牛山小学校移転

 太平洋戦争が終結し、連合軍が進駐してくる前に、学校前の松林に居た日本兵は三角兵舎だけを 残して全員故郷へ帰って行きました。しかし、国土は焦土化し消耗し尽くした私達の生活は窮乏を極め 全てないない尽くしでした。食べる物はない、着る物はない、学用品はない、辛うじてあったのは 農村のお陰で爆撃を免れた住い家だけでした。衛生状態も悪く、虱を持っている児童も多く、 全校生徒が運動場に並び噴霧器で頭からDDTを散布されたこともありました。それでも、敗戦により、終戦の日から着実に世の中は変わってゆきました。
 昭和21年、戦争中中止されていた学級写真を写しました。皆が一張羅を着て初めての記念撮影を しました。着ている服は、母親が着物や古い服地を仕立て直したものが殆どで、足元は、地下足袋、 藁草履、下駄、運動靴、靴と様々で当時の世情をよく現しています。この年から学校給食が 始りました。給食と言っても今のように昼食全部が支給されるわけではなく、各自が持参した弁当を 食べる時に、米軍支給の粉ミルクを溶かしたミルクを湯のみ(コップ等と言うしゃれたものがある家庭はまだ少なかった)に1杯とトマトジュースが盃に1杯が毎日出されました。 このトマトジュースも初めて味わう癖のある味に殆どの生徒が薬をのむようにして飲んでいました。ま
【昭和22年2教室増築後の牛山小学校】
た、この当時、給食当番は生徒達の最大の楽しみでもありました。厨房の奥の倉庫に並べられた大きなドラム缶から粉ミルクを出すとき、先生の目を盗んで口にほうばるその味は、お菓子もなにも無かった時代の欠食児童達が知った初めての味でした。
 昭和22年、新しい教育方針が決まり、「牛山国民学校」は「牛山小学校」と改称されました。戦争中疎開してきた家庭の子供や、空襲で焼け出され親類を頼って越してきた家庭の子供で、牛山小学校の生徒数は200名近くに膨れ上がり、終戦と同時に撤去された奉安殿跡に新しい2教室の校舎が建てられ、1学年1教室の授業になりました。学校に初めての電話も引かれました。
 昭和28年4月に牛山小学校は、牛山町1920番地(現在は牛山徒渉プールになっています)から現在の牛山小学校がある牛山町2204番地に校地を移転し新校舎が完成しました。新校舎は、西行堂川沿いにあった川原山と呼ばれる松山を切り開いて建てられました。この松山には高さ数十メートルの松が生茂り、現在のように大型土木機械の無かった時代のことで、整地のための努力は大変なものでした。 一抱えもあるような松の大木を切り倒し、大きな株を掘り起こす。川の氾濫によって出来た西行堂川の川原であったこの土地には一人では持てないような大きな石が敷き詰めたように広がっていて、トロッコで一杯一杯土を運び整地されました。町内の人々の勤労奉仕で、全てが人力で行われました。
 当時は、学校にプールも体育館も無く、体育時間が雨の時には、教室の机を片隅に寄せ急ごしらえの雨天体操場になったり、他の科目の授業に振り替えられたりしていました。また、旧校舎の時には、学
【昭和28年校地移転新築された牛山小学校】
校の直ぐ前に西行堂川が少し広くなって「まいこみ」と皆が呼んでいた深みがあり、プール代わりに使われていました。校舎が現在地に移ってからは、河川改修で「まいこみ」が無くなり、間内にあった大山川の農業用取水杁まで歩いて出掛けたものでした。
その後、町内の宅地化が進むに従って、生徒数は次第に増加し、ピーク時の昭和55年には、生徒数は1,183名を数え、学級数も学年で5クラスに及び、校庭に臨時のプレハブ仮教室が造られたほどでした。校舎も、現在では鉄筋3階建で防音設備の施されたものになっています。また、付属施設として体育館、水泳プールなどが造られ、校地移転当時には想像も出来なかった立派なものになっています。
 しかし、近年少子化が急激に進み、生徒数も平成12年には、311名まで減少してしまいました。

1998/04/07
Revised 2001/07/15
Back to Top