急膨張する牛山小学校

昭和30年代の終わりから昭和40年代中ごろにかけては、農村であった牛山が住宅地へと大きく変わっていった時代でした。一面の田園風景に覆われていた牛山のど真ん中に大きな工場が誘致され、田園を埋め立て新しい住宅団地が次々と造成されてゆきました。
   昭和39年、東海TRW、春日井製菓
   昭和40年、柳坪団地
   昭和42年、さつき台団地
   昭和43年、寺田団地
   昭和44年、あかつき台団地
昭和35年に、365世帯1616人の人口が昭和45年には、1562世帯5973人にまで急増しました。当然、子供の数も急膨張し、牛山小学校の生徒数がピーク時の昭和51年1183名に向って急カーブをえがいて増え始めた時期でもありました。
この当時牛山小学校の校長先生をしておられた田中健先生が著書「拙ない記録」の中に「牛山小学校時代」と題しての興味ある一章を設けておられます。先生が身の回りに起きた出来事を日記風にメモされたものですが当時を記憶しておられる方々にはたいへん懐かしい一文ではないかと思います。また、当時の内外での出来事を織り込んで書かれておりこの時代を知る上でもたいへん参考になるものと思います。


牛山小学校時代(昭四一・四〜四四・三)
田中健著「拙ない記録」より

四十四才の校長、現場から離れること八年、新米校長大いにとまどう、職員との間にチグハグ多し、 でも二百名のこどもの名前も全部覚え、八名の先生、地区との一体感、校地拡張難航、自転車ーバス ー徒歩の通勤、バイク五〇t、自動車免許とる。民俗資料文化財展すごく物品集まる、稲垣石一氏、 伊東明一氏らの協力うる。
八年ぶりのモーニング姿で尾張教育所で辞令をうける。時に昭和四十一年四月一日。直ちに県庁内を挨拶まわり、二時には亀谷教頭さんの車で初めての校長としての牛山小学校へ、三階建の鉄筋コンクリート建校舎のデラックスさに先ず驚く。日置宏之、伊藤智穂子両先生と共に赴任する。直ちに入学式準備、二日が入学式、父兄、特に母親を前にしての話には聊か困った。四日には始業式、初めて全校生二百余りの前で挨拶、この頃より色々な新聞屋からお祝いに来訪、お祝儀を約二〇も用意した覚え。この月、市の竣工式、地元の祝賀式(新校舎完成)準備.打合せで徹宵する事多し、あちこちで昇任祝賀会、歓送迎会など酒席に月の約半分を費す。それにしてもこの牛山地区の人々の学校に寄せる期待と協力の大きいのに驚く。この月程、長い一ヶ月も珍らしく、一日一日が実にめまぐるしく、万人の眼の中に生きる一人として、孤独との斗いに耐えねばならぬ立場に立たされたきびしさをひしひしと感じた。
五月の一日に村挙げての祝賀式、来賓も市長はじめ、丹羽兵助衆議など四十名に及び盛大であった。初の小学校生活、それに現場を八年もあけてのこと、ニケ月過ぎても、児童にも父兄の話にもピントが合わず悪戦苦斗、この月も約半分は酒席に出る。いい学校である。先生八人とこじんまり、いい先生ばかり、アメリカも月に軟着陸成功する。カブで通勤することになる。山積する問題も多いが、校長三ケ月にしてようやく体にも余裕ができてきた。
