消え行く小鮒釣りしかの川

 昭和30年代中頃までの牛山は、自然に恵まれた静かな農村でした。子供たちは自然の中に溶け込 み、自然と戯れ育ちました。当時の大山川や西行堂川の水は清流のようにうつくしく、子供たちは川で泳ぎを覚え、魚を捕り、お腹が空けば野原の草木の実を採って食べ、夏の夜には乱舞する蛍を見に家族揃って出掛け、蛍狩りもしました。また、四季折々に飛来する鳥たちも子供たちの遊び相手でした。
 しかし、昭和30年代後半から始った高度成長経済の波は、静かな農村牛山にも容赦無く大きな変化をもたらすことになりました。
 昭和36年、牛山町の北に隣接する小牧市北外山に、東海ゴム工業小牧製作所が完成しました。近隣に無かった大工場で、工場で使う電力供給の為に巨大な鉄塔が牛山町の中心を南北に縦断し、鉄塔の脇には、東海ゴム 工業の正門から真っ直ぐ南に向かって2車線の道路が出来ました。今まで農道に近い道路しか無かった牛山町に、初めて自動車のすれ違うことの出来る道路が出来ました。牛山町の開発は、全てこの道路から始りました。
 この年、春日井市でも巨大団地「高蔵寺ニュータウン」の構想が発表され、名古屋市のベッドタウンとしての開発が始りました。
 牛山町は、町の中心部に水田が広がり、その水田地帯を取り巻くように民家が建っていました。この、水田地 帯のど真ん中、新しく出来た道路沿いに、昭和39年、東海TRW春日井製菓の大きな工場が誘致されました。そして、昭和40年に「柳坪」団地、昭和42年に「さつき台」、昭和43年に「寺田」、昭和44年に「あかつき台」と毎年のように新しい住宅団地が造成されてゆきました。そして、昭和59年の住宅分布図に見るよう、農地は工場や住宅の隙間に存在すると言った方がいいような実状になってきました。
 しかし、道路や下水道などの環境整備が全くなされないまま、工場誘致や住宅開発が行われたため、甚だしく生活環境が破壊される結果 になってしまいました。
 特に、農業用水の汚染は甚だしく、かっての清流はどぶ川と化してしまいました。生活排水専用の排水路が整備されていないため、住宅団地の生活排水は全て農業用水に流され、川底に溜まったヘドロの中には、ジュースの空缶、ビニール袋は言うに及ばず、プラスチックの洋服ハンガーまで埋まっている有様です。勿論、生き物の生息できる状況では無く、死の川です。牛山町は現在も都市計画調整区域として農地管理が厳しく行われており、農業を営んでいる家も多く、田植えの時期には愛知用水から大量の水田用水が補給されるため、この時期には一時的に用水も生き返り、鮒、鯉、鯰など、かってこの川に生息した魚達が帰ってきます。しかし、水が止まると再び死の川となってしまいます。水の止まった直後の川には、生活排水の中で生きることが出来ず死んだ魚達の遺骸が川面を埋め、見るも無残な有様になります。それでも、近年、大山川や西行堂川など基幹河川は改善がなされ幾種類かの魚は住み始めましたが、町内の用水については全く対応がなされていないのが実状です。

First Upload '98/06/29
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