「ふたつの悲しみ」に出席者おもわず涙
「郡上憲法九条の会」準備会で 2005年2月10日(木)夜7時半から9時55分
郡上市総合文化センター 会議室
お寺の住職のZさんが「ふたつの悲しみ」(杉山龍丸)というお話をプリントしてお持ち下さいました。Zさんは、自分は読むと泣いてしまうから読めないというので、議長役のYさんが地歌舞伎役者の経験のあるXさんを指名しました。
「ふたつの悲しみ」─杉山龍丸(1919〜1987)
・・・略・・・
これは私が経験したことです。
第2次大戦が終り、多くの日本の兵士が帰国して来る復員の事務についていた、ある暑い日の出来事でした。
私達は、毎日毎日訪れて来る家族の人々に、貴方の息子さんは、御主人は亡くなった、死んだ、死んだと伝える苦しい仕事をしていた。
留守家族の多くの人は、ほとんどやせおとろえ、ボロに等しい服装が多かった。
そこへ、ずんぐり肥った、立派な服装をした紳士が隣の友人のところへ来た。
隣は、ニューギニア派遣の係りであった。
その人は、
「ニューギニアに行った、私の息子は?」と、名前を言って、たずねた。
友人は、帳簿をめくって、
「貴方の息子さんは、ニューギニアのホーランジャで戦死されておられます」と答えた。
その人は、その瞬間、眼をカッと開き口をピクッとふるわして、黙って立っていたが、くるっと向きをかえて帰って行かれた。
人が死んだということは、いくら経験しても、又くりかえしても、慣れるということはない。
言うこともまた、側で聞くことも自分自身の内部に恐怖が走るものである。
それは意識以外の生理現象が起きる。
友人は言った後、しばらくして、パタンと帳簿を閉じ、頭を抱えた。
私は黙って便所に立った。
そして階段のところに来た時、さっきの人が、階段の曲がり角の広場の隅の暗がりに、白いパナマの帽子に顔を当てて壁板にもたれるように、立っていた。
瞬間、私は気分が悪いのかと思い、声をかけようとして、足を一段階段に下ろしたとき、その人の肩は、ブル、ブル、ふるえ、足もとに、したたり落ちた水滴のたまりがあるのに気づいた。
その水滴は、パナマ帽から溢れ、したたり落ちていた。
肩のふるえは、声をあげたいのを必死にこらえているものであった。
どれだけたったかはわからないが、私はそっと、自分の部屋に引返した。
次の日、久し振りにほとんど留守家族が来ないので、やれやれとしているとき、ふと気がつくと、私の机から頭だけ見えるくらいの少女が、チョコンと立って、私の顔をマジ、マジと見つめていた。
私が姿勢を正して、なにかを問いかけようとすると、
「あたち、小学校2年生なの。おとうちゃんは、フィリッピンに行ったの。おとうちゃんの名は○○○○なの。いえには、おじいちゃんと、おばあちゃんがいるけど、たべものがわるいので、びょうきして、ねているの。・・・・・・・・・・・・・それで、それで、わたしに、この手紙をもって、おとうちゃんのことを聞いておいでというので、あたし、きたの」
顔中に汗をしたたらせて、一息にこれだけ言うと、大きく肩で息をした。
私はだまって机の上に差し出した小さい手から葉書を見ると、復員局からの通知書があった。
住所は東京都の中野であった。
私は帳簿をめくって、氏名のところを見ると、フィリッピンのルソン島のバギオで戦死になっていた。
「あなたのお父さんは・・・」といいかけて、私は少女の顔を見た。
やせた、真っ黒な顔、伸びたオカッパの下に切れの長い眼を、一杯に開いて、私のくちびるを見つめていた。
私は少女に答えねばならぬ。答えねばならぬと体の中に走る戦慄を精一杯おさえて、どんな声で答えたかはわからない。
「あなたのお父さんは、戦死しておられるのです」
といって、声が続かなくなった。
瞬間少女は、一杯に開いた眼を更にパッと開き、そして、わっと、べそをかきそうになった。
涙が、眼一杯に溢れそうになるのを必死にこらえていた。
それを見ている内に、私の眼が、涙にあふれてほほをつたわりはじめた。
私の方が声をあげて泣きたくなった。しかし、少女は、
「あたし、おじいちゃまからいわれてきたの。おとうちゃまが、戦死していたら、係りのおじちゃまに、おとうちゃまの戦死したところと、戦死した、じょうきょう、じょうきょうですね、それを、かいて、もらっておいで、といわれたの」
私はだまって、うなずいて、紙を出して、書こうとして、うつむいた瞬間、紙の上にポタ、ポタ、涙が落ちて、書けなくなった。
少女は不思議そうに、私の顔を見つめていたのに困った。
やっと、書き終って、封筒に入れ、少女に渡すと、小さい手で、ポケットに大切にしまいこんで、腕で押さえて、うなだれた。
涙一滴、落さず一声もあげなかった。
肩に手をやって、なにか言おうと思い、顔をのぞき込むと、下くちびるを血が出るようかみしめて、カッと眼を開いて肩で息をしていた。
私は、声を呑んで、しばらくして、
「お一人で、帰れるの」
と聞いた。
少女は、私の顔を見つめて、
「あたし、おじいちゃまに、いわれたの、泣いては、いけないって。
おじいちゃまから、おばあちゃまから電車賃をもらって、電車を教えてもらったの。だから、ゆけるね、となんども、なんども、いわれたの」
と、あらためて、自分に言い聞かせるように、こっくりと、私にうなずいてみせた。
私は体中が熱くなってしまった。
帰る途中で、私に話した。
「あたし、いもうとが二人いるのよ。おかあさんも、死んだの。だから、あたしが、しっかりしなくてはならないんだって。あたしは、泣いてはいけないんだって」
と、小さな手をひく私の手に、何度も何度も、いう言葉だけが、私の頭の中をぐるぐる廻っていた。
どうなるのであろうか、私は一体なんなのか、なにが出来るのか?
戦争は、大きな、大きな、なにかを奪った。
悲しみ以上のなにか、かけがえのないものを奪った。
私たちは、この二つのことから、この悲しみから、なにを考えるべきであろうか。
私たちはなにをすべきであろうか。
声なき声は、そこにあると思う。
読んでくださったXさんの声も泣き出しそうなのを懸命にこらえて朗読してくださいました。聞いている私たちも涙がこぼれそうでした。
あなたの行動をお待ちしています。
私はフィリッピンのルソン島バギオと聞いてこれにも驚きました。このバギオの戦闘において私の身内も戦死してます。仏壇にある過去帳を見て知っていました。私の義父の兄です。昭和20年2月22日、上の物語の少女の父と同様にバギオで戦死しました。一番悲しんだのは義母です。もの心つかない一人の小さい女の子がいました。私の妻の姉です。悲しみは一つ増えて「三つの悲しみ」に行き着きます。戦後、義母は弟と結婚しました。
我家にもこの女の子と同様に戦争が大きく影を落していました。
(もう10年近く前でしょうか。同級生の宴会でフィリッピンの女性にバギオを知ってるかと聞きました。片言の日本語で彼女は開けていない土地のようなことを言ったので、私は草深いジャングルを連想しました。)