問題というのは、校地の拡張、小使室の移転など、この七月から市の文化財委員に依嘱うけ、条件として、市の事務局のお手伝いということだが、相当期待されているらしく弱った。学校田の田植もするし、県教委、社会教育課の課長以下課員大ぜい来校し、ソフトの試合もする。八年ぶりの夏休とて、十分休養、そしてやりたい事、よみたい本もとあれこれ計画立てたが、休に入ってかえって多忙、小使室の移転、台風来襲などと、この月、中国の中高校生の紅衛兵大あばれ。たった一人になった父方の叔父死没。九月一日の始業式で二百十五名で二学期を出発、この頃、勤労奉仕で小使室移転後のあと形つけ。長男和裕交通事故で頭に怪我入院の報をうける。十九日には、校長として初の学校訪問をうけ、相当緊張する。市・事務所・県からも来訪、長男、入院十日間で退院ほっとする。台風相つぎ、伊勢湾台風以来で静岡、山梨で死者三百名もとか。人間ドックに入る。十月も勤労奉仕をねがうこと多く、運動場も整備され、絶好の秋日和の九日に運動会を催す、お客様も多く市長、衆議、県議も来て下さって激励をうける。初の校長旅行、豊橋で新幹線ストップ、夕方ようやく出発、東北山形方面へ、修学旅行にも初めてついて行き、すべて初のことばかり。十一月に勧めにより自動車学校へ入学することとする。この頃になると、学校をあけること多く、月のうち十六日も出張がある。自動車学校仮免三回もおち、つくづくいやになる。建国の日を二月十一日とすることに決まる。
この年には国の内外で色々なことが起った。主なものは、旅客機の相つぐ事故で、全日空羽田、松山、BOACの富士山麓のもの・黒い霧の政界浄化出来ず、松代地震、早大の長期スト、交通事故死も史上最高、暮には猿投で園児が十名も。でも一方一寸明るいものでは、体育の日、敬老の日が新らしい祝日となった。国外では、中共の文化大革命紅衛兵が騒ぎ、ベトナム戦争益々激化した。ソ連に遅れをとったアメリカが、宇宙ドッキングに成功、月に軟着陸をした。家にあっては、四十四才にして、注目の中に小学校長になったこと。自動車学校に入校、子供らの勉強部屋の一棟の完成、長男和裕の交通事故入院、二男康史の公立中か滝かで迷い、夏、こどもらと上高地に遊び、母は元気に越冬、父方のたった一人の叔父鎌吉氏と、おいの田中慶治氏の長女がチョコボールで窒息死の暗いこともあった。とにかく、八ケ年の役所生活から、今まで経験もしなかった小学校、中学生や大人ばかりが相手であった二十余年、随分ピントはずれのことの多かったこの年。どうにか大した過ちもなく年がこせるのも、亀谷教頭の縦横無尽の活躍と、恵まれたスタッフ、温かい地域の人々によるもの、全く幸せ者といえる。
来る四十二年は、母の六回目の羊年、校長二年生として真価を問われる年であり、こどもらも、高一、中一、小一と、それぞれ環境の変る第一歩を踏み出す年、母の健康をまず願い、運転免許を早くとり乗用車を購入したいと思う。
この月も仲々運転免許とれず悪戦苦斗、元日は、九時から雨の為家庭室で式を、賀状四百二十通余り、毎月約一万円程度の児童向き図書を寄贈して下さる河村国康さんを囲み感謝の会をする。衆院選、知事選そして小牧市長選行われる。衆院選社会党振わず、小牧市長選は神戸真氏が長谷川安氏に約八千票差で当選、寒波来襲氷点下五〜七度の日多い、伊藤嚢治先生出張途次に自動車事故で上飯田の病院へ入院、二月は人事問題や、伊藤先生のことでテンヤワンヤ、その間に古き友、はり切りボーイの県教委社会教育課主事の平松博憲君の突然の交通事故死をきく、元将校でスポーツマン、頭もよく人柄は抜群、俳句もやり、酒を愛し、タフで全くの痛快児、将来を嘱望された人物、何故死んだ!バカヤローと腹が立つ。一方犬山の父の宅では、新社屋が出来、竣工式に参列、犬山城も指呼の間、藤原城だと来賓もほめていた。三月は人事問題でいやな月、でも初の体験、対処して行かねばならない。暇をぬって市の文化財物件の撮影と台帳作りに協力する。二十日に、初の卒業式を快晴に実施、多くの来賓のもと、一言づつ一人一人に言葉をかけてやった。伊藤先生猪子石に居を構えたため通勤上、日進西小へ、加藤孝史さんは東部中学へ、新らしく学芸大卒の和田浩司さんと、中部中より小木曽正敏さんが来て頂くことになった。
