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えんどう                    
遠藤氏
(美濃)
東殿山の赤谷山城を攻め討ち、東氏に変わり、郡上を支配し、また八幡城と城下町を築きあげた遠藤氏、その初代八幡城主の遠藤盛数と兄の木越城主(大和町)遠藤胤縁は父とされる胤好その祖とされる盛好、盛胤、に至り東常縁の末裔との伝えがありますが、明細は不明の用です。
(東常縁以降の、数縁(頼数)、元胤、常和、宗龍、盛胤にそれぞれ気良庄、山田庄が継承された時それぞれ畑佐、遠藤の姓を称しその中の盛胤が常縁の子で遠藤盛数は東常縁の子孫であるという。)
またその他に郡上遠藤氏の祖とされる盛胤やそれ以前についても明細は不明ということですが、東氏初代・東胤頼の舅にあたる遠藤持遠の子、遠藤盛遠(後の文覚上人)が摂津国渡辺党の武士で、その系統でもあるともされています。

(盛胤の父、盛隆とその父、持盛は鎌倉公方足利持氏に遣えたが、持氏は永享11年に上杉憲実からの命を奉じた上杉持朝・千葉介胤直によって討たれ、遠藤持盛、盛隆は落ち延びて流浪し、宝徳元年に将軍足利義政に仕えたとされます同年正月、京都土岐邸に預けられていた持氏の末子永寿丸王(足利成氏)が関東へ下っており、永寿王が京都に連れられた嘉吉元年(1441)永寿王とともに遠藤父子は上洛して土岐邸に預けられ、永寿王が鎌倉に下るにあたって、遠藤盛隆は将軍家に召された可能性もあり、その土岐氏の縁により濃州(美濃)を所領された可能性もあるとされます。
また盛胤の父、盛隆その父、持盛の祖は摂津渡辺党の武士、遠藤盛遠で、遠藤盛遠(文覚上人)の子、遠藤盛正(兵庫頭)は鎌倉幕府の御家人となり、その子盛広(盛治?)は美濃国に所領を与えられ、土岐光行と関係を持ち、その子盛勝は土岐光定、頼貞に仕え、暦応3年に亡くなったとされます。その子孫の遠藤胤任は土岐頼芸に仕えていましたが、頼芸が斎藤道三によって討たれたため浪人。その後、斎藤義龍に遣えたとされます。)
つまり美濃国守護土岐氏の時代、美濃の気良庄を所領され地頭代となった遠藤氏がのち東氏の幕下で勢力をつけた、この遠藤氏系の盛胤などは土岐政房につかえ但馬守、左馬助を官途名としていることから、後の郡上藩主遠藤家が称する官途名と一致するため、郡上統一に至った遠藤氏である可能性が高いとされています。
東中務(元胤)に京都四条で遠藤但馬守りが討伐される伝えがありますが、遠藤但馬守は盛胤、好任、盛好(盛数の父の胤好の父?)の辺りでは無いかとされています。)
遠藤盛数は天文二十一年(1552)鶴尾山城(林広院山)を築城し、東氏の有力武将として活躍しましたが常慶の子、常堯との争いで(後継問題、婚姻関係、常慶の勢力取り潰し策の一環ともされる)兄胤縁は暗殺され、怒った盛数は土豪たちを集め(反東氏勢力など)八幡山頂上に陣を構え、東殿山城(赤谷山)を攻め激戦ののちに落城させます。東常慶は自害(逃げたともされる)常堯は白川郷で提携を結んでいた有力な内ヶ島氏を頼り落ち延び、その後再興を謀って遠藤氏を攻めましたが、力及ばず、天正13年(1585)白川谷の大地震により没したとされます。その後盛数は八幡城を築き、郡上を統一して、亡兄胤縁の子、木越城城主胤俊と郡上を二分し支配したとされます。また盛数の嫡男、慶隆が天文十九年(1550)木越城で生まれており。