県党議員研修会 2003年7月5日(土)  萩原町にて
 
 朝11時、野田龍雄議員の車で服部政子議員と私の3人が八幡を出発。明方のせせらぎ街道をひた走り清見村パスカル清見のラベンダー園を過ぎてすぐ、右折してトンネルをくぐり馬瀬村へ向う。国道257号線だ。初めて通るが、途中馬瀬川のキャンプ場など自然がとても美しい。上高地のような所も。1時間ちょっとして、やがて萩原の町が見えた。お昼は市街地「きじ亭」で値打ちな鉄火丼。
 1時、飛騨萩原町あさんず会館にて4時半まで、中央委員会教育部次長・可児正氏の講演を聞く。
演題は「綱領改定案」について。不破哲三議長の7中総での説明を多彩な資料を付けて幅を広げて話す。やや、難い話と、昼食後のことで眠らないよう頑張る。飲物で必死に。

睡魔と戦い、頭に残った点は、
 天皇制はいまの憲法のもとでは戦前と違い天皇の政治的行為はしないように規定されている。天皇を特別扱いすることもおかしい。ただ、、天皇制を認めるとかいうものでもない。将来、国民の総意でどう迎え入れるかである。マスコミの天皇制容認とはどこを言うのか。

 日本経済がアメリカに従属しているという規定は続いている。自立できない大国である。いともおかしいが、その通りである。

 社会主義と共産主義の言葉の違いをマルクスは特に区別無く使っていたようで、共産主義が上で、その前が社会主義ということは無かったようだ。また将来に富の分配についても、欲望はたやすく“これだけ”と、決めれるものではないので書かないのが正しいという。ただ、生産手段の社会化を図ることが大事に。

宿泊所・位山(くらいやま)自然の家で
 広い食堂で、皆で夕食をとる。貝の味噌汁、えび・野菜のてんぷら、塩いかキュウリ、カレイの煮付けなどご飯も2杯食べる。一人不参加者の分を隣の(美しい)吾郷議員に勧められそれも食べたのでお腹一杯。部屋で萩原の本を読んで静かに過す。風呂も気持ちよかった。部屋は4人が一室で。廊下の奥のほうの部屋では美並の河合潔議員の「古調川崎」の大きな歌声など盛り上がっている様子。

古い萩原の町のこと
 昔の道は、上呂から「あさんづの橋」を渡って尾崎・山之口を通り位山峠を越えて北へ行くのが飛騨の官道でした(「萩原の史跡と史話」より)

 あさんず(=浅水)とは    昔、浅水橋という名所があり、1000年以上昔より官立道路が京都より飛騨国府町まであったのですが、途中に浅水橋や位山街道もありました。天正14(1586)年、金森長近が飛騨を治めはじめ小坂から久々野へ出る河内路を開いたので位山道は廃れました。江戸時代、昔をしのんで長谷川代官は今は無い名所「あさんず橋」の石碑を作りましたた。(「終古 阿さん川の橋所」)。あるとき、洪水で橋の台木が2本出てきて橋の位置がわかったそうです。(「飛州史」)

 私が吾郷武日さんと初めて会ったとき、名刺に萩原町桜洞と印刷してあり少しドキッとしました。郡上一揆のことを書いた「濃北一覧ー金氏苛政録」の金森氏由来のところに、桜洞城のことが出てきて頭に引っかかっていたからです。私の感があたりました。
 桜洞城・・・応仁の乱後、飛騨は神岡の江馬・古川の姉小路・益田の三木が割拠。京極家家臣の三木氏は萩原に桜洞城を築き益田を治め大野・吉城郡へと進出。築城は3代重頼に始まり4代直頼のとき完成。長さ180メートルにわたる。直頼・良頼・自綱三代居城。三木自綱、高山の松倉城へ進出、桜洞は出城になり「冬城」と呼ばれる。天正13年(1585)、金森長近に三木自綱が破れ桜洞城は取り壊される。金森家の御神木と祭は今に続く。
歴史の発見は思わぬ所から、の思いです。

久津八幡宮本殿(国指定重要文化財)−−三間社流造
ここも気になるお宮ですが調べるのは後ほど・・・    ※ この施設にはプラネタリウムがあり星の観測も出来そうです!

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