![]() 地蔵菩薩は、この世だけではなく、死後の世界ででも人々を苦しみから救ってくれる唯一の仏さまで、先立った人の苦難を救ってくれるのは地蔵菩薩だけだということから、残された人たちは地蔵菩薩にすがって心を癒してきました。特に、幼児(おさなご)を亡くした親が死後の世界での子供の安寧を願う心情は格別で、地獄の賽の河原で泣き嘆く子供の霊をなぐさめる地蔵菩薩の話は地蔵和讃(後述)に歌われ広く知られています。こうしたことから、お地蔵さんの中では子安地蔵がもっとも多く作られています。 次いで多いのが身代地蔵です。「代受苦」ということばがあるように、災難にあった人の苦しみを地蔵菩薩が身代わりになって引き受ようとされるものです。 また、お地蔵さんには、道祖神の要素もあるようで、全国いたるところで路傍にお地蔵さんを見ることができます。 牛山町内でも、いくつかのお地蔵さんが現存しています。道路改修や住宅地整備により所在地が移動しているものも有りますし、無くなっているものもあるかも知れません。 私の知っている牛山町内のお地蔵さんを整理してみました。この外に牛山町内にお地蔵さんがあったり、あったと云う情報があればぜひお知らせいただきたいと思います。
東脇から間内へ抜ける道路を間内に向かって進むと、郷中と皿屋敷の境界近くに地蔵堂があります。明治末頃に建てられ路傍にあったお地蔵さんを中に祀ったということです。現在は、軒先が農家の100円市場に使われています。
郷中に所在する瑞林寺の正面門前に安置されたお地蔵さんです。お地蔵さんの錫杖に幼児がとりすがっています。地蔵和賛の世界を模したものでしょうか。
東脇にある地蔵寺の正門脇に安置されたお地蔵さん。この寺は、名前の通りお地蔵さんを本尊とした寺で、本堂正面には千体の水子地蔵が祀られています。子供に先立たれた人たちの心を長年にわたって癒してきたことでしょう。牛山町内に昔から住んでいる人でもこの千体地蔵は知らない人が多いと思います。
牛山橋脇の新外集会所の前にある地蔵堂です。かっては、前並へ抜ける道路沿いにあったものを昭和59年6月道路改修のおりここにお堂を造り移動したものです。観音菩薩と一緒に祀られています。D 新田
西行堂川に掛かる天王橋の東南脇にお稲荷さん、弘法大師、地蔵菩薩、観音菩薩が集めて祀られています。写真には7体の石仏が写っていますが、左から二つ目と右端が地蔵菩薩です。
地蔵和讃の背景
西院の河原は「左比の河原」であろうか。加茂川と桂川の合流するあたりの河原を、昔、左比の河原と呼び、貞観十三年(871)閏八月、この地は庶民の葬送の地と定められている。
のちに庶民の葬送の地は七条に移されたが、十五歳以下の小児はやはり左比の河原に葬ることに定められていた。 その頃の京都では小児の葬儀は行わず、葬地に捨てることになっていたというが、そうはいってもやはり、この河原に屍を埋め、河原の石を重ねて塔婆になぞらえ、死者の菩提を弔ったことであろう。 しかし、空也上人が都を巡化された承平・天慶・天暦の頃(931-957)は、関東に平将門の乱が起こり、南海に藤原純友らの海賊が横行した乱世である。 各地に戦いが起こり、群盗が横行し、都大路でさえも夜半は盗賊の群れに占領されているという有様だったから、下層の農民たちは子供の葬式どころではなかったろう。死ねば捨てられるのである。 野ざらしの白骨や屍の上を悲風蕭々と吹きわたる左比の河原は、「さいの河原の地獄」の伝説を生むのにふさわしい荒涼たる土地であったろう。 念仏を称えて京の町をくまなく歩かれた空也上人は、おそらく毎日のようにこの河原を訪れ、捨てられた屍を葬り、供養されたことであろう。 その姿は、暗い運命に打ちひしがれた農民にとっては生きる灯火であったに違いない。 胸に金鼓をかけ、右手に撞木を握り、左手に鹿杖を突き、身に裘をまとい、足に草鞋をうがち、念仏して歩く空也上人の姿は、鎌倉時代の仏師康勝によって刻まれ、今も京都の六波羅蜜寺に伝えられているが、その姿は、生きている地蔵菩薩そのものである。 空也上人が松尾明神に日参されたとき、西院の河原で村の子供たちにとりすがられ、子供たちを愛撫しておられる様子を地蔵菩薩の絵にしたといういいつたえさえもある。 空也上人の手にしている杖には鹿の角がついている。この鹿杖は、上人のかわいがっていた鹿が平定盛に殺されたので、その鹿の角を杖に仕立てたものだといわれている。空也が貴布禰(貴船)に住していたとき、夜ごとに鹿がきて啼いた。空也ははなはだその声を愛していた。ところが、一夜啼かなかったので空也はこれを怪しんだ。翌日、平定盛という武士がやってきて、昨夜この処にて鹿を殺したといった。空也は驚き悲しみ、その皮と角とを乞い、皮を裘としてこれを身につけ、角は杖の先に挿して、いつも突いて歩いた。定盛はこれを悔い、これを恥じ、ついに剃髪して僧となった。その子孫十八家が京都の「鉢叩き」といわれるものになったという。鉢叩きは厳冬寒夜、毎夜のように洛外の墓所葬場を巡り、竹の枝でひさごを叩き、声高に無常の頌文を称えて歩いた。死者の魂を鎮めるための宗教儀式であったろうか。 地蔵菩薩は「悲の菩薩」だといわれるが、慈悲の「悲」の言語である「カルナー」は、古代のインド語で「呻(うめ)き」を意味している。 どうしようもない苦しみや、悲しみに思わず呻いたことのある人でなければ、万人に対する友情、つまり「慈」を持つことはできない、という仏教の考え方をあらわすことばである。 かわいがっていた鹿を殺された空也上人の嘆きは、わが子を喪った父や母の嘆きと少しもかわらないものであったろう。 その悲しみを忘れないために空也上人はあの鹿杖を作られ、それを持って、屍の折り重なっている巷を歩かれた。 空也上人は、悲しみを杖として、庶民の悲しみのただ中を歩かれた。
(空也上人の作)
これはこの世の事ならず
帰命頂礼地蔵尊
「地蔵菩薩」紀野一義著より引用
この「西院の河原地蔵和讃」には、なんとも言えない独特の哀切なリズムとメロディがある。そういうものを、日本人は「調べ」というのだが、地蔵和讃の調べを本当に理解できるのは、小さな子供をなくした父親と母親だけかもしれない。
(中略) それは、人間というものの無力さや、どうしようもなさ、因縁というものの持つ強大な力、さまざまな出来事のうしろにあって、人間界を支配し、慈悲を通して人間に、奥深い慈悲のこころを教えようとしているなにものかの存在を象徴しているかのごとくである。
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