ここでは、一般的に戦国時代のはじまりとされる、応仁の乱以降の通説とされる郡上にまつわる争い、出来事など、関ヶ原合戦までを簡単に年表式に載せてみました。 |
戻る |
|
|
西暦 |
年号 |
出来事など |
応仁二年 |
1468 |
応仁の乱により山名氏(西軍)方の美濃国守護土岐氏・土岐成頼の守護代であった斎藤氏・斎藤妙椿が郡上に侵入、細川氏(東軍)方の郡上東氏の居城篠脇城を攻めた、東氏の東氏数が防戦したが落城し氏数は気良(明宝)に落ち延びる。 |
|
応仁三年
文明元年 |
1469 |
千葉氏内紛の為、関東出陣中の東常縁が落城の報を聞き悲願にくれ和歌を詠み(あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔もなほ恋しき)を幕臣・浜春利から兄、豊後守康慶をへて斎藤妙椿の耳に入り以後、歌道を好み友人でもあった妙椿と常縁との歌やり取りの後、領地を返還される。 |
|
文明三年
〜 |
1471 |
東常縁が連歌師、飯尾宗祇に古今伝授 |
天文八年 |
1539 |
東氏一族とされ畑佐城(明宝)を拠点とする畑佐氏、兄弟の内紛が起こり安養寺との絡みもあり飛騨の三木氏(姉小路)・三木直綱が出兵し和良鹿倉の畑佐玄蕃を打ち破る。(明細不明とされる) |
|
天文九年 |
1540 |
越前の朝倉氏が穴馬(福井県和泉村)から郡上に侵入、長瀧寺に陣取り東氏の篠脇城を攻めるが、攻略出来ず退却。遠藤氏(盛数、胤縁)や、有力な郷士等の活躍によるとされる。 |
|
天文十年 |
1541 |
美濃東氏13代東常慶、小駄良(八幡町)の郷士、和田氏を滅ぼす。東常慶、阿千葉城の鷲見氏を攻め落城させる、後に鷲見氏とは飛騨照蓮寺の仲介で和睦。東常慶、東益之時代の赤谷山城(八幡町)付近に東殿山城築城。 |
|
天文十九年 |
1550 |
遠藤盛数の嫡男、慶隆、木越城(大和町)に生まれる。 |
永禄二年 |
1559 |
東常慶の子、常堯により、遠藤盛数の兄、木越城主遠藤胤縁が暗殺された為、東常慶の娘婿でもある遠藤盛数、兵を集め、東殿山城(赤谷山城)の対岸牛首山(八幡山)の頂上に陣をしき砦を構え、東殿山へ攻め込み落城させる。常慶は没し(落ち延びたともされる)、常堯は飛騨白川へ落ち延びる。以後、郡上を治めて行く事となる遠藤氏は、遠藤盛数(八幡城)、胤縁の子の遠藤胤俊(木越城)と共に郡上を二分して領し、郡内各地の豪族、郷士もほぼ両遠藤氏に服従する。 |
|
永禄四年 |
1561 |
東常堯、烏帽子山城に拠り遠藤氏と為真の飯盛山(白鳥町)にて戦い敗退する。(その後、東常堯は天正十三年(1585)大地震により内ヶ島氏の帰雲城の埋没と共に没したとされる。) |
|
永禄五年 |
1562 |
美濃国では守護土岐氏時代から、斎藤氏に変わりまた、斎藤氏の内紛により斎藤義竜の子、竜興が治める時代、竜興に服従した郡上両遠藤氏、美濃稲葉山城攻略を目指し攻めよせる尾張の織田信長方の軍と戦い奮戦する遠藤盛数だが、井ノ口(岐阜市)にて病没。盛数の後家督を継承する嫡子の遠藤慶隆、わずか13才の為、母を斎藤龍興の叔父関城主永井道利と再婚させ、永井道利を後見人とする。 |
|
永禄六年〜
永禄十一年 |
1563
〜
1568 |
遠藤慶隆、安藤守就の娘を妻とする。郡上の鷲見氏や、他の地侍などの一揆勃発するが遠藤慶隆らこれらを治める。郡上両遠藤氏の内紛。織田信長により斎藤龍興の稲葉山城落城の折り参軍していた遠藤慶隆、弟の慶胤と現山県郡美山町深瀬に敗走。この時、遠藤胤俊、深瀬に刺客を送る。鶴尾山城に移った慶隆、永井氏に援軍を要求するなど、木越城遠藤胤俊と決戦決意、が後、胤俊と和睦を結ぶ。 |
|
永禄十二年 |
1569 |
斎藤氏滅亡後、織田信長に服従した遠藤慶隆、郡上郡を安諸される飛騨三木氏、三木自綱(姉小路)、が郡上の畑佐氏、佐藤氏など他の諸士と共に郡内を侵略する、両遠藤氏は安養寺の加勢もあり激戦の末、三木氏を敗退させる、のち三木氏とは和睦。また慶隆の妻(安藤守就の娘)没の為、三木自綱の妹を妻に迎えた、また三木直綱の子を養子とする。(慶利) |
|
元亀一年 |
1570 |
岐阜から京都に在り天下統一を目指す織田信長、信長により京都を追われた将軍足利義昭の謀略もあり信長と反信長勢力と戦いが続く中、その織田信長に随身する郡上両遠藤氏は織田、徳川軍、対、浅井、朝倉軍の戦いとなった、姉川の合戦にも参戦、部将森可成の与力衆とし奮戦する。堅田の戦いでは木越城の遠藤胤俊が多数の兵と共に討死にする。 |
|
元亀二年 |
1571 |
