日吉神社/遠藤慶隆(千代の兄)が勧請
日吉(ひよし)神社のおこり
日吉神社は日枝(ひえ)神社ともいい、京都比叡山(ひえいざん)地神(ぢがみ)として古代から(まつ)られて来ました。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、五穀豊穣(ごこくほうじょう)大年神(おおとしがみ)の子供です。山の神として日本各地で(まつ)られています。
 
郡上領主・遠藤慶隆(よしたか)勧請(かんじょう)
郡上では安久田(あくだ)が古くから勧請(かんじょう)していました。比叡山(ひえいざん)(まつ)られたこの神は、京都の王城鎮護(おうじょうちんご)の神として(まつ)られていたので、時の郡上領主の遠藤慶隆(よしたか)は八幡の守りとして安久田(あくだ)から現在の位置に勧請(かんじょう)して来ました。江戸時代の古い町の絵図面を見ると「若宮山王(さんのう)」と記してあります。
 
慶隆(よしたか)、戦に破れ日吉神社を返す
遠藤慶隆(よしたか)はこの神を大切に(まつ)っていましたが、1600年(慶長5)八幡城の合戦(=稲葉貞通(さだみち)から八幡を奪還)で非常に大事にしていた5人の家来をなくしてしまい、悲しみに暮れた慶隆(よしたか)はこの神様を元の安久田(あくだ)へ返してしまいました。
 
慶隆(よしたか)死後に、妻が元へ戻す。
その後、1632年(寛永9)遠藤慶隆(よしたか)がなくなった後、奥方の智勝院殿惟芳大姉(ちしょういんでんゆいほうだいし)が恐れ多い事として、再び今の地にお迎えしました。この日吉神社は西の方を向いて建てられていますが、これは比叡山(ひえいざん)の方を向いて建てられているからです。また、安久田(あくだ)の日吉神社の社地は現在でも大事に守られています。
遠藤慶隆(よしたか)は山内一豊(かずとよ)の妻(見性院(けんしょういん)=千代)の兄上 (←ここをクリック)
10月5日に一豊(かずとよ)&千代サミットが八幡でありますが、見性院(けんしょういん)様(山内一豊(かずとよ)の妻)の兄である遠藤慶隆(よしたか)公の御縁をもって日吉神社の神楽をアトラクションとして奉納していただくのです。どうぞ、町内の皆様、(ふる)って御出かけ下さい。

 

(創作紙芝居「お千代物語」もあります。お楽しみに!)


この記事は、2002年(平成14年)、郡上八幡で第9回山内一豊公&千代様サミットが行われた年のものです。十八代当主の山内豊秋さんが、郡上遠藤氏説を公(おおやけ)に支持表明された画期的な年でした。翌年、豊秋さんは90歳でお亡くなりになりました。      お話:佐藤とき子(山内一豊夫人顕彰会副会長)  記録:川上朝史