西部中学校開校

 昭和20年(1945年)8月15日の正午、昭和天皇の玉音放送によって長く続いた戦争は終わりを告げることになりました。日本は連合軍の占領下に置かれ、日本の民主化と非軍事化を基調とする連合国総司令部(GHQ)の方針により、戦後の諸改革を断行してゆくことになりました。占領政策の中でも教育の改革は大きな柱として位置づけられていました。
 昭和22年に「教育基本法」及び「学校教育法」が制定され、今までの教育勅語に代わる新しい教育理念が打ち出されました。そして、昭和22年4月から6・3・3制の導入と男女共学、9年間 の義務教育が行われることになりました。全国の市町村で新制中学が誕生し、春日井市においても、西部中学校と東部中学校が開校されました。  昭和22年4月1日から即開校とは言っても、世の中は困窮のどん底にあり、校舎も無ければ教室もありません。それでも、占領軍の鶴の一声で否応無しに新制中学は開校されました。東部中学校は弥生町の補給廠跡の倉庫と八幡小学校西の軍用バラック、そして鳥居松小学校裏の校舎の三個所で開校されました。
 西部中学校は、鷹来小学校・牛山小学校・春日井小学校・味美小学校の4小学校区を校区とし、 牛山町2426番地(現在のサンクス鰍フ所在地)にあった陸軍兵舎跡に開校されました。 この兵舎の大ホールは、(兵舎から数十メートル離れたところに小牧飛行場があり、米第五空軍の司令部が置かれていたため)連合軍進駐直後暫しの間将校の社交クラブになっていました。西部中学校の記念すべき 開校式と始業式は、4月18日に行われました。しかし、終戦未だ日も浅い当時、仮校舎の荒廃した淋姿 は正に敗戦の世相を如実に写し出したものでした。窓ガラスは壊され、室内は落書きで埋められ、 めぼしい物はすべて持ち去られ、雨漏りの個所も数知れず、机一つないガランドウの荒屋に五百人の 師弟は茫然として手を下す術も無い有様でした。井戸枠の上に戸板を運び即席朝礼台をつくり、開校第一回 の入学式、職員紹介式が挙行されました。

「西中三十年のあゆみ」より先生・卒業生の思い出
開校の日
 僕等の通学の時は、牛山の旧兵舎跡の荒果てた草むらの中に屋根は杉皮、壁はなくて板ばかり。窓ガラス は一枚もない建物が六棟もあったのを四棟だけ学校として使用しました。
 昭和22年」4月18日、午前10時に開校式並びに始業式が行われ、これが西部中学校最初の日で 永久に記念すべきです。当日の模様は、4小学校から集まった生徒が小学校別に並びました。先生も わずか17名で、丁度校舎の前にあった古井戸の上に戸をのせて、眼鏡をかけた小柄な先生が上がられ、 「私が校長の宮崎です。」と言われ、それから各先生方の紹介があり、学年別に分かれて教室へ入りま した。
 中へ入ってみると、外で見た以上にひどく、床板は一枚置き位になく、天井はほとんどなく、中には 半ば落ちかかっているあぶないものもありました。面白いことには、三つくらいの押し入れがついて いたり、また、一同土足のまま入ったりすると、学校といった気持ちが全くしません。翌日からは ペンの代わりに金槌、釘を持って、朝からカンカンと教室をつくり、女子はのりを煮て窓に紙を貼り ました。また、床板の多く破損しているところは、むしろを敷くといった有様で、やっと教室が出来たが、 机も無ければ黒板も無く、教科書さえも無いため、毎日先生のお話や、教室、運動場の整理でした。 やっと6月になって、二人で机が一つの割合で入り、教科書も配布され、ようやく授業らしいことが 始りました。

あのころの牛山
 あの牛山校舎は、戦中、国土防衛の拠点であった小牧飛行場のすぐ東隣、かっては、つわものたちが 仮寝の夢を結んだ陸軍航空隊兵舎であり、戦後、そこには師範学校女子部が仮住まいしていました。 ベニヤやトタンの仮設の建物ではありましたが、三度にわたってその中に、それぞれ異なった歴史的 ドラマを展開させてくれたのでした。
 新円切り替え、預金封鎖、インフレ、食糧難、ゼネスト、新憲法発布等々と、激動と混乱の時代に、 飛行場に近い牛山は、陽気な進駐軍兵士や色あざやかな服装の家族たちが町を行き交い、新時代の波が いち早く押し寄せてきたという感じがしたものでした。
 新しい出発、新教育の声のもとに、PTA・コースオブスタディ・トライアウトスクール・ カリキュラム・ユニット等々耳新しいことばの氾濫でした。指導要領試案には、こんな一節が示されて いました。「いまこの祖国の新しい出発に際して、教育の負っている責任の重大であることは、 いやしくも教育者たるもののだれもが痛感しているところである。われわれは児童を愛し、社会を 愛し、国を愛し、そしてりっぱな国民をそだてあげて、世界の文化の発展につくそうとする望みを 胸においてあらんかぎりの努力をささげなくてはならない。」と。わたくしたちは試行錯誤の 日々の中に、展覧会・運動会・遠足・研究授業・自治会等々と、次々に実施していったものでした。

 新学期が始まり、生徒達がやらなければいけなかった最初の仕事は、各出身小学校へ行き、余ってい
【完成した新校舎】
昭和25年全学年移転完了
る机や椅子を貰ってくることでした。遠い学校では4キロの道のりを歩いて机を運びました。家からマンノや鎌、鍬を持って来て運動場の整備もしました。教室の床には家から持参した筵を敷いて風を防ぎ、雨の日には教室や廊下に雨受けのバケツが並び、傘をさして授業を受けた教室さえありました(当時の様子が中日新聞に報道されたこともあります)。
 この、懐かしい牛山校舎にも数年で別れを告げることになりました。宮町の薩摩芋畑の真中に新校舎 (第1号校舎)が落成し、先ず3年制が移転したのが昭和23年12月7日のことでした。翌24年 5月31日に2号校舎が完成し2年生の移転が完了。25年2月1日に3号校舎が完成、1年生全員が 移転完了をしたことで牛山校舎からの引上げが終了しました。

1998/04/07
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