新らしい四十二年度を迎えたが、桜の季節は、ほとんど花を見ぬ間にナタネツユとかで知らぬ間に葉ザクラとなった。四十一名の新一年を迎えたが、三男の達生も小学校へ入学した。いい事のない月で、日進へ異動した伊藤先生が休職したいといわれ、犬山の父が骨折で入院、長男と二男がとりくんでいるうちに、歯と頭を打ち、歯を一本折り、弟は頭に一針縫う事故。特に伊藤先生の件については面目丸つぶれという体。その中で母だけは元気であることが救い。四月の雨続きに反し、五月には干天の記録。まだ運転免許受からず、でも六月にようやく半ヶ年の長い長い道程にピリウドをうつ、七月は雨又雨、各地に集中豪雨禍、名古屋を中心に戦友会をもつ、スバルの360tのセコを購入するも、ひやひや運転、神戸真小牧市長急逝する。夏休になり今年こそ久しぶりに、のんびりしようとしたが在宅したのが、たったの八日間。ただ、毎日が充実感のない無為な日を送ることも多かった。懸案であったし、又手がけた内津庭園と尾西起の灯明台が県指定になったことは嬉しい。車あちこちゴツンゴツンで傷だらけ、母は元気で娘の所(伊勢)へ孫をつれて行く元気さ。ただ、名古屋の寺へ参詣の途次、市バスの中で急停車、頭をぶつけ怪我をする。 二針ぬう傷。小牧市長選、四人で争われたが、舟橋久男氏が当選、市議選もある。校地拡張の実現のため連日会議、稲垣石一氏、亀谷教頭とで美濃山之上村へ珪化木を採集に行く、九月の台風肩すかしでほっとする。
この年は全国的な豊作。やや車になれ、八日には秋の運動会、数百の温かい父兄の眼のもと無事終了、戦後の今日の日本をささえた吉田茂氏八十九才で死去、戦後初の国葬、小牧市議選、一部番狂わせがあり、倉知正徳氏も落ちる。
修学旅行、連合運動会、教育展、音楽会、校長旅行と多忙、その間学校訪間、文化財の仕事で、文化財図録作成、市民講座にとよく引っぱり出された。中一の次男、小一の三男よく喧嘩をする。十二月に入り、意外に早い寒波、又雪も例年に比べ早かった。文化財の委員で県内の額田町、鳳来町へ、地元の中部ノートから大量の学習ノート、ホートク金属から児童用机、腰掛二〇〇人分位。中部マッチからは学校で使うマッチ一切などよく学校に協力して下さる。
この年のビッグニウスは、吉田元首相死去、人口一億突破、初の革新都知事、羽田で全学連乱斗、交通事故死一万人こえる、ヨットで太平.大西洋横断、スカルノ失脚、英の栄光地に墜ちポンド切下げ、毛語録紅衛兵大荒れ、米黒人暴動、中共水爆、米ソ宇宙開発戦争、こちらは、運転免許とりスバル360で通勤、子ら小中高へ長男和裕は180p、67sと親をおいこす。犬山の店立派に開店。
昭和四十三年の新春、今年より学校での式なくなる。この頃世情物騒、原子力空母佐世保で全学連衝突、南北鮮武力衝突、元山沖米艦だ捕など、学習発表会に郷土資料展を計画、バザーも、資料ものすごく集まる。来年度は学級数大きく増す傾向。二月は雪よく降り寒気もきびしかった。郷土資料展と父親学級大盛況、それにバザーもよく売れた。
