河村広康氏発行「よもやま話」第66号より(原文通り)
覚明霊神・覚明大菩薩、私たち地元の者は覚明様・覚明さんと尊敬と親しみを込めて呼んでいます。私が意識して覚明様とかかわりをもつようになったのは昭和五十年前後のころからです。牛山小学校の校歌碑を寄付したおりに、校歌の一番の歌詞に何故か心が引かれました。
一体は破れていなければならないのに、全部が正常でありました。あれだけ力強く引っ張り試したにも拘わらず破れたお姿は無かったのです。私はそんな馬鹿なことは無いと、覚明霊神史蹟保存会役員の人達に話しますと、彼らは、「それは君の見間違いだ。」と一笑されました。そこで、大祭・例大祭に祭主を勤めていただく山下神光先生始め御嶽大神や覚明霊神を信仰している方達に聞きますと、一様に「それは覚明霊神があなたに迷惑をかけてはと、神通力で修理されたのです。」と返事がかえって来ます。私は初めのうちは現代の世の中に、こんなことはないとどうしても納得がゆきませんでした。 あれから二十年。お姿が破れているという連絡もありません。真から納得はしていませんが、いまは半信半疑というのが本当です。でも、不思議です。 次の不思議は、覚明様のご遺骨のことです。今から七年前、岩倉市の山田淳氏が私のところへ尋ねて来られました。 山田氏の話は、「私の家の祭壇に覚明霊神のご遺骨をお祀りしておりますが、私も老齢になり、とてもご遺骨をお祀りしてゆくことはできません。牛山が覚明霊神のお誕生の地と聞いて、何とかご遺骨をお受けいただけないでしょうか。」とのこと。私は耳を疑いました。「えっ覚明様のご遺骨があるんですか。」と聞き直しました。 覚明様は御嶽山の中腹でお亡くなりになり、九合目で頂上のお社が見える所に埋葬されていたが、明治十五年に現在の場所に再埋葬されている。したがってご遺骨があるということ事態が不思議だったのです。 「もっともな話です。実は明治十五年に再埋葬するとき手伝った、三岳村の山本儀助という人が、お骨の破片を持ち帰りお祀りしていました。ずっと後になってから、岩倉市の大先達岸栄次郎(昭和三十年没、山田氏の父)がこれを知り、山本氏に懇願して請い受け祭祀されていたのです。父栄次郎は私たち家族の者には、私の宝物だから絶対に見てはならん。と言うので小さな木箱に何が入っているのか知らずにおりました。父が死に際に、「宝物は覚明霊神のお骨じゃ。粗末にするなよ。」と言い残して逝きました。このような訳ですから、是非お願いしたいのです。」話を聞いて、私一存では何ともご返事ができません。保存会の役員会でお話しをして、その結果をお知らせします。」とお引き取り願いました。役員会では、「覚明様も生まれ故郷に帰りたかったんだろう。有り難くお受けしよう。」と云うことになりました。 現在は保存会で保管し、二、三年毎に開帳しております。再埋葬されたお骨は既に土に還っている。それがこうして古里の牛山で皆さんに崇拝されている。私はこれも不思議な因縁と思っております。 最後の不思議は昨年(平成十二年)十二月六日の夕方、闇の帳が下りたころ。大垣市の鹿野氏がご婦人二人と尋ねて来られました。 手には細長い大きな木箱を抱えておられます。用向きを伺うと、一実は持参しましたのは覚明霊神の御像の軸ですが、これをこちら様(保存会)で受けていただけないかと伺いました。」との話です。 居間に上がっていただき、箱から軸を取り出し広げられました。表装はボロボロになり、御像も大小幾つかの滲みがついている。地肌は紙です。保存状態はゼロに等しい。相当に古いものだ。お姿を見て、「わあー、これこそ間違いなく覚明様じゃ。」とピーンときました。 黒沢の大泉寺にある軸も拝見したが、今様というと和尚さんがたにお叱りを受けそうですが、ふっくらとしたお顔で、衆生済度の心願を立て、難行苦行することを二十年近くしたお姿とは思えない。私の小さいときから教えられていた覚明様は、六尺豊かで耳が大きく眉は太く眼光鋭く、頬骨のでた人と聞いていましたので、全く人違いの感じを受けた覚えもあり、また他にも覚明様のお姿という軸も拝見したが、これも同様でした。 しかし、このお姿は覚明堂の本尊にそっくり。間違いなく覚明様と実感しました。由来を尋ねました。「実は私は御嶽教一心教会の会長をしております。数十年前、父の代のときに、あるお方から譲り受けたものです。そして父が祭壇の隅に立て掛けたままにしておりました。今年五月、霊能者の人が来て、「あなたの家に凄い宝物があるはずですが。」と言います。私は、「家には宝物と言うような物はございません。まして尊い物といわれましても・・・。」と話の途中で、ふと、若しやと思い祭壇の木箱から軸を出し広げて見せますと、「おお、これです。」と行者は伏し拝んだ後で、「霊神は落ち着く場所への一時の仮の住まいとされています。その場所はおのずから近いうちに分かります。」 それから私も今までの粗末な扱いをお詫びし、毎日お酒などお供え物をしてお祀りしておりました。 こうした立派なものをいつまでも手元に置くべきではない覚明霊神のお定まりになる所をと、考えてみりました。 春日井市にご縁があり東野町に店を出すことになり、そのとき覚明霊神のお誕生地があることを知り、ここがお定まりになるところと思いまして、是非と尋ね尋ねてお願いに上がった次第です。」話を聞き、「よく分かりました。役員会でご趣旨のことを諮らせていただきますので、お預かりします。」。役員会ではお骨と同様にお受けすることになり、現在、表装も新たにして大切に保管しておりますお骨といい、お軸といい、牛山の誕生地に何処ともなく集まってくるのは・覚明様の遣徳と言ってしまえば、それまでですが、何かしら、因縁というものか、そこに不思議なものを感じます。他にも家庭をもたれたときの「お釜」・恵那山でのご祈願の際使用された鉦鼓石なども安置保管しております。 |