理事業が着工しました。この宅地造成の進行と平行し小牧市教育委員会により遺跡詳細分布調査や遺跡範囲確認調査が行われ続々と古代遺跡が発見されました。また、公共道路建設予定地や保存不可能な場所については、本格的な発掘調査が行われ遺跡の詳細が明らかになってきました。
平成15年現在までに発見された遺跡は、下に列挙した9つにのぼっています。この中には未だ詳細な調査が行われていないものも多く含まれています。

1.内方前遺跡

 弥生時代末から古墳時代後期に属する竪穴住居14軒が確認されました。詳細は、弥生時代末期から古墳時代中期(3世紀前半〜4世紀後半)のもの10軒、古墳時代後期(7世紀)のもの2軒、時期不明のもの2軒です。このことにより、古墳時代には、途中空白期間があるものの、この地において集落が営まれていたことが分かりました。
2.桜井山遺跡
 弥生時代から古墳時代・中世の集落跡が発見されました。
3.城島遺跡
4.南外山北浦遺跡
5.北外山南屋敷遺跡
6.南外山城跡
南外山東浦遺跡発掘現場
(小牧市教育委員会説明資料より)
7.南外山東浦遺跡
 縄文時代中期(約5000年前)から中世(鎌倉・室町時代)にかけての遺構・遺物多数が発掘確認されました。
古墳時代初頭の溝の埋土からは多数の土師器が出土しました。出土した小型壺の底に孔が開けてあるものがあり、これは、お墓に供えたり、祭祀を行う際に使用される土器の特徴であることから、この溝が墓(周溝墓)の一部である可能性が高く、古墳時代初頭には、この周辺が墓域であった可能性があります。
平安時代の柱穴、溝、井戸などの遺構と須恵器や灰釉陶器などの遺物も多数発見され、掘立柱建物と塀または柵列が確認されました。特に注目されるのは、堀形のある柱跡が見つかったことです。これは、寺院や官衛(古代の役所)を建てる際の建築技術で、この遺跡は、単なる集落とは異なる性格・役割のもので寺院や役所が存在した可能性もあります。
8.南外山佃遺跡
9.浜井場遺跡
 この遺跡は、洪積台地(小牧面)と大山川が形成した沖積地の境界の大山川に沿ったやや小高い土地に形成されており、縄文時代早期の遺構や弥生時代中期の竪穴住居跡等の遺跡が発見されました。弥生時代中期住居跡の下層からは縄文時代早期前葉の遺跡が発見されました。注目されるのは、煙道付炉穴で尾張地区では始めての発見であり縄文時代早期の人々が調理を行った跡であることが判明しています。

これらの縄文・弥生時代遺跡は、木曽川によって削られた土砂が堆積して形成された小牧面と呼ばれる標高約20メートルの洪
竪穴式住居を作る人々:縄文時代
(学研の図鑑「日本の歴史」より)
積台地が半島のように張り出した段丘崖に沿って形成されたものと思われます。
この半島型台地は、東端に肥沃な大山川の沖積層と接し南北外山及び牛山の北西部を包み込むように形作られており、古来からこの半島型台地全域が一つの生活圏を形成していたのではないでしょうか。
今日に至るまで遺跡があるかも知れないと思われる牛山地区北西部は古くからの家や畑で覆われており、全くの手付かずの状況で、その表土の下にどのような遺跡があるのかは全く分かりませんが、その地形や外山地区の遺跡分布状況から判断して南北外山及び牛山の北西部を一つの生活圏として考えることはそれほど無理な推測ではないような気がします。
平安時代中期成立の和名抄によれば、春日部郡には、池田、柏井、安食、山村、高苑、余戸の六郷があり、山村郷というのは、内山及び外山を汎称していたとのことです。この内山は、現在の牛山で内山の転語であると言うのが通説になっており、牛山と外山は平安時代には一つの生活圏として存在していました。南外山東浦遺跡で発見された平安時代の役所と思われる遺構は、この山村郷を治める役所であったのかも知れません。
外山に縄文時代の遺跡が発見されたことにより、牛山の古代に対する夢も益々膨らんできました。
稲の取り入れ:弥生時代
(学研の図鑑「日本の歴史」より)
今から遡ること約二万年、最盛期を迎えた第三氷河期と呼ばれる時代、海水面は現在より100メートルも低いところにあり日本列島は弓状になって北と南が大陸とつながっていました。しかし、地球の気温上昇により海水面は次第に高くなり、縄文時代前期にかけて海岸線は内陸に向って後退を続け、縄文時代前期頃の海岸線は、現在の等高線10メートル付近であったと考えられています。この等高線10メートルをたどってみると、味鋺、如意、豊場から岩倉あたりになるのではないかと思われます。
豊場と言えば、現在の名古屋国際空港ビルの辺りになり、牛山とは南西に向って目と鼻の先、牛山周辺に住んでいた縄文人たちは、小牧面の段丘崖に沿って建てられた住まい屋の庭先に立って間近に海を眺めることが出来たのではないでしょうか。
牛山には最も関わりの深い大山川沿いの浜井場遺跡では、煙道付炉穴は9基、集石土壙3基、焼土面4ヶ所が発見されており、縄文時代早期の人々が調理を行った跡とわかりました。 煙道付炉穴は、細長い半地下式の構造で、底から火を焚いて先端部は煙突状になっていたと思われるもので、科学分析によりイノシシやシカの脂肪酸が確認されたものもあり燻製施設と考えられています。 また、焼土と集石土壙(焼石が詰まった直径1mほどの穴)の組み合わせは、焚火の中で熱した石を肉や魚などと一緒に土の中に埋めて、蒸し焼きを行った跡とみられます。
未だ狩猟、漁撈、採集など原始的な生活を送っていた縄文の人たちにとって大山川沿いのこの地は、東部に広大な丘陵地帯(田楽面)を、南には大山川の河口を擁した海が広がり、生活の場として絶好の場所であったのかも知れません。
弥生時代に入り、大陸から水稲耕作が伝わってくると、牛山を含むこの地域は、大山川の水と大山川が運んでくれた肥沃な土地の恩恵を受け、眼前には豊な水田が広がり、豊な農村としてこの地域の発展を支えてきたことでしょう。


2003/05/15
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