丹羽作左衛門はどこに住んでいた?

 牛山町もその戦場(いくさば)となった小牧長久手の合戦(1584)が行われた16世紀後半頃、牛山には、地方豪族丹羽作左衛門が居を構えていました。この丹羽作左衛門は、小牧長久手の合戦を記録した「合戦記」の中で、「神君・信雄ノ方ヘ兼テ随フ重立ツ人々ニハ長谷川伴右衛門・同六右衛門二重掘ノ住人・丹羽作左衛門牛山の住人等ナリ」と記されており、それなりに力のあった地方豪族であったと思われます。
「東春日井郡農会史」によると、牛山村の丹羽作左衛門の他に、当時の近隣の豪族としては北外山村の織田與四郎、南外山村の堀尾氏、二重掘村の長谷川伴右衛門、同六右衛門、田楽村の長江平左衛門等の名が記されています。
長江平左衛門の屋敷は、小牧長久手の合戦の折田楽城として使われ、現在も直系の子孫が田楽城跡に住んでおられます。 織田與四郎、堀尾氏居所は、北外山城、南外山城として「日本城郭全集」にも記録されおりその痕跡は辿る事ができます。 長谷川伴右衛門・同六右衛門は、「東春日井郡農会史」に「其祖以来或いは其子孫に至るまで、地方の豪族として居村又は隣地一帯を領有した」とあり、現在もその家系は続いています。
しかし、残念なことに、丹羽作左衛門の記録は、「合戦記」に見るのみで、現在のところ他に資料が見つかりません。また、現在の牛山町には丹羽姓の家系は殆んど残っておらず、その子孫と称される家系もありません。
豪族として列記されている牛山村の丹羽作左衛門は、当時それなりの勢力圏を持ち居所を構えていたであろうことから、牛山町のどこかに彼が居住していた痕跡が残されているはずです。
以下は、私の単なる推測にしかすぎないかも知れませんが、牛山町内に丹羽作左衛門の居所跡探しを試みてみました。
丹羽作左衛門は、織田信長や豊臣秀吉と同世代の人物で、西暦1550〜1600年頃を中心にこの地で活躍していました。この当時の牛山村の農家は、本田と呼ばれる現在の東脇から間内にかけての地域に集落をなしていました。
この集落に沿って中道と呼ばれる(写真黄線)道路が東脇から郷中・皿屋敷をかすめ間内を通って南外山へと伸びています。この道路は、現在も「中道」と言う地名で呼ばれており、牛山に残っている最も古い道路の一つで、かっては6尺幅の幹線道路でした。現在は瑞林寺の北側から天神社の前を通り間内駅に通じる新道が幹線道路になっており、この道路を挟んで集落が形成されていますが、当時は中道を挟んで集落が形成されていたものと思われます。また、この中道から50メートルほど離れて、中道に沿うように段差1.5メートルほどの断層(写真白塗りつぶし部分が低くなっている)が走っています。
ほぼ平坦な本田居住区の中で1ヶ所皿屋敷の東側に当たる場所の中道沿いに現在は畑になっている1500坪ほどの高台(地図の緑色塗りつぶし個所)があります。この高台は、周りより1.5メートルほど高くなっており、中道側は10メートルほどのなだらかな傾斜になっていて中道に面しています。この高台の周りの構築を見ると、明らかに人の手によって造られたもので、自然に出来たものではありません。また、最近耕運機により畠作業をするようになり深く耕すため、畠の底から焼けた石や焼けたと思われる土が出てきたこともありました。
私は、以前からこの高台が気になっていました。この高台の立地条件や形、人手を加えて造られたもである様子から、恐らく大きな屋敷跡か、古い時代の墳墓の跡ではないであろうかと言う推測はしていました。そして、近年丹羽作左衛門の存在を知るにいたり、私の推測は次第に具体化してゆきました。
地方豪族の勢力争いが盛んであった16世紀の状況や、近隣豪族の屋敷跡などから推測するに、丹羽作左衛門の屋敷も一種の砦としての性格を持ったもので、それなりの防備を考えて造られていたのではないでしょうか。言い伝えによると片山神社が焼き討ちに会ったのは元亀年間(1571)のことであったということであり、領地争いが絶えなかった当時、常に外敵に備える必要がありました。また、小牧長久手の合戦に丹羽作左衛門は鉄砲を持って参戦していることなどから、日常の備えとして銃器などの武器の蓄えもなされていたのでしょう。こうしたことから推測すると、丹羽作左衛門の屋敷跡と推測したこの高台は、砦を兼ねる居所として絶好の立地条件を備えた場所ではなかったでしょうか。
「覚明霊神御一代記」の中に、覚明霊神の祖丹羽某が小牧長久手の合戦後牛山天神社横に居を移し(地図の黄色塗りつぶし個所)住み始めたことが記されいますが、丹羽作左衛門縁の人物が移住したのか、または、故あって丹羽作左衛門自身がここに居を移したのか、あるは、丹羽某なる人物は丹羽作左衛門と全く関わりの無い人物であったのかは現時点知る術もありません。
徳川幕府の成立と共に、牛山町を取り巻く地域の新田開発が盛んになり、牛山村への多くの人の流入がありました。また新天地を求めて出て行った人もありました。この変動の時代に、丹羽作左衛門も新天地を求めて他所へ移住していったのか、それとも新しく流入してきた勢力に飲み込まれ消えていってしまったのか、または、丹羽作左衛門の近辺に何かが起こり家系が絶えてしまったのか、全て推測の域を出るものではありませんが、今後何か糸口が見つかるかも知れません。

2000/09/29
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