昭和44年(1969)、牛山町内の宅地開発が進み、牛山小学校の生徒数は年を追うごとに増加、校舎もほぼ現在の面影を形づくり始めた頃のことでした。
「牛山小学校に校歌を」との声が持ち上がり、昭和45年3月18日に現在歌われている「牛山小学校々歌」の制定発表会が執り行われました。
校歌制定にあたり、過去の牛山小学校々歌をいろいろ調べられたようでしたが、牛山小学校々歌として歌われたであろうと思われるものは、大正時代に歌われていたと伝えられるものが一つあったのみであるということでした。
牛山小学校は、明治5年(1872)、明治新政府の学制発布と同時に設立された古い歴史を持つ小学校であり、たとえ町民の記憶から消え去ってしまったとはいえ、その時々に歌われていた校歌があったのではないかと思います。そして、古くから牛山に住んでいた人たちや、牛山小学校を卒業した人たちの心の片隅に、小学校時代の懐かしい思い出として、ほんの一節だけかも知れませんが、息づいているような気がします。
昭和20年(1945)、太平洋戦争が終わり、日本の国家制度は大きく変身することになりました。そして、昭和22年4月1日に小学校令により、それまでの牛山国民学校から再び牛山小学校へと校名が変わることになりました。
この時期に、現在は消えてしまったもう一つの「牛山小学校々歌」が生まれたのでした。
当時、町内の瑞林寺に仮住まいをしておられた元愛知第一師範学校長で当時名城大学の先生であった島田民治先生が作詞されたものでした。
この当時の学校関係者は、荒廃と貧困のどん底にあった子供達に少しでも誇りと希望を与えようと、新しい校歌を作られたのではないでしょうか。
牛山小学校々歌
野の幸多き牛山は
わが魂の郷にして
祖先の生みし郷土なり
祖先の生みし郷土なり
上記は、私が記憶している当時の校歌の第一節です。この校歌が、この一節だけであったのか、二節、三節があったのかはっきりした記憶がありませんが、この節だけは、はっきり憶えています。
この校歌が作られた当時、私は、牛山小学校の5年生に在籍していました。朝の全校朝礼で、教頭先生であり音楽の先生だった大野元先生のタクトに合わせて何度も何度も練習させられたことを今でも思い出します。その後、いつの時期までこの校歌が歌い継がれていったのか分かりませんが、この「牛山風土記」を読んで連絡を下さった牛山小学校卒業生の方々の話から、少なくとも、昭和30年代初期まで歌われていたことは間違いないようです。