山内一豊妻(見性院)は八幡城主遠藤盛数の娘
賢夫人として名高い山内一豊公室・見性院について、郡上では古くから初代八幡城主・遠藤盛数娘と伝えられていた。しかし一般には近江国坂田郡の出、「若宮喜助友興娘」という説が、山内家においてすら疑問を持たれつつも、研究し尽くされないまま今日にいたっている。
郡上には東家系図・長滝寺文書・遠藤系図・日置系図・畑佐系図などがゆかりの寺院・家に伝わりその中には明らかに遠藤盛数娘・慶隆妹が山内一豊室と記されていた。大正年間、編纂を試みた『郡上郡史』にも掲載予定であった。しかし、
重要なこととしては、見性院の母(友順尼)は東家13代常慶の娘であったことである。夫盛数死去の後、関城主の永井隼人に再嫁、不幸にも信長により関落城のあと親戚安東家深尾家近江浅井領などを流浪した。この間、友順尼の生家より伝えられていた東常縁直筆の古今和歌集・徒然草などは常に友順尼のもとで守り運ばれていた。これを終生助けたのは東家以来の付け人・埴生(はぶ)太郎左衛門高照であった。娘・見性院が一豊と結婚をした頃、母友順尼は石山合戦から逃れていた教如上人に出会い得度を受け従者と共にふるさとの乗性寺(現在の郡上市美並町)に入った。
一方、見性院の兄・遠藤慶隆や山内一豊たちは小牧長久手の戦い、又秀吉の越中攻めに同じ陣中で生死を共にしている。最近この陣立表の現物が発見され慶隆と一豊の深い親戚関係が証拠立てられた。
さらに一豊妻とされている近江の若宮女マツは、一豊の家臣である五藤為重に嫁いでいることが古文書や五藤家の墓によって明らかにされている。もっとも決定的なものは若宮の従者牛尾田の手紙と、「若宮外記仲間」の由来であった。
見性院は京都において元和3年(1617)死去されるが友順より見性院へ渡った東常縁直筆の古今和歌集などを遺品として山内家へ渡された。これらはしばらく後に徳川幕府へ献上されたことが山内家家史にも徳川幕府の記録にもはっきり記されている。
以上のような多くの事実は見性院が古今伝授の大家東家の血筋を引く姫であったということを強く物語っている。
一昨年、郡上八幡で開かれた第9回一豊&千代サミットの席上、第18代当主・山内豊秋様はこれだけ史料の整えられた郡上説を強く支持をされた。豊秋様は前後8回余郡上の調査に足を運ばれている。
《参考》長瀧寺経聞坊の系図 山内一豊夫人顕彰会へ