浅井、朝倉氏と結ぶ本願寺に対する信長による比叡山焼き討ちに郡上両遠藤氏も参軍する。 |
|
天正一年 |
1573 |
甲斐の武田氏との連携もあり浅井氏、朝倉氏、本願寺など反信長勢力が信長包囲網を築くとき、郡上の安養寺の意向もあり信長に服従しながらも武田氏とも内通をしていた遠藤氏、のち武田信玄が病没し、武田氏との内通を察していた織田信長が郡上へ軍勢を派遣、遠藤慶隆は降伏を申し立て事無きを得、以後は信長に完全に服従する。 |
|
天正二年 |
1574 |
織田信長軍、信忠軍の旗本馬廻衆の美濃衆とする、津保梶田(加治田)城主(武儀郡武儀郡武儀町、上之保村)斎藤新五郎と、遠藤慶隆との合戦が起こる。 |
|
天正三年 |
1575 |
五月、武田信玄没後の家督を継承した武田勝頼と織田信長、徳川家康連合軍との長篠の戦いに遠藤慶隆は弟の慶胤を派遣、織田、徳川連合軍に従軍した慶胤は鳶巣山にて戦功をあげる。八月、信長の越前一向一揆討伐に金森長近の与力として従軍、日根野弘就(備中守)兄弟の軍と共に穴馬城を攻め落とし戦功をあげる。 |
|
天正四年 |
1576 |
織田信長が以前より伊勢の平定を狙い攻略を行ってきた、伊勢北畠氏勢力の大河内城を攻める、この時、遠藤慶隆の名代として、弟慶胤が派遣され従軍する。 |
|
天正五年 |
1577 |
郡上の栗栖郷の別府氏、別府弾正(遠藤氏家臣)が一揆謀反を起こす、遠藤氏家臣がこれを討ち、郡上の別府氏は謀反人として飛騨に追われ郡上の別府氏は滅びたとされる。遠藤慶隆息女、山本様生まれる。 |
|
天正八年 |
1580 |
遠藤慶隆息女と金森長近の養子とされる金森可重(出雲守)が祝言をおこない、この時慶隆は左馬介と改名したとされる。 |
|
天正十年 |
1582 |
織田信長による武田氏討伐が行われ、慶隆、胤基は金森長近軍に属し甲斐へ攻め込む、その後、武田勝頼は信長方勢力に追いつめられ自殺し武田氏は滅亡。六月、明智光秀により本能寺の変が起こり、織田信長、信忠が没する。のち光秀軍を山崎の戦いにて破った秀吉の勢力が強まる中郡上遠藤氏は秀吉により美濃国を領国とされた信長の三男、織田信孝に服従し、信孝の命で美濃国内で信孝に服従しない諸士、武儀の長屋氏の城を慶隆が、山県の深尾氏の城を慶胤が攻め降伏させる。 |
|
天正十一年 |
1583 |
秀吉と信孝に不和が生じ対立し、信孝を支援する柴田勝家が賎ヶ嶽の戦いで敗れるなど、信孝方が追い込まれる中、遠藤慶隆は出兵し,秀吉方に応じる美濃国の諸士の妨害も受けるが、これらを攻略し立花山(美濃市)に陣を張り、近郷を占拠し岐阜城の信孝に応じたが、秀吉方の森長可などの軍勢に包囲される、慶隆方の全滅寸前に岐阜の信孝降伏が伝えられ、慶隆も降伏勧告し和議が成立する。以後郡上遠藤氏は秀吉に服従し随身する。この年、秀吉の伊勢、滝川氏攻めに両遠藤氏参軍する。 |
|
天正十二年 |
1584 |
徳川家康と手を組んだ織田信長の次男、信雄と秀吉に対立が起こる、小牧、長久手の戦いでは、両遠藤氏は森長可軍に参軍し奮戦するが大敗。 |
|
天正十三年 |
1585 |
秀吉の紀州の雑賀氏、太田村城攻めに両遠藤氏参軍。同年、秀吉が越中佐々成政を攻める折り、佐々成政と同盟している飛騨三木氏を秀吉の命により金森長近が攻める、金森長近軍に遠藤慶隆、胤基らの弟、慶直胤安が参軍するが敗北、慶直は討死にする。その後、飛騨三木氏は金森軍に敗北し滅亡。 |
|
天正十五年 |
1587 |
秀吉の九州攻めに従い、両遠藤氏も参軍する。遠藤胤基の弟、胤安討死。 |
|
天正十六年 |
1588 |
秀吉の命により郡上両遠藤氏減封され、慶隆、胤基ともそれぞれ加茂郡小原加茂郡犬地(加茂郡白川町)に左遷される。郡上は稲葉一鉄の子稲葉貞通に領される。 |
|
天正十八年
〜
慶長四年 |
1590
〜
1599 |
郡上へ入部した稲葉貞通が、八幡城の改修を行う。豊臣秀吉が小田原北条氏を攻める、遠藤氏参軍。徳川家康、江戸城入城。秀吉の朝鮮主兵、遠藤氏、豊臣信秀に属し参軍。遠藤胤基、長門で没する。秀吉没する。 |
|
慶長五年 |
|
豊臣対徳川の関ヶ原合戦の前、加茂郡へ左遷させられていた遠藤氏による八幡城攻めが行われる。郡上を領していた稲葉貞通は豊臣方に加担し徳川方の西上に備え犬山城に移っていたが、東軍に攻められ、降伏し東軍に服従する。郡上では遠藤氏と、城を守る稲葉氏との激戦が続くが、稲葉貞通が郡上へ戻り遠藤氏と和睦する。徳川家康方勝利の関ヶ原合戦後は、稲葉氏は家康により豊後(大分県)に移され遠藤慶隆が郡上2万7千石へ復帰する。以後遠藤氏は郡上藩主となる。 |
|
戻る |
|
|