父の遠藤盛数は東氏を滅ぼした後、美濃国斎藤氏、斎藤竜興につかえており美濃に攻め込んだ織田信長の軍と戦い奮戦していましたが、井ノ口(岐阜市)で没しました。そのため家督を継承する慶隆ですがその頃わずか13才で郡上の情勢も不安定であった為、慶隆の母(東常慶の娘)を関城主、長井道利と再婚させ、慶隆の後見人としたとされます。その後、斎藤竜興と織田信長の稲葉山城の争いでは、慶隆と木越城主遠藤胤俊との内紛が起きたとされますが、長井氏の加勢や和議工作などにより、胤俊とは和睦を結び、郡上は政治的に安定期を迎えたとされます。
斎藤氏は織田氏に滅ぼされると、両遠藤氏(八幡城主遠藤氏と木越城主遠藤氏、両遠藤と呼ばれます)は織田氏に随身し、途中、武田氏への内通などによる織田氏との交戦等もありますが、姉川の戦い、長篠の戦い、一向一揆討伐などで奮戦し、(なお胤俊は姉川の合戦時、近江堅田において討死にしたとされる、後は弟の胤基が継承した。)そして、本能寺の変で信長が没したのち、明智光秀を討った秀吉と織田信孝、柴田勝家の争いになると両遠藤氏は信孝方につき苦戦するが、勝家は賎ヶ嶽の戦いで敗れ、信孝と秀吉と和睦が成立した為、秀吉の軍門に下ったとされます。
以後秀吉に随身するが、郡上より左遷させられ、両遠藤家とも加茂郡に移封となり、郡上八幡城主には不破郡曽根(大垣市)より稲葉貞道(稲葉一鉄嫡子)が入部しまた。
その後、朝鮮出兵等をへて転機が訪れました、慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦を前に岐阜城主織田信秀など美濃国中の諸士は、石田三成に属し八幡城の稲葉貞通も三成に属したが、両遠藤は二つに分かれ、胤基の子胤直は西軍三成へ、郡上復帰を狙う慶隆は弟慶直と東軍家康方に属するとしました、慶隆は東軍に属し八幡城を奪回すべく志を家康に伝えると、家康は喜び、遠藤に郡上を与える旨の許可書を与えたとされ、また金森可重に加勢するよう命じたとされます、稲葉貞道は子典通と犬山城に出陣のため八幡城は、末子の通孝と家老少数の家臣だったとされます、慶隆は八幡城を攻め、途中犬山城の稲葉貞道は東軍に囲まれ降伏開城し東軍に転じ伝えられましたが、慶隆は攻撃を中止せず、激戦になったとされます、のち和睦を結び、直ちに郡上を引き取り、白川佐見へ胤直のいる上ヶ根の砦を包囲説得し、降伏させたとされます、のち家康は金森可重の懇請にかかわらず胤直が慶隆に敵対したことを許さず、領地を没収し、胤直の末路は不明とされます。
また遠藤慶隆らは関ヶ原へ急行し家康の御旗本に備え、そして戦後八幡城に復帰して二万七千石を領しました。後の江戸幕府体制で郡上藩主遠藤家とされ慶隆没後は、慶利(三木直綱より養子)が違領をつぎ、常友、常春、常久と継承されていきます。(途中延宝騒動起こる)
常久が没すると幕府は郡上領を没収、御家断絶となるところ、幕府忠誠を追賞され大垣藩主の一門戸田氏成の養子、数馬胤親に名跡を継がさせて遠藤胤親と称させ、改めて常陸(茨城県)下野(栃木県)などに1万石を与えられ転封し、その後常陸、下野から近江三上(滋賀県野洲郡)などに転封されて明治にいたり和泉吉見に移り吉見藩とされました。
明治11年(1878)子爵に叙爵された子孫の遠藤胤城は、勅許を得て「東」に復姓し、遠藤氏は消滅したとされています。
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