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鷲見氏は藤原氏北家房前の五男魚名の十二世の孫にあたる藤原頼保が初代とされ、また鷲退治の伝説が有名で、この時の賞として鷲見姓を賜り、美濃国芥見荘鷲見郷を永代下賜されたといわれます。また史実として明らかになるのは、頼保の子郡上太郎と称した重保よりで重保は父の所領を相伝したが、建仁二年(1202)父に先だって没し、その子家保が継いで郡上三郎と称しました、家保は武勇に優れ、承久の乱(1221)に幕府軍に御家人として従軍しその論功によって鷲見郷の地頭職を安堵され、また家保の子、保吉・諸保は京都大番役を勤めたとされます。建武二年(1335)足利尊氏挙兵に鷲見忠保は東常顕と土岐氏に従い尊氏について各地で戦功をあげるなど、保憲、忠保兄弟や禅峰・加賀丸とも称した干保の時代は、多くの合戦や討伐等に戦功を挙げ向鷲見城を拠点とする当時の鷲見氏の所領は鷲見郷の他、東前谷、牛道郷の一部、越前穴馬の一部、までに及び、その威勢は鷲見氏全盛期でした。以後14世紀末頃から衰えはじめ、郡上の東氏に従属しその命で阿千葉城に居城していた鷲見氏は貞保の時代、篠脇城主東常慶に攻められ貞保は自害し、子の千代丸は家臣の餌取広綱と共に落ち延びたとされます。そして東氏と鷲見氏は飛騨照蓮寺の仲裁で和陸し、その後向鷲見城城主の鷲見氏は遠藤氏の幕下に降り遠藤盛数、慶隆とつかえ八幡城の戦いにて討死にしたとされます。また、東常慶に攻められ落ち延びた千代丸は西牧谷(美濃市)で成長し鷲見兵助正保と名乗り織田信長に家の再興を願い信長の名令のもと、これもまた八幡城主遠藤盛数が郡上へ招き大島村(白鳥町)を所領させ遠藤氏につかえたとされます、また、鷲見郷を含め長良川下流域まで広い範囲で活躍した鷲見氏一族ですが(美作守、北野城主等)美濃国守護土岐氏と守護代斎藤氏の争いや、その後の斎藤氏一族同士の争いなどで活躍または討死にするものもあり、斎藤氏につかえた鷲見氏も斎藤氏滅亡とともに郡上へ帰り、その後は武家としての鷲見氏は幕を閉じたとされています。 |
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