大山川や西行堂川に清流が流れ、たくさんの魚が泳ぎ、夏の夜には蛍が飛び交っていた頃、川は子供達の天国でした。中でも、小学校が夏休みに入ると、町内の子供達が水浴びに川へ集まってきて大いに賑わったものでした。エアコンも水泳プールも無かった当時、暑い夏の昼間、川は子供達にとって最高の社交場でした。
毎日、昼食が終わった頃、 「水あびに行こみゃー」 と、誰かが誘いに来ました。 水浴びに行くと言っても、大山川や西行堂川なら何処でもいいと言うわけでは無く、皆が集まる泳ぎに適した場所がいくつかありました。川底に土が深く積もっている場所は、足を取られて危険なため泳ぎ場所としては不適当で、深さが1メートル前後あり、川底に土が積もって居らず玉石の所が好ま ![]() かけと(欠処)は、大山川を牛山町と小牧市の境界線から100メートルほど上流へ上ったところにありました。川は、この場所で少しカーブしていて、上流からの流れが右岸に突き当たるため、右側の堤防が欠け2メートルほどの崖ができていました。かけと(欠処)と呼ばれたのもこうしたことからでしょう。 川底は、崖の下が一番深くて1メートルほどあり、丁度お皿の底のように上流と下流に向かってなだらかな傾斜で浅くなっていました。また、右岸の崖は飛び込み台として最適の場所でした。泳ぎの出来る子供達は深いところで、小さい子供は下流の浅瀬で遊ぶことができ、全年齢向け天然プールと言うところでしょうか。昔の子供達は、自然の危険性をよく知っていて、流されて深みにはまることの無いよう、小さい子供たちが深みの上流で遊ぶことは決してありませんでした。 間内の杁、と新外の杁、共に跳ね上げ式の杁で、深さは1メートル以上あり、どちらかと言えば上級者向プールと言うところでしょうか。今になって振り返ってみると大変危険な場所で小さい子供は殆ど来ていませんでした。間内の杁は、深みが数百メートル上流まで続いているため、牛山小学校に水泳プールが出来るまでは小学校上級生の水泳訓練にも使っていました。 この杁での遊びは、泳ぎだけではなく上ってくる魚を捕えるのも大変楽しい遊びでした。諸子(もろこ)、鮠(はえ)、せんぱら、めそ鰻等、いろいろな魚が杁の下に上って来ました。下流に石の囲いを作り、杁を切って少し経ってから再び杁を立てると、上ってきた魚が石囲いの中に取り残されていて、皆が大騒ぎをして手づかみにして捕えたものでした。また、杁の落ち口を手ぬぐいの両端を持ってすべり上がらせるとめそうなぎがたくさん捕れました。 まいこみは、昔の牛山小学校の前、現在の徒渉プール前の西行堂川にありました。西行堂川は、この場所で鋭角に曲がっていたため、水が巻き深みが出来ていました。夏の米作の時期には杁が立てられているため、杁の上流になるまいこみは1メートル以上の深さになっていました。ここも流れが渦巻くため堤防が欠け高さ2メートルほどの垂直な崖ができていて絶好の飛び込み台になっていました。 この他にも数ヶ所子供達の水遊び場所がありましたが、上記の4ヶ所が主なところでした。また、集落の近くには、水辺まで階段が付いた洗濯場があり、ここも幼児たちの格好な水遊び場になっていました。 皆が水浴びに出掛けたとは言え、当時は、まだ「男女七歳にして席を同じゅうせず」の古い時代の風習が残っていたのでようか、女の子は就学前の幼児を除いて殆ど見かけませんでした。町内の男たちは、皆子供の頃大山川や西行堂川で泳ぎを覚え、誰が教えるわけでもなく遊んでいる間に泳げるようになっていました。しかし、女の人に泳げない人がたくさんいたのは、こうしたことがあってなのかも知れません。 今のようにしゃれた海水パンツなど無かった当時、幼児は殆ど素っ裸、小学校へ入る年頃になると黒い競泳用の「もっこ」と呼んでいた畚褌(もっこふんどし)や黒の水泳パンツを持っている子もいましたが、一番人気は六尺褌(ろくしゃくふんどし)でした。六尺の晒木綿(さらしもめん)をきりりと締めた姿はたいへん格好よく子供達の憧れでした。これも、低学年の内は締め方が下手で泳いでいる間にゆるんできてしまいますが、だんだん上手になり六尺褌の締め方で学年が分かるほどでした。 昭和40年代に入ると、牛山町内や河川の上流に工場や住宅団地が誘致されるようになり、排水で川が汚染され始めたことや、昭和45年には牛山小学校にプールが完成したこともあって、川で遊ぶ子供達の姿は全く見掛けなくなってしまいました。
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