亀谷教頭を小牧へ転勤勧めるも可能のようで安心、畠中先生もよさそうだ。金嬉老寸又峡にライフル銃もってこもり手をやく。母も元気、東京のいとこ明美の結婚式へ、寒い中よくがんばる。ベトナムの米軍、全く手も足も出ぬ程、国内では反世々木派三派あばれる。佐田の山引退、F原田五度目の防衛成らず、今年も新らしい校長さんが誕生の様子、和裕文科系か理料系かでコース決める段階、一応第一を名大の工学部を、第二を名工大へと。風呂用の亜炭を松田先生宅から運んでもらう。
校地拡張、初の三百人突破の牛山小学校、激動の新学期がはじまった。新らしく稲垣教頭を玉川小より、塚田(東栄町より)尾崎(大治小より)名大新卒の成田の各先生、市内では大橋(東中)柴山(西中)両先生迎える。亀谷教頭と畠中先生を送り出して総勢五人となって、六人の先生を迎えるという珍現象。六十六名の新一年生を迎え、三百三名で新年度は出発。二十番目の春日井市の学校として白山小が開校。校長会長の選こう難こうする。ベトナム和平のムード、北爆停止、ジョンソン米大統領再出馬とり止めと、妻、小学校PTA役員とか。和裕バスケのキャプテン。
康史欲出ずのんびりムード、母あちこちのお詣りに。新年度は職員十一名、九学級で出発、五月になるも校地拡張難航、お隣りの春日井小で理科研究の中間発表、十勝沖地震被害甚大、夏場所玉乃島優勝、横綱は見送られる。六月、この月より母、母子センターに勤める。ひっぱり出された様子、七十四才で大へん。ケネディ、兄同様兇弾に倒れる。
ヘレンケラー、安藤格太郎氏も死去、小笠原返還きまる。市制廿五周年記念式。校地拡張、坪一万一千円でようやく妥結へ、七月もあわただしい毎日。過大学級でプレハブ望み薄、参議選、社会党激減、公明、民社、共産のびる。 文化財でよく世話になった山田秋衛氏死去、仙田正先生胃ガンで入院とか、夏休とはいえ多忙な月、校舎増築起工式。
九月に入って長縄峯子先生追突うけ、ムチウチ症のよう。母過労の為か腎う炎、口内炎で入院、陶芸作家、加藤土師萌氏、石黒宗磨氏相つぎ死去、十月はメキシコオリンピック最高潮、アポロ七号月旅行十一日間地球の周りをまわる。多忙な月、十日に運動会、十二日に五年のクラスわけ、十三、四日文化財旅行、十五、六日修学旅行と、市内の児童の怪我、死亡相つぐ、白山小で入水、鷹来小で屋根破れ死亡、坂下小、鳥居松小、東部中でも。宮崎信夫君心臓移植八十四日でついに死亡。母、一ケ月で退院二十日より出勤、長男和裕一週間の九州旅行、康史運動会で指揮(体操)とった由。十一月にはジョンソン北爆停止、佐藤三選、三木・前尾氏を落とす。校長旅行で山口、広島などへ、中日監督水原茂氏に、師走は温かい、大学紛争泥沼へ、アポロ八号月旅行へ、伊岐見貞治先生、時津風(双葉山)市村清氏もなくなる。川端康成ノーベル文学賞。
四十四年の正月、春日井市財政情勢危機で教育方面にも影響与える様子、安藤直太朗教育長辞意表明、石川県教職員課主事の後任へ行くよう要請うける。校舎完成、拡張用地の埋立も急ピッチ、東大紛争安田講堂攻防戦、ついに東大入試中止となる。メガネが必要となり眼科医に行く、二月に入り人事往来甚し、東名道路、小牧から静岡まで開通。
調理員の方、沢田さんの他に宮崎さんの三人となる。学習発表会、父親学級盛況、全職員で下呂、高山へ、三月はいやな月、三ヶ年の牛山小とお別れだ、よき児童、よき父兄、よき土地、よき先生を得て三年、全く幸せな三年、ほれにほれこんだ牛山ともお別れだ。父の四十三回忌をする。三十一日は誕生日、三男達生と新幹線で京都へ、達生は初の新幹線へ乗せる。奥嵯峨、化野、念仏寺、祇王寺、落柿舎、嵐山、タワーにも登る。

'03/07/14
Back to Top